岩田行雄の憲法便り・日刊憲法新聞

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2015年 03月 31日

日本国憲法施行日の社説No.19:『新潟日報』5月3日社説「新憲法を生かすもの」

2015年3月31日(憲法千話)

(*50紙の社説一覧リストへ戻るのは、こちらをクリックして下さい

5月3日付『新潟日報』の一面下に、二段にわたる『祝 新憲法実施記念』の祝賀広告が掲載されている。
祝賀広告には、憲法普及会新潟県支部長を務めていた新潟県知事に続き、新潟市長、参議院議員、衆議院議員等が名を連ねている。参議院議員の名前が衆議院議員よりも優先的に掲載されているのは、参議院が貴族院にとって代わったものとの受けとめの反映と考えられる。
この祝賀広告の中でひときわ目を惹くのは、新潟庁裁判所長と新潟地方検察庁検事長の連名の祝賀広告である。
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昭和22年5月3日付新潟日報社説「新憲法を生かすもの」

 平和と民主主義の国として明るい将来を約束されている日本の政治的骨格である「日本国憲法」は去る十一月三日公布以来□六ヵ月の今日、いよいよ実施されることとなった。長い日本の歴史を通じて、日本国民を□い□□のうちに閉じ込めていた封建的な社会秩序と□□な中央集権的な政治機構とはここに抹消されて、個人の尊厳を基本とする新たな自由な政治社会秩序が与えられる。新憲法の進歩的な内容はこれを守り育てようとする日本国民の決意とともに、これは日本にとってのみならず、世界的にも一つの歴史的な日といえるであろう。
 明治二十二年輝かしい欽定憲法として制定以来五十八年その精神と運営を誤って軍閥官僚の専横を許す結果をもたらしたとはいえ、ともかく近代日本の根幹をなして来た「大日本帝国憲法」はここに終止符を打ち、国民は明かに国家の主權者としての地位に立ち、天皇は神権的な統治権の総攬者から国民の総意に基く国家の象徴たる立場に移られる。国家は即ち国民であって、常に国民に犠牲を強いて来た抽象的な上部構造たる国家は、民法の「家」の概念とともにもはや存在しない。新憲法の前文は「そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」として、全編を貫く民主主義の理念を人類普遍の原理あるとして明かに規定している。われわれは従来成らされて来た国家概念から、先ずこの新理念を把握し、これに徹することに努めなければならない。
 新憲法の放棄的要素は、いうまでもなく国民主権、議会政治の確立、基本的人権の確保及び戦争の放棄にある。そこには日本国民が将来世界の尊敬を受けるに足る人類の崇高な理想が含められている。しかしいかに憲法の条章に」おいて進歩的内容を誇ろうとも、どこまでもその根底をなすものは個人であり、国民である。即ち新憲法をその精神と理想にそって真にこれを生かすものは、われわれ自身でなければならない。その点において国民はこの歴史的な新憲法実施の日に当って、再び日本国民に与えられた責務と努力の目標について反省を新たにしなければならないと思う。
 敗戦によってもたらされた日本国民の最大の責任はいうまでもなくポツダム宣言の履行であり、日本民主化の達成である。しかも日本の民主革命は外的な力によって与えられたものであるだけに、その内部的な条件と国民の実質とは、これを自主的に健全に推進するまでに成熟していないといわなければならない。そこに多くの独断があり、観念的な行過ぎがあり、混乱がある。勿論その背景には日本の直面している種々の経済的困難もあるが、われわれはお互いの研鑽と努力によって、この障害を乗り越え、一日も早くこの民主化をわれわれ自身のものとしなければならないのである。そのためには国民個々の自我の主張から、先ず謙虚さを取り戻すことが必要であろう。
 新憲法によって国政の最高機関となった国会は、すでに参議院及び衆議院の総選挙によってその基礎を整え、また憲法の施行と同時に地方自治法もまた実施されるが、これも地方首長と議員の選挙によって一応の陣容は整備された。ここに日本国民の総意を反映して、新憲法はその輝かしい発足を遂げたわけだが、これは日本の民主化の完成ではなく、あくまでもその第一歩である。われわれは日本の固い旧殻を打破して、ともかくここまで導いたマッカーサー司令部の偉業に改めて敬意を表すると同時に、日本の現実に省み、名実ともに新憲法が中正なる民主日本の根幹となるようたゆまぬ努力を続ける必要を痛感する。

