岩田行雄の憲法便り・日刊憲法新聞

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2015年 06月 17日

憲法便り#868:ドキュメント・朝日新聞上丸洋一編集委員への憲法研究協力とその中止について(第七回)

2015年6月17日(水)(憲法千話)

憲法便り#868:ドキュメント・朝日新聞上丸洋一編集委員への憲法研究協力とその中止について(第七回)

上丸氏の要望で、2014年9月12日(金)午後1時30分に、もう一度会う約束をした。

そして、上丸氏は、「改めて連絡をします!」と言っていたが、
彼は、のちに、多忙になったことを理由に断ってきた。

多忙になった理由は、新たに生じた、二つの問題であったが、
その後、さらにもう一つの問題が、約束していた9月11日に明らかになった。

第一の問題は、朝日新聞に対する批判的な記事の見出しを理由に、週刊文春の広告掲載を拒否したこと。

伝えられた内容は、次のとおりである。

「朝日新聞が「週刊文春」広告掲載を拒否!
2014.08.28 06:00

朝日新聞社に掲載を拒否された新聞広告
 朝日新聞が、週刊文春9月4日号(8月28日発売)の新聞広告を掲載拒否しました。掲載拒否の理由は、朝日新聞の「慰安婦」問題についての追及キャンペーン記事「なぜ日本を貶めるのか? 朝日新聞『売国のDNA』」が広告掲載規定に反するというものです。

 この件につきまして、株式会社文藝春秋は朝日新聞社に対し、厳重に抗議しました。抗議文は以下のとおりです。

株式会社 朝日新聞社御中

抗 議 文

 朝日新聞は週刊文春9月4日号(8月28日発売)の新聞広告をすべて掲載しませんでした。

 当該号には慰安婦問題に関する追及キャンペーン記事が掲載されています。新聞読者が当該記事のみならずその他の記事の広告まで知る機会を一方的に奪うのは、言論の自由を標榜する社会の公器としてあるまじき行為であり、厳重に抗議します。

2014年8月27日


この広告不掲載問題が明らかにされると、『朝日新聞』は新たな批判にさらされた。

朝日新聞社は、批判をかわすために、2014年9月4日付『朝日新聞』朝刊11面で、『週刊文春9月11号』の広告掲載に踏み切ったが、朝日側の判断で伏字にされた部分があり、さらに新たな問題へと「発展」した。

これは、『週刊文春』が展開していた、朝日新聞に対する「追及キャンペーン」第三弾の中にある見出しを伏字にしたもの。
具体的には、
「⑩美人秘書と中国●●出張していた若宮啓文元主筆」というもの。

この●●部分は、9月4日付『読売新聞』朝刊10面、および『週刊文春』そのもので、
不正」という文字であることが確認できる。

「不正」出張であるかどうかは、元主筆および朝日新聞側の言い分があろうから、ここでは立ち入らない。

この「追及キャンペーン」は、8月28日号の第一弾を皮切りに、9月4日号の第二弾に続くもので、
さらに、9月18日号の第四弾、9月25日号の第五弾と続く。

だが、伏字事件は、これだけではなかった。

朝日新聞社は、『週刊文春』広告の伏字を行ったと同じ、2014年9月4日付『朝日新聞』朝刊の9面で、
『週刊新潮』の広告に対しても、伏字を行っている。

躯体的には、
「吉田調書」”〇〇”で 朝日はもう生き残れない」という記事の見出し。副題に「もう一つの火薬庫」とある。

この部分も、9月4日付『読売新聞』朝刊8面、および『週刊新潮』そのもので、
誤報」という文字であることが確認できる。

ここまで来ると、戦前、権力による検閲で、伏字をしたまま出版された書物をを思い起こさせ、
「醜悪」としか言い様がない。

第ニの問題は、池上彰氏の連載を一方的に中止したこと。簡単な経緯は次の通り。

9月4日:朝日新聞が掲載を断った、池上彰氏の「新聞ななめ読み - 慰安婦報道検証 訂正、遅きに失したのでは」が、6日遅れで掲載。
9月6日:朝日新聞が、「読者の皆様におわびし、説明します 池上彰さんの連載掲載見合わせ」を発表。

