岩田行雄の憲法便り・日刊憲法新聞

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2015年 05月 11日

憲法便り#987 第九十回帝国議会 衆議院本会議での憲法改正案論議 『検証・・(第六版)第四章(1)

2015年5月11日(月)(憲法千話)

憲法便り#987 第九十回帝国議会 衆議院本会議の憲法改正案論議 『検証・・(第六版)第四章(1)

『検証・憲法第九条の誕生』(増補・改訂 第六版)より
第四章 第九十回帝国議会 衆議院本会議での憲法改正案論議(1)


日本国憲法は、「帝国憲法改正案」として、昭和二十一年六月二十日に、第九十回帝国議会に政府案として提出された。まず衆議院において、六月二十五日の本会議で吉田総理大臣が提案説明を行ない、その後質疑に入った。六月二十八日に質疑が終了し、同日議長が指名した七十二名から成る帝国憲法改正案委員会(以下、改正案委員会)が芦田均を委員長として発足し、検討が付託された。改正案委員会における実質審議は七月一日の第二回から二十三日の二十回までの間に、前半は一般審議、後半は逐条審議が行われた。その後、芦田均委員長の指名により、十四名の小委員会が発足し、ここにおいて、字句や表現上の問題の検討、各会派から提出された修正案の調整が行われた。小委員会は七月二十五日から八月二十日までの間に十三回にわたって開催されたが、これはすべて秘密会であった。八月二十一日の第二十一回改正案委員会で共同修正案を可決し、八月二十四日の本会議で修正案は可決された。そして十月七日の本会議において貴族院回付案に同意し、帝国憲法改正案は確定された。この審議経過は、現在ではすべての議事速記録が公開されている。
この第四章では、衆議院本会議における第九条に関する審議の全体を収録している。

以下に見る衆議院の論議で、重要な役割を果たした吉田茂総理大臣兼外務大臣、金森徳次郎国務大臣、芦田均憲法改正案委員会委員長について、国立国会図書館のホームページの解説が簡潔にまとめられているので、ほぼこれに基づき経歴を紹介する。

吉田茂(一八七八‐一九六七)
東京都出身。土佐出身の民権運動家竹内綱の五男として生まれ、実業家吉田健三の養子となる。一九〇六年外務省に入省し、天津総領事、奉天総領事などを経て、一九二八年に田中義一内閣の外務次官となる。その後、駐イタリア大使、駐英国大使を歴任し、一九三九年に退官。日米開戦に反対し、戦時下で和平工作を行い憲兵に拘束されたこともある。
一九四五年に東久邇宮内閣の外相に就任し、次の幣原内閣でも外相を務めた。一九四六年五月、鳩山一郎の公職追放により日本自由党総裁となり、第一次吉田内閣を組閣。片山内閣、芦田内閣を経て、一九四八年に再び組閣し、一九五四年まで首相の地位にあった。その間GHQと折衝しつつ民主化政策を実施し、一九五一年にサンフランシスコ講和条約、日米安保条約に調印。
(岩田注=吉田茂は戦争放棄、平和条項の論議ではこれから見るように当時の総理大臣として大きな役割を果たした。しかし、アメリカと単独講和を結び、日米安保条約に調印したことにより、自己矛盾をきたし、自衛隊のイラク派兵に連なる禍根を残した。)

金森徳次郎(一八八六‐一九五九)
愛知県出身。東京帝国大学卒業後、大蔵省を経て法制局に入る。一九二四年に法制局第一部長、一九三四年に法制局長官となるが、翌年の天皇機関説問題で、著書に、美濃部達吉説的な表現があるとして批判され、一九三六年に辞職。
戦後は、一九四六年二月に、貴族院議員に勅撰された。同年六月に、第一次吉田内閣で憲法担当の国務大臣に就任。憲法改正案に関して、かなりの部分の答弁を担った。一九四八年から一九五九年まで国立国会図書館の初代館長。

