カテゴリ:戦争体験・戦跡・慰霊碑( 20 )


2016年 08月 15日

憲法便り#1847:「終戦」はごまかしの表現である!「敗戦」なのだ!戦争体験・戦跡・慰霊碑(19件)の一覧リスト

2016年8月15日(月)(憲法千話)

憲法便り#1847:「終戦」はごまかしの表現である!「敗戦」なのだ!戦争体験・戦跡・慰霊碑(19件)の一覧リスト(*各項目にリンクしています)

「敗戦」ではなく、「終戦」という無主語の表現が、マスコミでの多く使われているが、
これは戦争を始めた指導者の戦争責任を免罪する表現に繋がる。

主戦派は、本土決戦、一億玉砕を掲げて、日本国民を、悲惨な敗戦に導いた。
大本営発表を唯々諾々とながし続けたマスコミも、主戦派の勢いを止められないばかりか、
国民を戦争へと駆り立てた。

いま、安倍政権は、中国、北朝鮮を利用して危機感を煽り、
新たな戦争政策を推し進めている。

私は、戦争体験者として、いかなる戦争にも、反対である。
国際紛争は、話し合いによって解決すべきである。

さきの戦争の記憶を止め、安倍政権の戦争政策をストップするため、
『憲法便り』のこれまでの記事の中から、戦争体験・戦跡・慰霊碑(19件)の一覧表をここに再録する。

カテゴリ:戦争体験・戦跡・慰霊碑( 19件 )


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by kenpou-dayori | 2016-08-15 10:21 | 戦争体験・戦跡・慰霊碑
2016年 04月 02日

憲法便り#1650:G7外相会議の参加者が読んで欲しい、峠三吉の原爆詩集『序』(にんげんをかえせ)

2016年4月2日(土)(憲法千話)

憲法便り#1650:G7外相会議の参加者が読んで欲しい、峠三吉の原爆詩集『序』(にんげんをかえせ)

G7外相会議が広島で開催されることになった。
原爆を投下した当事国の、アメリカのケリー国務長官も出席するという。
この作品を、是非とも、日本の岸田外務大臣を含め、全員が読んで欲しい。

そして、あらゆる戦争をやめ、核兵器廃絶に向けての決意を固めるよう、強く求めるものである。

なお、この記事は、次の二つにリンクしています。

①大木正夫作曲、英語の対訳付きは、こちらへ

②峠三吉著「人間をかえせ」
 入力出来る字数に制限がありますので、以下に、最初の部分のみを紹介します。
 作品全体は、こちらへ
 かなり長い作品であり、つらい内容ですから、時間と、気持ちに余裕がある時に、一気にお読みなることをお勧めします。
 以下に、この作品の準備をなさった皆さんに敬意を表し、紹介します。

底本:「新編 原爆詩集」青木書店
   1995(平成7)年7月7日第1版第1刷発行
入力:広島に文学館を! 市民の会、福田真紀子さん
校正:LUNA CAT
2004年7月11日作成
2012年3月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


峠三吉



+目次

[#ページの左右中央]


――一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。


[#改丁]



ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
[#改ページ]

八月六日

あの閃光が忘れえようか
瞬時に街頭の三万は消え
圧おしつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え

渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルディングは裂さけ、橋は崩くずれ
満員電車はそのまま焦こげ
涯しない瓦礫がれきと燃えさしの堆積たいせきであった広島
やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿のうしょうを踏み
焼け焦こげた布を腰にまとって
泣きながら群れ歩いた裸体の行列

石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
つながれた筏いかだへ這はいより折り重った河岸の群も
灼やけつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
夕空をつく火光かこうの中に
下敷きのまま生きていた母や弟の町のあたりも
焼けうつり

兵器廠へいきしょうの床の糞尿ふんにょうのうえに
のがれ横たわった女学生らの
太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰がたれとも分らぬ一群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく
異臭いしゅうのよどんだなかで
金かなダライにとぶ蠅の羽音だけ

三十万の全市をしめた
あの静寂が忘れえようか
そのしずけさの中で
帰らなかった妻や子のしろい眼窩がんかが
俺たちの心魂をたち割って
込めたねがいを
忘れえようか!
[#改ページ]




