2015年 05月 11日

憲法便り#985 「法制局は第九条をどのように説明したか」:『検証・憲法第九条の誕生』(第六版)より

2015年5月11日(月)(憲法千話)
同日、ツイッター向けに改題:法制局は第九条をどのように説明したか

憲法便り#985 連載『検証・憲法第九条の誕生』(第六版):第二章 法制局は第九条をどのように説明したか


『検証・憲法第九条の誕生』(増補・改訂 第六版)
第二章 法制局は第九条をどのよう説明したか


憲法草案の準備過程については、次の第三章で詳しく述べるが、昭和二一年二月から本格化した。そしてこの時期に、条文の検討と併行して、法制局により政府の説明用および答弁用の文書が作成された。
そのひとつは昭和二十一年四月と六月に作成された『憲法改正草案に関する想定問答』であり、もうひとつは昭和二十一年四月と五月に作成された『憲法改正草案逐条説明』である。この二つの文書から、第九条に関する部分を紹介する。
ここで特に強調しておきたいのは、これらの文書全体に貫かれている徹底した平和主義と格調の高さであり、その根底にあるのは日本が行なった侵略戦争への真摯(しんし)な反省である。そして、これが「左翼的人士」の文章ではなく、法制局の役人が自ら準備した政府答弁用の文章だという事実である。

昭和二十一年四月 法制局作成
憲法改正草案に関する想定問答〔第三輯(しゅう)〕

問 第九條第二項は、何故受身に書いてあるか。
答 この書き方は、かく受身にしたことにより、むしろ劃期的な意味を持つ。(第三章【資料七】参照)
そもそも戰爭とは國際社会の事件である。しかして、従来は、各國の主権は、最高独立のものであって、國際聨盟その他の國際團体の下に立つことは、事實的には勿論、論理的にも否定されたのである。しかし、今后はかかる態度では、到底人類の安全を保全できない。國際聨合から更に世界聨邦へとの意見の散見する所以である。
わが國の主権は今や聨合國最高司令官の権限の制限の下にある。その事態を発展的に觀察するときは、右の國際法秩序優位論的立場に副ふものといふことが出来よう。
本條を受身に表現したことは、戰爭抛棄といふ國際社会的事件についてはその保障のための措置も、我が國が、その好むところに従って勝手に決めるといふよりも、國際團体の意志のあるところを察して、進んで、それに服するといふ進歩的態度をとったことを意味する。
我が國がたまたま外國の勢力下にある現状は、かかる理性的行動に出づることを容易ならしめた。しかし、これはいはば転禍為福的措置であって、断じて没理想的卑屈ではない。従って戰勝各國も、當然本條の立言方法に、将来追随すべきものである。