芦田均(一八八七‐一九五九)
京都府出身。東京帝国大学卒業後、外務省に入省。ロシア、フランス、トルコ、ベルギー大使館などに勤めて、一九三二年に辞職。同年の総選挙で当選し、立憲政友会に所属。以後、生涯衆議院議員の地位にあった。一九三三年から一九三九年までジャパンタイムズ社長。
戦後すぐに鳩山一郎らと新党結成を計画し、一九四五年一一月に日本自由党を結成。一九四五年一〇月から一九四六年五月にかけて幣原内閣の厚生大臣を務めた。一九四六年六月に第一次吉田内閣のもとで、衆議院憲法改正案委員会委員長として、同委員会および小委員会の論議の取りまとめを行なった。一九四六年一二月に憲法普及会の会長となる。
一九四七年に日本自由党を離党して、日本民主党結成に加わり、五月に同党総裁、翌月には片山内閣の副総理および外相に就任した。一九四八年に、片山内閣が総辞職したのち、首相兼外相となる。しかし、同年十月に昭和電工疑獄事件で総辞職した。その後、改進党を経て、日本民主党最高委員、自由民主党顧問などを歴任した。

【速記録の書き換えについて】
速記録では、漢字は旧字体、カタカナ、及び旧仮名遣いで起こされており、文章の区切りにはすべて読点(、)で、句点(。)は使われていない。
(例)「次ニ、改正案ハ特ニ一章ヲ設ケ、戰爭抛棄ヲ規定致シテ居リマス、即チ國ノ主權ノ發動タル戰爭ト武力ニ依ル威嚇又ハ武力ノ行使ハ、……」

これをそのまま再録しても、読みづらいので、次のように書き換えた。
①漢字は新字体にし、「此の」「其の」「之」「斯くして」「亦」などは、平仮名で「この」「その」「かくして」「また」とした。
②カタカナをひらがなに変え、「行かうと云ふ」などの旧かなづかいは、「行こうという」と直した。
③長い文章には読点を補足し、文章の終りは句点に変えた。また、速記録にはほとんど段落がないが、読み易くするため、適宜、段落を設けた。
④議員名の「……君」は、「……議員」と変えた。

【昭和二十一年六月二十五日(火)の衆議院本会議】
午後一時三十五分開議、午後五時三分散会

【憲法改正案審議の延期を求める動議】
第九十回帝国議会衆議院において、昭和二十一年六月二十五日(火)の審議に先立ち、日本共産党の志賀義雄議員から「憲法改正案審議の延期を求める動議」が提出された。その発言と結果は次の通りである。

樋貝詮三議長 これより会議を開きます。これより議事日程に入るのでありますが、志賀義雄君より帝国憲法改正案の議事はこれを延期すべしとの動議を提出したいとのことであります― 志賀義雄君。

志賀義雄議員 趣旨の弁明ではございませぬから、自席から簡単に発言さしてもらいます。
憲法改正案の審議を延期すべしという動議を提出しますのは、第一に草案作成にあたって日本人民全体の意向を忠実に取り入れるという用意が、政府において欠くるところがあると認めるからであります。
第二に、草案発表後、日本人の各界各層において政府が進んでこの草案を十分に徹底させるための手段方法を講ずる点において欠くるところがあった。つまり、我々が先般の総選挙において演説会などに臨んでも、十分に憲法の重要性ということが、日本人全体の間にまだ徹底していなかったのであります。憲法よりは食糧だ、こういう声が人民の間には強いのです。これではせっかく一国の根本法たる憲法草案を審議するうえにおいて、日本人全体にまだ十分関心が持たれていないことになります。政府においてはその関心を持たせることを避くる嫌いがあったのであります。これでは憲法を審議するについて十分な用意がないことになりますから、この点に付いて審議延期の動議を出すものでありますが、なお関係方面からも十分に慎重に時間をかけてこの審議をやれ、こういうことであります。
これを、十分に人民全体がこの議会に対して注目を向けた状態の下において審議されるのでなければ、日本人の自由に表明せられたる意志に依って将来の日本の政治形態を決定すべしという「ポツダム」宣言の趣旨にも反することになりますので、これを審議することは延期していただきたい、これが私の動議であります。〔発言するものあり〕

樋貝詮三議長 静粛に…… 志賀君提出の動議を採決致します。この動議に賛成の諸君の起立を求めます。
〔賛成者起立〕

樋貝詮三議長 起立少数。よって本動議は否決せられました。
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by kenpou-dayori | 2015-05-11 10:44 | 自著連載


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