泣き叫ぶ耳の奥の声
音もなく膨ふくれあがり
とびかかってきた
烈しい異状さの空間
たち罩こめた塵煙じんえんの
きなくさいはためきの間を
走り狂う影
〈あ
にげら
れる〉
はね起きる腰から
崩れ散る煉瓦屑の
からだが
燃えている
背中から突き倒した
熱風が
袖で肩で
火になって
煙のなかにつかむ
水槽のコンクリー角
水の中に
もう頭
水をかける衣服が
焦こげ散って
ない
電線材木釘硝子片
波打つ瓦の壁
爪が燃え
踵かかとがとれ
せなかに貼はりついた鉛の溶鈑ようばん
〈う・う・う・う〉
すでに火
くろく
電柱も壁土も
われた頭に噴ふきこむ
火と煙
の渦
〈ヒロちゃん ヒロちゃん〉
抑える乳が
あ 血綿けつめんの穴
倒れたまま
――おまえおまえおまえはどこ
腹這いいざる煙の中に
どこから現れたか
手と手をつなぎ
盆踊りのぐるぐる廻りをつづける
裸のむすめたち
つまずき仆たおれる環の
瓦の下から
またも肩
髪のない老婆の
熱気にあぶり出され
のたうつ癇高かんだかいさけび
もうゆれる炎の道ばた
タイコの腹をふくらせ
唇までめくれた
あかい肉塊たち
足首をつかむ
ずるりと剥むけた手
ころがった眼で叫ぶ
白く煮えた首
手で踏んだ毛髪、脳漿のうしょう
むしこめる煙、ぶっつかる火の風
はじける火の粉の闇で
金いろの子供の瞳
燃える体
灼やける咽喉のど
どっと崩折くずおれて

めりこんで

おお もう
すすめぬ
暗いひとりの底
こめかみの轟音が急に遠のき
ああ
どうしたこと
どうしてわたしは
道ばたのこんなところで
おまえからもはなれ
し、死な
ねば

らぬ

[#改ページ]



衝つき当った天蓋てんがいの
まくれ拡がった死被しひの
垂れこめた雲の
薄闇の地上から
煙をはねのけ
歯がみし
おどりあがり
合体して
黒い あかい 蒼あおい炎は
煌きらめく火の粉を吹き散らしながら
いまや全市のうえに
立ちあがった。

藻ものように ゆれゆれ
つきすすむ炎の群列。
屠殺場とさつじょうへ曳ひかれていた牛の群は
河岸をなだれ墜おち
灰いろの鳩が一羽
羽根をちぢめて橋のうえにころがる。
ぴょこ ぴょこ
噴煙のしたから這い出て
火にのまれゆくのは
四足の
無数の人間。
噴き崩れた余燼よじんのかさなりに
髪をかきむしったまま
硬直こうちょくした
呪いが燻くすぶる

濃縮のうしゅくされ
爆発した時間のあと
灼熱しゃくねつの憎悪だけが
ばくばくと拡がって。
空間に堆積たいせきする
無韻むいんの沈黙

太陽をおしのけた
ウラニューム熱線は
処女の背肉に
羅衣うすぎぬの花模様を焼きつけ
司祭の黒衣を
瞬間 燃えあがらせ
1945, Aug. 6
まひるの中の真夜
人間が神に加えた
たしかな火刑。
この一夜
ひろしまの火光は
人類の寝床に映り
歴史はやがて
すべての神に似るものを
待ち伏せる。
[#改ページ]

盲目

河岸におしつぶされた
産院の堆積たいせきの底から
妻に付き添っていた男ら
手脚をひきずり
石崖の伝馬てんまにあつまる

胸から顔を硝子片に襲われたくら闇のなか
干潟ひがたの伝馬は火の粉にぬりこめられ
熱に追われた盲めしい
河原に降りてよろめき
よろめく脚を
泥土に奪われ

仆たおれた群に
寂漠せきばくとひろしまは燃え
燃えくずれ
はや くれ方のみち汐しお

河原に汐はよせ
汐は満ち
手が浸り脚が浸り
むすうの傷穴から海水がしみ入りつつ
動かぬものら
顫ふるえる意識の暗黒で
喪うしなわれたものをまさぐる神経が
閃光の爆幕に突きあたり
もう一度
燃尽しょうじんする