問 第九條の規定と自衛戰爭との関係如何
答 第九條は、まづ第一項において、いはゆる國策の具としての戰爭、すなわち侵略戰爭を、我が國が永久に抛棄する旨を規定している。
しかし、右は、夙(つと)にいはゆる不戰條約で書く締約國の義務となってゐるところであり、佛(フランス)の一七九一年憲法や西班牙(スペイン)憲法にも先例があり、それだけでは、大した新味とはいへない。のみならず、その先例は、やがて破られる運命を免れないのであって、結局戰後の一時的な人心の所産に過ぎないといへる。
そこで改正憲法は、右の實致を確保するため、二つの思い切った保障を行った。そして、その故にこそ、本條は劃期的な規定となり、空前のものといへるのである。その保障の一は、事實上侵略戰爭を不能ならしめる意味をもつものであって、陸海空軍その他の戰力の保持が許されないということであり、その保障の二は、法律上侵略戰爭を不能ならしめるものであって、國の交戰權が認められないといふことである。ここまで来ると侵略戰爭は、いかなる場合も行ふことが出来なくなり、第一項の實致は最大限度に確保され、その違反蹂躪(じゅうりん)は、考えられなくなるのである。
右の保障は徹底的であるが、しかし、そのために第一項において直接禁ぜられてゐない戰爭、すなはち自衛戰爭までできなくなるといふ結果を来す。しかしこれはやむを得ない。蓋し、(一)自衛戰爭ができる余地をのこさんとすれば、右の 事實上及び法律上の保障を撤回ないし縮少する必要を生じ、結局保障が骨抜となり、西班牙(スペイン)憲法等の類と同じ水準にまでおちることとなる。(二)自衛權の名に隠れて、侵略戰爭が行われ易く、しかも日本國は、その前科があって、その危険なしとはいへない。(三)國際聨合が成立しその武装兵力が強大となれば、自衛戰爭の實行は、事實において、これに依頼することができる。
概略以上の理由によるのである。
しかし、しからば外國の侵略に對し、常に拱手して、これを甘受しなければならないかといへば、さうではない。その地の國民が、有り合はせの武器をとって蹶起(けっき)し、抵抗することは、もとより差支へないし、又かかるゲリラ戰は相當に有効である。しかし、これは國軍による、國の交戰ではない。したがって、國の戰力はなくともできるし、國の交戰權は、必要としない。この場合の侵略軍に對する殺傷行為は、交戰權の効果として適法となるのでなく、緊急避難ないし正當防衛の法理により説明すべきものである。

問 我國に對し、外國が戰爭を仕掛けて来た場合は如何。
答 戰爭は相手があって初めて發生する現象であるから、他國が其の武力を以ってわが國に對する侵略の暴図を貫かんとする場合には、わが國が本條に定むるが如き原則を採ったならばよくその生存と安全とを全うし得るか否か憂慮する見方も一理あることを否み難い。そもそも本條の原則は理論上の自衛權の發動を否認するものではないが、實際上、戰力の保持を認められない以上は、かかる自衛權を肯定して見ても實益はない。本條の眞義を發揮し得るには、諸外國挙って同一の原則を採ることが前提であるといふべきである。従って、諸外國の意図を問わずに、一方的に本條の如き宣言をなすことは或る意味に於て、行き過ぎであるとも言い得るのであるが、かかる場合には、世界の正義感に訴えて、侵略行動を排除する方法も發見し得べく、わが國としてむしろ世界の習俗に抗し進んで理想に進むことが、却て将来のわが國の生きる途であることを疑わざる次第である。

昭和二十一年四月 法制局作成
憲法改正草案逐條説明〔第一輯(しゅう)〕より

第二章 戰爭の抛棄
第九條 本條は、わが國が今次の戰爭の経験に徴して、将来全く戰爭を抛棄することを宣言した條文であって、草案の最大の特色を成すものであり、世界に比類を見ざる徹底した平和主義の表明である。
第一項は、わが國が、他國との間に生ずることあるべき紛爭の解決の手段としては、従来國際法学者の所謂國の主權の発動として行う戰爭を永久に抛棄する旨、それから、又わが國が同様の手段としては、武力を用いて他國を威嚇すること乃至武力を行使することを、永久に抛棄する旨を定めた。又、第二項は前項を承けて、戰爭を抛棄するに伴って戰爭の為に必要とせらるる所の陸海空軍その他の戰力の保持は、わが國においては許されないこと、及び普通國の基本權として挙げらるる交戰權なるものはわが國においては認められないことを定めた。
おもふに従来の世界に於ては、各國餘りにも、紛爭の解決に、武力を手段として恃(たの)み過ぎた。その結果は「力は正義なり」(マイト・イズ・ライト)の誤れる觀念が瀰浸(びまん=ひろがりはびこる)して、世を挙げて、無批判に此の思想に奔り、國際社会に於ては正義は地を払って空しく、特に今次の世界大戰及び大東亜戰爭において此の傾向は極端に顕著と為った。これをわが國の例に徴するに戰前及戰時中を通じて戰爭及び武力行使は、他の目的を達成する手段と謂ふよりも寧ろ、夫れ自体が目的と為ったかの觀があり、偶(たまたま)、統帥権独立の慣習法あるを利して、上聰明を掩ひ、下万民を欺き、戰爭に依て、政治的、社会的或は経済的に不當の利益を得んとする、悖徳漢(はいとくかん)は遂に國を誤って國民を無限の苦悩に陥れ、剰(あまつさ)へ相手國の國民にすら譬(たと)うべくもない苦痛を蒙らしめるに至った。偖(さて)、わが國は「ポツダム」宣言の受諾に依て、辛うじて社稷(しゃしょく=国家)を保つことを得て、戰爭に終止符を打つに當り、深く過去の経緯に顧みて、反省する所あり、茲(ここ)に大悟徹底した、一挙戰爭の永久抛棄を宣言し、世界の平和愛好諸國に問わんとするのである。換言すれば、わが國は、生存と安全とを挙げて此等諸外國の誠意に委せんとするのである。おそらく、諸外國も、若しわが國民が最近十年間に嘗めた様な苦しい経験を、感悟するに至らば、進んで本條に掲げる原則を是認し、わが國の例に追随するに至ること疑を容れない。