(典拠は、国立国会図書館所蔵マイクロ資料・請求番号YB-28)
【今日のひと言】:新憲法の放棄的要素は、いうまでもなく国民主権、議会政治の確立、基本的人権の確保及び戦争の放棄にある。そこには日本国民が将来世界の尊敬を受けるに足る人類の崇高な理想が含められている。しかしいかに憲法の条章に」おいて進歩的内容を誇ろうとも、どこまでもその根底をなすものは個人であり、国民である。即ち新憲法をその精神と理想にそって真にこれを生かすものは、われわれ自身でなければならない。
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(典拠は、国立国会図書館所蔵マイクロ資料:請求記号YB―28より)
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by kenpou-dayori | 2015-03-31 06:30 | 日本国憲法施行日の社説
2015年 03月 30日

憲法便り#715 行雲の時事川柳 「花丸を 貰いにゆくぞ アメリカへ」

2015年3月30日

今日から、ときどき、雅号の「行雲(ぎょううん)」として、川柳を掲載します。
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by kenpou-dayori | 2015-03-30 17:06 | 川柳・俳句・短歌
2015年 03月 30日

憲法便り#714 岩田行雄の時事川柳「米軍に 取って代わるぞ ”わが軍が”」

2015年3月30日

安倍首相の言いたい放題、やりたい放題。
そしてその取り巻きたちが追随する醜い姿。
もう、この国は、民主国家とは言えないほどの重病にかかっている。
とにかく、表現者として、声を上げ続けようと思う。

私、号を「行雲」と名乗っています。
新聞に投稿しても、掲載されるかどうか判りませんので、これからも、『憲法便り』に掲載するつもりです。

「米軍に 取って代わるぞ ”わが軍が”」 行雲

もう一句
「花丸を 貰いにゆくぞ アメリカへ」 行雲
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by kenpou-dayori | 2015-03-30 17:00 | 川柳・俳句・短歌
2015年 03月 30日

日本国憲法施行日の社説No.18:『埼玉新聞』5月3日一面社説「歓喜と義務」

2015年3月30日(憲法千話)

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昭和22年5月3日付埼玉新聞一面
昭和22年5月3日付『埼玉新聞』は、一般的に社説が掲載される一面左上に、「論壇」というコーナーを設けており、この日は『歓喜と義務』という一文を掲載した。
一面の下半分に掲載されていた広告部分は、切り抜かれている。残念ながら、埼玉県文書館、埼玉新聞社も紙面全体が保持されているものは所蔵していないので、不完全なまま紹介せざるを得ない。広告欄の切り抜きは、昭和22年の初めから、続けて行われている。
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昭和22年5月3日付論壇「歓喜と義務」は、歓び溢れる題名なので、記事の写真の下に、文字起こしを行った。(旧字体は改めた)
判読不能な部分は、□□で表現してある。
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5月3日付論壇「歓喜と義務」

四月選挙も無事終了して憲法施行までの準備は形式上一応整った。そしていよいよ今日は新憲法が施行され、名実共に日本は民主国家の第一歩を踏みだすことのなったのである。
 憲法は国家の最高法規である。その憲法が徹底的な民主主義思想に基いて国会、内閣、裁判所等の国家機構を定めると同時に、基本的な人権擁護の原則を明示して、旧来の「国家に対する臣民の義務」に代って新たに「文民の自由」即ち言論、思想、信教の自由、勤労の権利、男女の本質的平等まで明文化したのは大きな特徴である。そして今一つの特徴は、全世界に率先して戦争放棄を宣言し、自由と平和の人類理想を謳っていることだ。このような内容と、さらにこの憲法がいかにして生れたかということを思い併せると、今日の施行は世界史上に輝しい一頁を飾って余りある。吾々は絵に書いた餅ならぬ修辞上の自由には慣れているが、本当の自由は、祖先以来一度も体験したことがない。さればこそ、この自由はとかく履き違えられて他人の自由を拘束しても自己の自由を主張するような愚劣さえ生んでいる。自由を得た吾々は、もっと自由の本質を智的に理解する義務がある。
 同時に権利は義務との均衡の上にたってこそ成立つものであることも忘れてはならない。憲法は自由と権利を保障しているが、これを濫用することを戒めている。同時に勤労と納税及び社会保障、社会福祉、公衆衛生に対する義務も厳然と規定している。
 今や新しい革袋に新しい酒は盛られた。けれども□□な事は、多くの人々が憲法を内容的に知っていないことだ。憲法に徹した言動が常に人々を支配するようになって、初めて国の軌道が招かれることになる。従って一人でも多く一日も早くまぅ憲法を知ることが肝要だ。国民にマスターされない限り、自由も権利も伸展はしない。
 今日の歓喜はやがて明日への義務につながる。吾々は今日「日本国民は国家の名誉にかけ全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓う」(憲法前文)と全世界に宣言したが、これは□□(将に?)国民一人一人の義務であることを忘れてはならない。(□□:板谷?)