巨大な崩壊を潜くぐりこえた本能が
手脚の浮動にちぎれ
河中に転落する黒焦くろこげの梁木はりぎに
ゆらめく生の残像

(嬰児えいじと共の 妻のほほえみ
  透明な産室の 窓ぎわの朝餉あさげ)

そして
硝子にえぐられた双眼が
血膿ちうみと泥と
雲煙の裂け間
山上の
暮映ぼえいを溜ため
[#改ページ]

仮繃帯所にて

あなたたち
泣いても涙のでどころのない
わめいても言葉になる唇のない
もがこうにもつかむ手指の皮膚のない
あなたたち

血とあぶら汗と淋巴液リンパえきとにまみれた四肢ししをばたつかせ
糸のように塞ふさいだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
たれがほんとうと思えよう

焼け爛ただれたヒロシマの
うす暗くゆらめく焔のなかから
あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎととび出し這い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのラカン頭を苦悶くもんの埃ほこりに埋める

何故こんな目に遭あわねばならぬのか
なぜこんなめにあわねばならぬのか
何の為に
なんのために
そしてあなたたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない

ただ思っている
あなたたちはおもっている
今朝がたまでの父を母を弟を妹を
(いま逢ったってたれがあなたとしりえよう)
そして眠り起きごはんをたべた家のことを
(一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)

おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって
おもっている
かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を
[#改ページ]



みしらぬ貌かおがこっちを視みている
いつの世の
いつの時かわからぬ暗い倉庫のなか
歪ゆがんだ格子窓から、夜でもない昼でもないひかりが落ち
るいるいと重ったかつて顔だった貌。あたまの前側だった貌。
にんげんの頂部ちょうぶにあって生活のよろこびやかなしみを
ゆらめく水のように映していたかお。
ああ、今は眼だけで炎えるじゅくじゅくと腐った肉塊
もげ落ちたにんげんの印形いんぎょう
コンクリートの床にガックリ転がったまま
なにかの力で圧しつけられてこゆるぎもしないその
蒼あおぶくれてぶよつく重いまるみの物体は
亀裂きれつした肉のあいだからしろい光りだけを移動させ
おれのゆく一歩一歩をみつめている。
俺の背中を肩を腕をべったりとひっついて離れぬ眼。
なぜそんなに視みるのだ
あとからあとから追っかけまわりからかこんで、ほそくしろい視線を射かける
眼、め、メ、
あんなにとおい正面から、あの暗い陰から、この足もとからも
あ、あ、あ
ともかく額が皮膚をつけ鼻がまっすぐ隆起し
服を着けて立った俺という人間があるいてゆくのを
じいっと、さしつらぬいてはなれぬ眼。
熱気のつたわる床ゆかから
息づまる壁から、がらんどうの天井てんじょうを支える頑丈な柱の角から
現れ、あらわれ、消えることのない眼。
ああ、けさはまだ俺の妹だった人間のひとりをさがして
この闇に踏みこんだおれの背中から胸へ、腋わきから肩へ
べたべた貼りついて永劫えいごうきえぬ
眼!
コンクリートの上の、筵むしろの藁わらの、どこからか尿のしみ出す編目に埋めた
崩れそうな頬の
塗薬とやくと、分泌物ぶんぴぶつと、血と、焼け灰のぬらつく死に貌がおのかげで
や、や、
うごいた眼が、ほろりと透明な液をこぼし
めくれた唇で
血泡けっほうの歯が
おれの名を、噛むように呼んでいる。
[#改ページ]
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by kenpou-dayori | 2016-04-02 20:29 | 戦争体験・戦跡・慰霊碑
2015年 12月 13日

憲法便り#1467:早稲田大学同期の友人からの喪中はがきで知らされた戦争の悲劇

2015年12月13日(日)(憲法千話)

憲法便り#1467:早稲田大学同期の友人からの喪中はがきで知らされた戦争の悲劇

毎年、11月の中旬から「喪中はがき」と届く。
誰もが、いつかはむかえる人生の終わり。

ひとそれぞれの人生がある。

いつも年賀状が届く早稲田大学時代の同期の友人N君から、
十二月上旬に、喪中はがきが届いた。

御母堂が、97歳の生涯を閉じたことの後に、
次のように綴られていた。

「戦火に引き裂かれた、初恋の夫との人生を、
いまにぎやかにやり直していることでしょう。」
「私たちも「戦争法廃止」の署名を集めています。」

私は、久しぶりに、N君に電話をかけた。
彼の母は、再婚をせずに、女手一つで、子供たちを育てた。
そして、彼を早稲田大学に進ませた。

私たち戦前生まれの「昭和世代」には、戦争の記憶は、
自分自身の人生と重なりあっています。

戦争を美化してはならない!
戦争を繰り返してはならない!
我々は、戦争を忘れない!
そして、9・19を忘れない!
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by kenpou-dayori | 2015-12-13 09:30 | 戦争体験・戦跡・慰霊碑
2015年 09月 05日