(注:「この問題については、ドキュメント第四回において、「慰安婦問題に関する「朝日新聞社第三者委員会」の2014年12月22日付『報告書』全文は、110頁に及ぶが、その中から、「事実経過の概略」と、「2014年検証全体に対する評価」を引用しておきたい。」として、すでに詳しく述べています)

私は、週刊文春にも、池上彰氏にも、別に興味はない。

だが、朝日新聞社の経営陣のあまりにも傲慢な態度は、
応援や、激励に価するものではなかった。

これだけ、重大問題が次々と明らかになったが、
朝日新聞社社長は、記者会見をせず、その態度は、開き直りそのものであった。

その後、第三の問題が明らかになった。

東京電力福島第一原発の吉田昌郎元所長に対するヒヤリング結果をまとめた「吉田調書」スクープ報道の誤報問題である。

2014年9月11日、朝日新聞社の木村伊量(ただかず)社長が、ようやく記者会見をした。

この会見で、木村社長は、政府事故調査・検証委員会が、東京電力福島第一原発の吉田昌郎元所長(2013年7月9日に死去)に対するヒヤリング結果をまとめた「吉田調書」のスクープ報道は、誤報だったことを明らかにし、初めて謝罪した。そして、慰安婦巡る記事の撤回遅れを謝罪し、池上氏連載判断についても「責任を痛感」と述べた。


『朝日新聞』は、翌日、2014年9月12日付朝刊の一面トップで、謝罪会見の内容を伝えた。
その一連の見出しは、次の通りである。

「吉田調書「命令違反し撤退」報道
   本社、記事取り消し謝罪」

「慰安婦巡る記事
 撤回遅れを謝罪」


「信頼回復へ検証委」

「池上氏連載判断「責任を痛感」」

「みなさまに深くおわびします」
                                     
朝日新聞社社長 木村伊量

そして、この紙面には、政府が9月11日、吉田調書を公開したことが報じられている。
その見出しは、
「吉田調書 政府が公開」


紙面のコピーを掲載すれば、簡単に済むことであるが、
著作権の問題があるので、一応、文字だけでの説明とした。

まだ掲載したい内容があるのだが、ここでは省略し、先へ進む。

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「吉田調書」について、『朝日新聞』は、2014年5月20日(火)朝刊一面トップに、次の大見出しで報道していた。

「政府事故調の「吉田調書」入手」(紙名の横に、グレーの網がかかった縦書きの見出し)
「所長命令に違反 原発撤退」(黒地に、白抜きの横書きの見出し)
「福島第一所員の9割」(縦書きの見出し)

「震災4日後、福島第二へ」(横書きの小さめな見出し)

「全資料 公表すべきだ」(《解説》の見出し)
《解説》(全文)
 吉田氏が死去した今、「吉田調書」は原発事故直後の現場指揮官が語る唯一の公式調書だ。肉声がそのまま書き残され、やりとりは録音されている。分量はA4判で400ページ超。事故対応を検証し、今後の安全対策にいかす一級の歴史的資料だ。
 ところが、政府事故調は報告書に一部を紹介するだけで、多くの重要な事実を公表しなかった。中でも重要な「9割の所員が待機命令に違反して撤退した」という事実も伏せられた。
 事故の本質をつかむには一つひとつの場面を具体的な証言から再現、検証する必要がある。国は原発再稼働を急ぐ前に、政府事故調が集めた資料をすべて公表し、「福島の教訓」を安全対策や避難計画にいかすべきだろう。
 吉田調書にはこのほかにも国や東電が隠している事実が多く含まれ、反省材料が凝縮されている。私たちは国や東電の事故対応の検証を続けていく。(宮崎知己)
(*この解説文は、その後、そっくり、朝日新聞社が取るべき態度として、自身に跳ね返ってくることになる。)

そして、第二面でも、横書きの大見出しで、追い打ちをかけていた。
「葬られた命令違反」

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私は、8月6日に、『朝日新聞』に激励の手紙を書くつもりであることを、
上丸氏に話したことは、前回述べた通りである。