(典拠は、埼玉県立浦和図書館所蔵のマイクロ資料複写版より)
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by kenpou-dayori | 2015-03-30 06:39 | 日本国憲法施行日の社説
2015年 03月 29日

70年前の「平和国家」論の社説No.3:昭和20年9月5日付『神戸新聞』社説「平和への努力」

2015年3月29日

 昨3月28日、国立国会図書館での調査で、昭和20年9月5日『神戸新聞』一面掲載の社説『平和への努力』を確認したので、紹介します。
拙著『世論と新聞報道が平和憲法を誕生させた!』の執筆の時点では見落としており、このたび行った昭和20年9月に各紙に表れた「平和国家」論の「社説」の再点検により確認したものです。
新聞の周りが黒いのは、戦争中の火災によるものと考えられます。もっとひどい例を見かけることがあります。
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昭和20年9月5日付社説「平和への努力」
 二日午前九時東京湾上米戦艦ミズーリ号の艦上で行われた降伏文書調印式を以て、ここに大東亜戦争は正式かつ完全に終結を告ぐるに至った。この降伏文書の要求するところは、わが内外地にある全軍隊の降伏、ポツダム宣言の受諾とその義務の履行、並に降伏要綱実施のため、国家統治の権限を連合国軍総司令官の□□(権限?)下に置くというにある。この調印によってわれわれはわれわれの無条件降伏を明確に認めなければならないと同時に、世界もまたこの事実を認めるのである。全文を通読しても判るように、連合国の態度は極めて峻烈なものがあり、而もわが降伏条件の履行については、完全かつ迅速を要求している。われわれはこの完全かつ迅速という字句を深く肝に銘ずるとともに、冷厳なる現実に決して目を覆うことなく、あくまでもこれを大胆に直視し、やがて訪れるであろう大なる苦難の荊道を真一文字に進むの決意を固めなくてはならぬ。要するに調印後われらに科せらるべき義務、負担が如何に重かつ大なるとも、われらは敢然としてこれを受け入れるとともに、男らしくこれを履行すべきは当然のことである。また大東亜戦争の終結は世界的な意義を持っていることは当然であるが、この大なる歴史的事実が演ずるであろう世界平和将来への役割もたま重かつ大なるものがあることを忘却してはならないと思う。
 破壊と殺戮、呪うべき戦火は終息した。今や世界は新しい平和を希望するや切なるものがある。われらもまた真に健全なる世界平和の確立を希求してやまないことは勿論である。だがここで銘肝すべきは、日本人は軍国主義者、好戦的国民なりという刻印をおされているという事実である。実に残念なことではあるが、最早致し方がない。勿論そこには誤解もあり、またわれわれの努力、勉強の足りなかった点も多々あるのであるが、この際われわれが誠心誠意以って努力しなければならぬのは、日本人は断じて好戦的国民に非ず、むしろ如何に平和を愛する国民なるかを全世界に立証することである。この立証が連合国側に認められない限り、国際的友好関係の回復、引いては真の世界平和を確立することは望むべくもない。またこの問題が、民族的イデオロギー乃至理想を異にしている観念と観念とが、完全なる氷解点に達しない限り、決して解決するものではなく、それだけに極めて至難な問題であることも明記しておく必要がある。
 調印式に際し、トルーマン大統領が行った放送演説の中にも日本の軍国主義者という言葉が窺われるし、当日スターリン議長の演説中にも日本の侵略者という言葉を見出すのである。また本土進駐に従って各新聞特派員たちも、過去の観念を容易に清算し得ず、依然として日本人に触ることを極度に畏怖するかのごとき言辞を漏らしている。われわれは敗れた。而も実力で敗れたのである。今更思い残すことはあるまい。過去の責任を追及し、或は過去の幻影に恋々たるは大国民の襟度ということはできない。ただこの上は、苦難に満ちた現実を直視し、真正面からこれにぶつかり、新しい生活の創造、生気溌剌たる新国家の建設、猜疑のない真の国際友好関係の把握に一路邁進しなくてはならない。惟うに民族的イデオロギーを異にする観念を完全に氷解せしめることは至難な業であるが、しかしこれだけは是が非でもやり通さねばならないのである。われわれは今後いわゆる温室育ちの文化人であってはならぬ。大いに外氣を吸い、外界に触れ、敢然と大自然の真只中に飛びこまねばならぬ。己を知り、人を知ると同時に己を人を知らしめねばならぬ。世界は今平和建設の陣痛に悩(?)みつつある。勝者もまた敗者も過去の一切のゆきがかりや観念を一掃し、ただ誠意と努力によって揺ぎなき平和の金字塔をうち立てねば樹てねばならぬ。