憲法便り#1286:夏目坂上の感通寺にある、山手大空襲犠牲者を供養する観音像と慰霊園のこと(第二版)

2015年9月5日(土)(憲法千話)

憲法便り#1286:夏目坂上の感通寺にある、山手大空襲犠牲者を供養する観音像と慰霊園のこと(第二版)

昨日、『憲法便り#1281:ご存知ですか?夏目坂上の感通寺に、山手大空襲犠牲者を供養する観音像があること』を掲載し、以下のように書いた。

「今日、2015年9月4日、早稲田大学近くの、夏目坂を登りきった右側に、感通寺という日蓮宗のお寺を訪問してきた。

境内に建立されている、山手大空襲の犠牲者約300名を供養する町慰霊園の石碑とさざれ石の写真を撮影すること、そしてブログで紹介することのお許しをいただくためである。

私は、早稲田大学の学生時代に、早稲田南町に住んでいて、この寺の向かい側にあった銭湯によく通っていた。夜遅くなると、山門の前に、屋台のおでん屋が出ていたので、帰りがけに立ち寄って、軽く一杯やることがあった。

その頃は、今回のような目的で、感通時を訪れることになろうとは、思いもよらないことであった。

数年前、感通時の向かい側にある蕎麦屋に来た際に、境内に入らせていただいて、石碑に気付き、それ以来ずっと気になっていた。

幸いにして、ご住職からお許しを頂いたので、まず、写真を紹介したい。

疲れていて、紹介の文章は、まだまとまらないので、出来るだけ正確に伝えるために、明日、詳しく書くことにします。

以下の写真は、すべて岩田が撮影。」

*ここからは、「第二版」として、記述します。加筆する部分が多いので、『憲法便り#1286』と、別番号を与えました。
ただし、「第二版」も、記述が不十分なため、明日もう一度、感通時を訪ね、「第三版」をまとめたいと思います。
「第三版」では、かつて惨劇の場となった防空壕跡地、現早稲田大学喜久井町キャンパス内にある、観音像についても紹介します。

写真③にみる碑文は、衝撃的な内容で、初めて読んだ時から頭を離れません。持っていた手帳に書き写した記憶がありますが、その手帳は、今のところ見つかりません。

このたび、改めて碑文を読んで、大きな衝撃を受けました。

石碑に刻されている全文を、画像の下に、慎んで文字起こしをさせていただきます。

写真①:感通時山門
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写真②:山門を通って、すぐ右側に建立された町慰霊園の碑、及び、さざれ石
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写真③:町慰霊園の碑
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「苦しいのは息が止まるまでよ。もう少し我慢するのよ!!と子供を抱えて震
える私の手も肉もやけどでじんじん落ちていきます。」 成願寺報五五号抜粋
昭和二十年五月二十五日米軍山之手地区空襲の一般庶民の惨状だった。
五十八年余を経て今日それも忘却のかなたに去ろうとしている。後の私達は
歴史として伝え継いで行かなければならない努めがあると痛感し平成十六年
五月二十五日當山に於て前対戦で亡くなられた人々の供養の為に慰霊園を
作庭し名を刻し永遠に町会員と共に現在も在しますことを顕すもので
ある                         伝燈 二十一世 日良 記す


写真④:さざれ石
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写真➄:町慰霊園の右手奥の小高いところに建立された、喜久井町観音像
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写真⑥:喜久井町観音像台座の左側面にある碑文。(雷雨がきそうなので、慌てて撮影したため失敗。)
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by kenpou-dayori | 2015-09-05 20:50 | 戦争体験・戦跡・慰霊碑
2015年 09月 04日

