岩田行雄の憲法便り・日刊憲法新聞

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2013年 08月 09日

憲法便り#182 昭和20年8月9日私の家族も小名浜で米軍の爆撃を受けました

外務省編纂『終戦史録』の「太平洋戦争日歴」昭和20年8月9日(木)に米機動部隊奥羽及関東空襲とあります。詳しい地名は書かれていませんが、福島県の小名浜も空襲に遭いました。

昭和20年3月9日から10日にかけての東京大空襲のあと、東京・葛飾に住んでいた私たちの家族(母と子ども4人)は、父および女子挺身隊として「落下傘工場」で働いていた15歳の姉を東京に残し、母方の親戚を頼って、福島に縁故疎開をしました。最初の疎開地は小高でしたが、小名浜の親戚がより広い住居を提供してくれるということになり、転居しました。
ところが、この転居の結果、空爆により「焼け出される」ことになります。
のちに判ったことですが、小名浜には、通信塔があったために、これが軍事施設として、艦砲射撃や空襲の標的にされたと聞いています。

詳しい記録に基づく正確な話は、別の機会に譲ることにして、今日は、幼い私の記憶に残っていることを書きます。

空襲を受けた昭和20年8月9日、私はまだ2歳と11カ月、3歳の誕生日を迎える前でしたが、その時のことは脳裏に焼き付いています。

この日は、青空がきれいな日でした。突然の空襲警報で、私は母について庭の前の小さな山に登り、防空壕に入りました。
その直後、大きな爆音と共に、防空壕の上を何機もの米軍の爆撃機が飛んで来ました。

防空壕の入り口には扉がなく、入り口に近いところからは外がよく見えます。
外の様子を窺うため、母が入口に近づいた時、母の肩越しに私も外の様子を見ました。

対空砲火がないことを知っている米軍機は、手が届くほどの低空を飛び、藁ぶき屋根の農家めがけて、焼夷弾をばらまいて行きました。

恐ろしい爆音が遠のいた頃、私たち家族が仮住まいをしていた「離れ」の屋根から煙が上がり始め、親戚の「あんちゃん」たちが屋根に上り、袢纏でたたいて火を消そうとしますが、藁ぶき屋根に突き刺さった焼夷弾の火は消えません。
やがて家はオレンジ色の炎を挙げて燃え始めました。離れの火は、母屋に燃え広がり、親戚の家は全焼しました。
頭上にあった大きな爆撃機とこの日の青空とオレンジ色の炎は、未だに鮮明に覚えています。

4歳年上で、当時小学一年生だった姉は、焼跡にたたずんでいた母が、米を入れて置いたブリキの一斗缶の中を見て、「あーあ、みんな炭になっちゃった」と嘆いていたことを覚えています。私の家族はこの火災で、米だけではなく、東京から持って来ていた少しばかりの持ち物も、すべて焼かれてしまいました。
幸いにして、私たち家族は命をおとすことも、怪我をすることもありませんでしたが、東北および関東各地では、多くの人たちが爆撃を受けました。

そして、当時の私たちには知る由もありませんでしたが、この日、長崎に原子爆弾が投下されました。

「太平洋戦争日歴」をずっと辿ってきていますが、戦争指導者たちの判断力、決断力のなさが、多くの悲劇を生み出したことを、ここで強く指摘しておきます。

今日ここに記したことが、私が戦争に反対する活動の原点になっています。


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by kenpou-dayori | 2013-08-09 15:30 | 太平洋戦争日歴


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