(典拠は、国立国会図書館所蔵マイクロ資料:請求記号YB-677)
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by kenpou-dayori | 2015-03-29 21:16 | 敗戦直後の「平和国家」論の社説
2015年 03月 29日

日本国憲法施行日の社説No.17:『上毛新聞』5月3日一面社説「新憲法実施」

2015年3月29日(憲法千話)

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*No.16までは、カテゴリの表示が「憲法千話・憲法施行に関する社説」であったが、連続番号がうまく表示されないため、No.17から、「日本国憲法施行日の社説」とした。

今回は、保守王国と呼ばれる群馬県内で発行されている『上毛新聞』を紹介する。
一面下半分を見ると、『護れ「文民の自由」 官僚の自制を要望』と題する記事や、『民主日本の誕生 祝 新憲法の施行』の大見出しを掲げた祝賀広告に、この時代の息吹を読み取ることが出来る。
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昭和22年5月3日付『上毛新聞』一面の社説「新憲法実施」
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新憲法下での、政治のありよう、国民のありように関して、明確な問題意識を表明した社説なので、文字起こしを行った。(旧字体は改め、句読点を補った)

5月3日付社説「新憲法実施」
 今日は新しく制定された日本国憲法が施行される日である。
 ワシントン二十七日発UPによると極東委員会は、日本憲法に対し、一年乃至二年以内に新憲法が日本国民の自由な意思の表現であるかどうかをたしかめるための国民投票を求めるかも知れないといって、新憲法にあらためられなければいけない点があるかどうかをきめるものは、恐らくその条文の不備には見出されず、新憲法がどの程度その条文に忠実に施行されるかかの手続き及び運行上の細則に見出された□□□気がする。
 おおざっぱにいって新憲法は普遍性のある原理を敷衍(?)することに注意が払われている。世界の何処でも通用する原則を支持するという建前、あらゆる不合理性を極力規定の中から排除したということは、天地の大道を行こうとする新しい日本の立場を明かにするものであって、この点依存をさしはさむ余地はないようである。
 しかし、この憲法の立派な民主的な、国民を主斑とする条文が文字通り行われるどうかは、このを行使する政府とこれを自分の心構えいかんにあって、政府役人をも含めて国民全般の宿題であり、今後検討しなければならないことは、その条文を生かすための方法、措置、指導に不備な点があったり曖昧な点があったり、欠けた点があったり、居らないかどうかである。折角の条文も実は注がなかったり、(一行判読不能)するに不都合な点があったりしては何にもならないからである。
 ソ連の憲法の規定するところによると、労働者及び農民の社会主義国家である、その全権力は勤労代議員ソヴェートによって代表される都市及び農村の勤労者に属すると書いてある。しかし事実はその国家を指導する人達二三に大きな権力があるようであって、第十条「人民の基本的権利及び義務」の極めて民主的な条文にもかかわらす、我等の知る範囲では、その条文の示す言論、出版、集会及び街頭行進示威の自由が文字通り許されているという話をきかない。換言すると労働者及び農民の社会主義国家であるという言葉に□り(誤り)はないにしろ、その国家を形造るための力が大きくなって、それを(一行分判読不能)がぼかされていると考えてよいであろう。