憲法便り#1281:ご存知ですか?夏目坂上の感通寺に、山手大空襲犠牲者を供養する観音像があること

憲法便り#1281:ご存知ですか?夏目坂上の感通寺に、山手大空襲犠牲者を供養する観音像があること

今日、2015年9月4日、早稲田大学近くの、夏目坂を登りきった右側に、感通寺という日蓮宗のお寺を訪問してきた。

境内に建立されている、山手大空襲の犠牲者約300名を供養する町慰霊園の石碑とさざれ石の写真を撮影すること、そしてブログで紹介することのお許しをいただくためである。

私は、早稲田大学の学生時代に、早稲田南町に住んでいて、この寺の向かい側にあった銭湯によく通っていた。夜遅くなると、山門の前に、屋台のおでん屋が出ていたので、帰りがけに立ち寄って、軽く一杯やることがあった。

その頃は、今回のような目的で、感通時を訪れることになろうとは、思いもよらないことであった。

数年前、感通時の向かい側にある蕎麦屋に来た際に、境内に入らせていただいて、石碑に気付き、それ以来ずっと気になっていた。

幸いにして、ご住職からお許しを頂いたので、まず、写真を紹介したい。

疲れていて、紹介の文章は、まだまとまらないので、出来るだけ正確に伝えるために、明日、詳しく書くことにします。

以下の写真は、すべて岩田が撮影。

感通時山門
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山門を通って、すぐ右側に建立された町慰霊園の碑、及び、さざれ石
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町慰霊園の碑
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さざれ石
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町慰霊園の右手奥の小高いところに建立された、喜久井町観音像
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喜久井町観音像台座の左側面にある碑文。(雷雨がきそうなので、慌てて撮影したため失敗。)
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by kenpou-dayori | 2015-09-04 22:28 | 戦争体験・戦跡・慰霊碑
2015年 08月 26日

憲法便り#1231:東大赤門向かい側に建てられた、「東京大学戦没同窓生之碑」

2015年8月26日(水)(憲法千話)

憲法便り#1231:東大赤門向かい側に建てられた、「東京大学戦没同窓生之碑」

写真の撮影日は、8月24日(月)です。

東大赤門前の信号付き横断歩道を渡り切った左側に、石碑があります。
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写真では碑文がはっきりとは読めませんので、近いうちに、読み取りに行き、
正確に伝えたいと思っています。
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by kenpou-dayori | 2015-08-26 17:07 | 戦争体験・戦跡・慰霊碑
2015年 08月 23日

憲法便り#1213:表参道入口の石灯籠の礎石に残る、山手大空襲時に焼死した人々の油がしみ込んだ跡

2015年8月23日(日)(憲法千話)

憲法便り#1213:表参道入口の石灯籠の礎石に残る、山手大空襲時に焼死した人々の脂がしみ込んだ跡

今日、SEALDsの皆さんが呼びかけた表参道デモが、午後5時に出発します。

予定は、下記の通り。

#0823全国一斉行動
戦争法案に反対する全国一斉行動
SEALDs 表参道デモ
コース⬇
16:30 都立青山公園南地区集合
17:00 デモ出発
神宮通公園解散

表参道デモのことを知る前から、写真を撮っておきたいところが、ありましたので、デジカメを持って、先日、表参道に行って来ました。

青山通りから、原宿方面を望む、表参道入口の大きな石灯篭(写真①)と、その礎石(写真②)です。

昭和20年5月25日の山の手大空襲の時に、炎の海の中で逃げ場を失った人々が、山のように折り重なって焼死し、その時の脂がしみ込んだ、石灯籠の礎石。

地元の方のお話では、いくら磨いても、その脂は取れずに残っているとのことでした。

一見して、排気ガスの汚れのように思いましたが、これは、確かに亡くなった方々の脂なのだそうです。

どんな理由をつけても、戦争には絶対です。

初めてのデジカメ写真なので、出来が悪すぎるのですが、取りあえず掲載します。

写真① 青山通りから、原宿方面への表参道を望む。両脇に大きな石灯篭があります。
左角の建物は、人々が山のように折り重なって焼死した、惨劇の場所となった安田銀行(現みずほ銀行)、
右角の建物は、人々が辛うじて難を山陽堂書店。
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写真② 安田銀行(現みずほ銀行)前の、石灯籠の礎石。
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写真③ 右角の山陽堂書店(カラフルな建物)。1964年の東京オリンピックの際、青山通りの拡張工事のために、建物は、半分に削られてしまった。
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by kenpou-dayori | 2015-08-23 16:22 | 戦争体験・戦跡・慰霊碑
2015年 06月 02日