内容は、当初、上丸氏に話した、ある商店主の言葉を添えて書くつもりであった。
だが、それはやめた。

一連の問題に対する、木村社長をはじめとする朝日新聞社幹部の態度は、
この商店主の「宝」のような、純粋な気持ちを伝えるに価しないと考えたからである。

しかしながら、私は、朝日新聞社を批判する側には立たず、側面からの支援として、
別の形で、『朝日新聞』に関する記事を、ブログに掲載することにした。

経営者の傲慢な態度と、
そこに働く、良心的な社員を、
同列視すべきではないとの考えからである。

この考えは、私が、30年間にわたって活動した、
ナウカ労組、出版労連において培われたものであった。

私が、『朝日新聞』を「見放さなかった」ことには、
もう一つの理由がある。

60年安保の頃の、『朝日新聞』への凄まじい攻撃を聞いているからである。

私は、高校一年の時から、親元を離れ、新聞配達により自活をしていたが、
高校卒業後の進路を決められず、どこも受験せずに浪人をした。

そして、1962年4月からの一年間の浪人時代と、
早稲田大学に入学してからの一年半、合計して二年半、
『丸の内新聞合売事業所』(従業員約50人)で働いていたことがある。

まだ、60年安保闘争の記憶が生々しい時代であった。

この事業所では、かつて「三菱ヶ原」と呼ばれた丸の内のビル街から、官庁街、皇居までを含む地域の新聞配達を一手に引き受けていた。

因みに、私は、10日間、朝夕、皇居内を新聞配達したという稀有な経験を持つ。
当時、皇居内の配達は、元自衛隊員という「身元確実」な人物が担当していたが、彼が10日間の帰省休暇をとったため、私がその代行をした。

私がこの経験をしたのは、配達先が250軒あっても一回の引継ぎで覚えてしまう記憶力の良さが重宝がられ、日頃から休みや欠員の代役をしばしば行っていたことによる。

当然のことながら、出入り自由ということではなく、
予め発行された通行許可証を提示しなければならなかった。

園遊会で、山本太郎参院議員が、なにか資料を天皇に直接手渡そうとして問題になったが、
私の経験からすれば、それは余計なことなのである。

朝日新聞の話に戻そう。

新聞配達を準備する際、配達員各自が、作業台の上に、左から朝日、毎日、読売、日経、産経、東京の順で並べ、、さらに、スポーツ紙、業界紙など配達先の注文部数を組み合わせていく。

通常は、朝日が一番多いのだが、60年安保の頃は、朝日への不買運動で、
部数は約10分の一に激減した。

そのため、日頃慣れていた作業の手順が全く違ってしまい、
仕事が大変やりにくかったという。

繰り返しになるが、私がこの職場に入ったのは、1962年なので、本当に生々しい話であった。

当時の仕事場は、有楽町駅からすぐ近くのガード下にあったので、職場の先輩たちは色々と見ていた。
もう一つ、先輩たちから聞いた、当時の朝日新聞に関する話を紹介しよう。

代々木にある朝日新聞の販売所に労働組合が結成されたところ、
組合つぶしのために、近所に新しく朝日新聞販売所が作られた。

代々木の販売所の組合員たちは、元の新聞販売所に立てこもり、
朝日新聞本社の前で、連日、抗議のビラまきをしていた。

職場の先輩たちは、どちらの様子も目撃している。

60年安保闘争当時は、日本の各分野で労組結成の動きが加速しており、
新聞配達員が労働組合を結成する動きは、代々木以外においてもあった。

『丸の内新聞』には、その中核となるべき人たちが何人かおり、
私も会合に誘われて参加したことがある。

彼らは、当然のことながら、朝日新聞本社の動きを警戒していた。
したがって、有楽町から離れた場所での、極秘の会合であった。

他言は、無用。

まるで、小林多喜二の作品『党生活者』に描かれているような、
緊張した雰囲気であった。

そして、私は、何とも言えない矛盾と、憤りを感じていた。
「なんで、『朝日新聞』が労働者を弾圧するのか!」

それ以来、私は、朝日新聞社に対して、
民主的な言論機関であるというような幻想を抱いたことは、
ただの一度もない。

いま、いろいろと考えていて、よく分かることなのだが、
資本の論理、資本の都合の優先である。

このような経験がありながらも、
私は、慰安婦問題の誤報を利用した、
かさにかかっての『朝日新聞』への攻撃には、
反対であり、支援する側に身を置いた。

(第八回へ続く)
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by kenpou-dayori | 2015-06-17 20:45 | 朝日新聞ドキュメント


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