 日本国憲法は、その第三章第十一条以下に於いて国民が個人として個人として尊重されることを明かにしている。主権が国民に存することは前文の強調しているところである。ところが実際に於いて個々の国民が平等に尊重される、ということは理想であって大抵の場合、大きな力の前に泣き寝入りさせられる。国民主権といってもそれは国民個々が権力の実権を握っているというのではなくて、国民にその力があるというだけの規定であり、国民同志一体として結びつき、組織の中に入らなければ本当の力を持たないのである。国民が個人として□□(尊重?)されるという見方も、それを保証する筈の法律も、(一行分判読不能)にするために結びつく方法や方向が不完全であるとしたら、これ等折角の条文も効力発生しない訳であろう。
 法規は、それを行使する人によって良くも悪くも正しくも邪にもなり得る。憲法の条文が正しいということは、その国が住みよく明るいという証拠にならない場合は多々あるのであって、その正しい条文が正しさを□□するための導き方に手ぬかりがあっては何にもならない。このことは国民についても同様にいえることであって、折角与えられた権利を他人事にきいて、これを理解することなく、その権利を正しく用いることにおろそかであっては、何にも与えられないと同じであるばかりで(一行分判読不能)放棄し、行使する人を思い上がらせ、延いては社会全体の進歩的な歩みを邪魔する結果になろう。
 本日の憲法施行日を記念して様様な祭りや式典が各地方に繰り展げられるだろう、まことに祝ってよいことであり、日本が世界の文化国家の伍してまさるとも劣らない申合せをしたという点で誇るべきだが、この祝はお祭り気分だけで終らせてよいことでなく、お互いが正しくその内容及び意義を知って、現実に身につけ、お互いの力によってその実を推進させるための努力と勉強とを怠ってはならない。このことは政府の□□及び□□方法に於いて□にしかりであるということに気付きたい。

(典拠は、群馬県立図書館所蔵マイクロ資料より)
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by kenpou-dayori | 2015-03-29 06:03 | 日本国憲法施行日の社説
2015年 03月 28日

70年前の「平和国家」論の社説No.2:昭和20年9月5日付『朝日新聞』社説「平和国家」

2015年3月28日

この社説は、すでに2014年 09月 05日に『憲法便り#646』で紹介したものです。若干の加筆をして再録します。
昭和20年9月6日付『上毛新聞』の社説、同じく9月6日付『伊勢新聞』の社説は、ともに『朝日新聞』社説「平和国家」を借用し、全く同文で掲載しています。

この社説は、マスコミの皆さんにも、読んでいただきたい文章です。
後になって、「あの時、こうしていれば良かった」と悔やむより、いまが大切です。
いま、日本の政治は、安倍政権の憲法破壊、立憲政治破壊、国民無視の政策の強行により、戦前の「いつか来た道」を、まっしぐらに逆走しています。
日本は、「テロとの戦い」を口実に、国民の声を無視して戦争準備を急速に進めていますが、決して、過ちを繰り返してはならないと思います。

この社説には、天皇の言葉にすべてを求めるたわ言のような部分もありますが、とにかく、最初から最後までお読みください。

最後の方に、「心ある国民はそもそも一部官辺のナチスかぶれの思想が今日の禍を齎したことを痛感している」という言葉も書かれています。

私が戦争を体験したのは、二歳の時でしたから、あの戦争に責任はありません。
でも、「同盟軍への支援」、「集団的自衛権」なるものを口実に現在進行している戦争への道を許してしまったならば、力不足だった私にも責任があると考えています。
後で、「力不足だった」と慨嘆するよりも、いま力を尽したいと思います。