憲法便り#822:山の手大空襲を語り継ぐ、朗読会に行ってきました。

2015年6月2日(火)(憲法千話)

憲法便り#822:山の手大空襲を語り継ぐ、朗読会に行ってきました。

5月26日付け、
憲法便り#803: 70年前の山の手大空襲 高田馬場・下落合一帯への空爆の証言(補訂版)で、併せて下記のようにお伝えした、朗読会に行ってきました。

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情勢が急迫していますので、『東京新聞』の紙面をそのまま借用します。
2015年5月26日付『東京新聞』30面より
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この朗読会に申し込みをし、会場を提供する山陽堂書店も訪ねてきました。
俳優・矢田 稔さんの心意気を受け取め、受け継ぎたいと思います。

今夕、表参道にある山陽堂書店で購入してきた二冊。
上:『表参道が燃えた日ー山の手大空襲の体験記』[増補版]
下:『表参道が燃えた日ー山の手大空襲の体験記』
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*********************************************

今日は、簡単にお伝えします。
5月30日に朗読会には、30人を超える参加者がありました。
朗読は、三つの作品で、あとは、矢田さんのトーク。
朗読作品は、どれも、『憲法便り』でお伝えしたいものばかりなので、文字起こしをしたいと思います。
また、私なりの朗読会も考えました。
詳しく、いろいろと報告しますので、掲載をお楽しみに。
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by kenpou-dayori | 2015-06-02 21:17 | 戦争体験・戦跡・慰霊碑
2015年 05月 29日

憲法便り#811: 父親が中国で戦病死した、小学校同級生Kさんからの手紙

2015年5月29日(金)(憲法千話)

憲法便り#811: 父親が中国で戦病死した、小学校同級生Kさんからの手紙

岩田行雄編・著『世論と新聞報道が平和憲法を誕生させた!』の「はじめに」に収録した小学校の同級生Kさん(女性)の手紙は、何回読んでも涙が出てくる。
『さとうきび畑』の歌を聞いていると、涙が止まらなくなるのは、私たちの周りに、本当に同じような悲しみを抱いている人が多いからだ。

「二〇〇九年五月に千葉の稲毛で講演を行った際に、小学校時代の同級生Kさんが友人二人を誘って聴きに来て下さった。暫くして、彼女から届いた綺麗な押し花付きの手紙には私が五十五年間全く知らなかったことが書かれていた。ご本人の承諾を得て、核心部分を紹介する。
押し花の色はあせてしまったが、この話の真実は、いつまでも色あせることはない。

「戦争放棄に関心がありました。私の父が戦死だからです。私は父の顔を知りません。父は若い時に耳を怪我して難聴になり、耳元で大きな声で話をしないと聞こえない状態だったそうです。昭和十九年、三十五歳のときに招集令状が来て狩りだされました。昭和二十年十一月(中華民国北***?)戦病死と書いた死亡通知が八ヶ月後に千葉の疎開先に届いて、増上寺に遺骨を引き取りに行ったのですが、渡された小さな箱には骨は入ってなく、お弁当箱と箸が入っていたそうです。母はそれを遺骨と思ってお墓に入れていたそうです。その母が九十六歳十カ月で亡くなりました。昨日、七七日忌の法要があり、お墓に母が入りました。建て替えたお墓には父の遺品はありませんでした。少し悲しい思いがしました。母に聞いたことを思い出して書いてみました。
 これからの人たちには、この様な思いをさせないように九条を守りたいです。」

彼女は、私の著作を「家宝とします」と言って下さった。
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by kenpou-dayori | 2015-05-29 10:42 | 戦争体験・戦跡・慰霊碑
2015年 05月 28日

憲法便り#809:【わが家族の戦争体験】(5月29日補訂版)

2015年5月28日(木)(憲法千話)
201年5月29日加筆

憲法便り#809:【わが家族の戦争体験】
昭和20年3月9日から10日にかけての東京大空襲の時、私たちは葛飾区渋江町に住んでいたので、荒川放水路のおかげで難を逃れた。
私は昭和17年9月2日生まれ、当時2歳半なので、その夜の記憶はないが、4歳年上の姉純子は、向島方面が真っ赤に焼けていて、一晩中、四つ木橋を渡って、多くの人たちが逃れてきたのを思えている。幸い生き延びることが出来た人たちは、渋江小学校の校舎に泊まっていたという。
その後、すぐに母方の親戚を頼って、福島県の小高に疎開した。姉の記憶では、母、二番目の姉、兄、純子、そして私が親戚のお世話になった。