昭和二十一年五月 法制局作成
憲法改正草案逐条説明〔第一輯(しゅう)の二〕

第二章 戰爭の抛棄
第九條 我國が、今後民主主義と共に平和主義を以って國是とすることは、前文に於て強く宣言せられて居る所であります。本章は戰爭の抛棄と題して僅か一ヶ條でありますが、力強くこの國是を闡明(せんめい)したものであり、新憲法の最も著しい特徴の一をなすものであります。これにより今後我國はいかなる場合と雖(いえど)も、主権の発動として國際紛爭の解決手段として戰爭、武力の行使に訴えないことを宣言したのであります。
この様に本條第一項は、國の主権の発動たる戦争と武力の行使とも全面的に禁止したのでありますが、第二項は第一項の実行せられることを二つの面から保障した規定であります。
即ち第二項は前段は陸海空軍その他の戰力は、これを保持してはならないと定めまして、事実上戰爭を不可能ならしめると云う面からこれを保障したものであります。(國内の治安維持のために必要な武力に関する例外規定をも設けて居ないことも亦(また)、この趣旨を徹底したものと言うべきであります。)
次に第二項後段は、法律上戰爭を不能ならしめるという面から第一項の実効を保障したのでありまして、國の交戰権はこれを認めないと云うことを定めたものであります。即ちこれにより我國が事実上他國との間に交戰状態に入ったとしても、國際法上に於ける交戰者たる地位を憲法上認められないことになるのであります。
本條が第二項に於てこの様に二つの面から思い切った保障を設ける事実上いかなる戰爭をも不可能ならしめたと云う点に本條の劃期的な意義が存すると云ふことが出来ます。即ち國策の是としての戰爭の抛棄に関しては夙(つと)に不戰條約の定める所であり、又憲法としても一七九一年のフランス憲法や一九三一年のスペイン憲法に於て同種の規定が見られるのでありますが、それは何れも自衛権の濫用(らんよう)の余地を残し、且ついかなる戰爭も不能ならしめるための保障を欠いて居たのであります。しかるに我が國は今次敗戰の齎した破局に深く鑑みる所あり、いかなる戰爭をも発生せしめぬという固き決意に立ち、前文に示されて居る様に、我國の安全と生存とをあげて平和を愛する世界の諸國民の公正と信義とに委ねると云う謂はば捨身の体勢に立ったのであります。
これが即ち本條に示された徹底せる平和主義の根本精神とする所でありますが、我が國としては世界各國が将来何時の日か、我國の態度に追随し来たることを期待し、平和國家の先頭に立つことを誇りとするものであります。」
[PR]

by kenpou-dayori | 2015-05-11 08:20 | 自著連載


<< 憲法便り#986 第九条の条文...      憲法便り#984 「文部省は憲... >>