小高でお世話になったところが狭かったため、しばらくして小名浜に移った。
だが、移転したことは、かえって、危険な場所に身を置くことになることを私たち家族は、知らなかっら。

軍事施設である通信塔がある小名浜へは、夜間に艦砲射撃があった。水平線の向こうから、45°くらいの角度で連続的に弾道が描かれた。私の視界の左側には、海岸の松ノ木の枝が、影絵のように浮かび上がった。
私が見た光景は、まるで、モノクロのアメリカ映画の一場面のように、脳裏に焼き付いている。

でも、小学校二年の時から、お小遣いを貯めては、一人で洋画を観に行っていた私は、それが現実に起こったことなのか、アメリカ映画の記憶なのか、長い間、疑問を抱いていた。
十年ほど前に、私よりもひとまわりほど年上の、小名浜出身の方に私の記憶を話すと、それは彼女の記憶と全く一致していた。それほど、強烈な印象なのである。

8月9日には、大規模な空襲があった。
その日のことを、私は『世論と新聞報道が平和憲法を誕生させた!』の「はじめに」の中に次のように書いている。

「私は、東京大空襲の直後に家族と共に福島に縁故疎開をし、一九四五年八月九日に、小名浜で米軍の焼夷弾の爆撃を受けた。命だけは助かったが、家も持ち物もすべて焼かれたという体験をしている。三歳の誕生日を迎える直前のことであったが、靑空と、藁ぶき屋根が燃えさかるオレンジ色の炎を、はっきりと記憶している。
その日、母が焼け跡で、米を入れてあったブリキの一斗缶の中を見て「みんな炭になっちゃった」とポツリと言って佇んでいたことを、小学一年だった姉はよく覚えている。その後、私たち家族は、アニメ映画『火垂るの墓』で描かれたような川辺の「岩屋」で暮らし、親戚や土地の人たちに助けられて生き永らえた。敗戦の年の十二月に東京に戻ると、皮肉なことに、疎開前に住んでいた借家は、焼けずに残っていた。私たち家族も戦争に翻弄されたが、幸いにして命を落とした者はなかった。」

父は東京に残っていたが、何をしていたのかは、聞いたこともないので、わからない。

私よりも13歳年上の長姉光子は、東京に残り、女子挺身隊として駆り出されていた。
勤務先は、航空廠の中島飛行機で、落下傘作りをしていた。
ある日のこと、京成電車にのって帰る途中、長時間労働で疲れた姉は、寝込んでしまった。
ハッとして、目を覚ますと、駅の名前が「たまばし」となっている。
知らない駅名だ。
どこまで来てしまったんだろうと、一瞬うろたえたが、落ち着いてみると、それは「しばまた(柴又)」が、右から左に書かれていたことが判った。

あの寅さんの映画で有名になった「しばまた」だが、当時は、地味な駅だった。

妹は、昭和21年生まれなので、戦争体験はない。
今、微かな記憶でも、直接体験を語れるのは、純子と私だけになってしまった。

私たちの家族は、幸いにして、戦死も、戦病死した者もいない。
だが、この戦争で多くの人たちが亡くなっている。
私の小学校時代の同級生N君は父が戦死して、長い間、親類の家に同居していた。早稲田大学時代の同級生I君は、彼が生まれる前に父が戦死したため、父に抱かれたことがない。
この友人たちの母親は「女手ひとつ」で子供を守り、育てた。

私がおはぎを買いに行く伊勢屋のご主人は、東京大空襲の際に、二歳年上の兄と逃げたが、兄は生死不明のまま現在に至っている。私の周辺には、この他にも辛い戦争体験を持つ人たちが数多くいる。

戦争は理不尽であること、戦争には絶対反対であることを、言い続けなければならないと思っている。

今日、午後六時半からの国会前集会に少しだけでも参加するつもりでいる。
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by kenpou-dayori | 2015-05-28 15:14 | 戦争体験・戦跡・慰霊碑