判読が困難な個所は、□□で記しておきます。旧漢字、旧仮名遣いも改めてあります。

社説「平和国家」
「連合軍進駐のめまぐるしい速度並にポツダム条項履行のための急速なる準備―内閣及び各省当局はいまこれに忙殺されている。もちろん具体的措置は、連合軍司令官の命令を待ち、これに即応して行なわれるのであるが、そのための心の用意と実務上の仕度は着々なられなければならないからである。あの惨憺たる終戦前後の混沌から、突如急転、降伏に立ち至った情勢下に出発した現内閣としては、いま□にこれ以上の能率を発揮することは頗る至難といわなければならぬ。厩舎、電報、電話から甚だしきは乗用車そのた交換手段さえ意に任せぬこともこの際思い合せられなければなるまい。
 しかしながら、現内閣が心の奥底から深く思索し、堅く決意せるところのものは、総理の宮の談話にもあったように、日本の再生、再誕生にほかならぬ。現在のところ、日々の緊急要務に忙殺されざるをえないため、また言葉以上のものになっていないかも知れない。具体的事実というにはさらに一層遠い距離があるであろう。だが、いま日本に進行しつつあるものは、恐らく空前の大変革なのである。強風によって急旋回したカードの表に裏が代ったほどの急変化である。この大激変を日本人自身すら明確にはまだ□っていないかも知れない。一般的には暗中に模索しているといえるかも知れぬ。しかし、具眼の士はすでに明確に意識している。いな大衆も模索の境にあるとはいえ、無意識の裡に、漸次厳粛なる結論に到達しつつあると思う。
 然らば、いったい、こうした突□はどこから来たのか。それは東洋の秘密であり、日本の神秘に属する。端的にいおう。八月十五日正午の天□からである。天□なるが故に真実を指さされ給うた。事実を自ら偽るものはもはや許されない。無用の虚勢も、自己本位の欺瞞ももはや存在し得なくなった。それは民心深く浸透したものの力である。世界平和をつねに御□念遊ばされ万民赤子を道具としてでなく、大御□として慈み給う大御心が□□の如く全国民の良心をうったのである。そこには、もはや君民を隔てる何物もすでに力を失っていた。あらゆる謀略ももはや効を奏しなかった。遠く余りにも遠くゐまして、知るによしなかりし大御心が玉音とともに国民の迷夢を覚醒せしめられたのである。思うに戦争はすでに完全に負けていたのだ。知らされさえすれば理解の早い日本人も、知らされざるが故に完敗とは思っていなかったのだ。卒然として迷妄が霧消し去った。科学において破れた。出兵においても破れた。政治においても破れた。経済政策においてはなおさらだ。よく諒解し得なかった支那事変のつづきの戦争としての危惧の念も強かった。単に物量と原子爆弾だけに敗北を喫したのではなかった。
すべてにで敗れた日本は、また再び戦争を考える愚かものではない。精神に生きよう。文化に生きよう。学問に、宗教に、道義に生きよう。欧亜にまたがるかくの如き大戦の惨禍を未来永劫世界より絶滅するための一助言者として生き抜こう。これが佯(いつ)わらざる日本人の心理であり、新日本の姿勢である。開院式の御垂示に「平和国家」と宣うた。然り、平和国家の平和なるみ民として、断じて敗るることなき文化と精神の大道を踏み出そうとしているのだ。このコペルニクス的大転回は、総て徐々にもせよ事実の上に現れて来るであろうが、日本人の外は中国人が些(いささ)か理解し得る外は、国際的になかなか腑に落ちないかも知れない。それはそれでよろしい、けれども、ここにはっきりしているのは「信義」を内外に失うようなことは、日本国民自体が絶対的に許さないであろう事だ。心ある国民はそもそも一部官辺のナチスかぶれの思想が今日の禍を齎したことを痛感している。民本の、君民一体のわが国に独裁者気取りの指導者の介在することを嫌悪していたのだ。それらのものは戦争犯罪者として処断されるに全大衆の痛烈なる審判に包囲されているのだ。もって陰険と、謀略と、不忠と無智と饗膳とを払拭し去ろうとしているのだ。「平和国家」日本の、平和国民日本人の途は、かくて世界的に客観性を立証するに至るであろう。」

※平和憲法を守る闘いに寄与するため、昨年5月に下記の新著を緊急出版しました。
『世論と新聞報道が平和憲法を誕生させた!』
―押し付け憲法論への、戦後の61紙等に基づく実証的反論―
(これは『心踊る平和憲法誕生の時代』の改題・補訂第二版です)

闘いは、まだこれからも続きます。「押し付け憲法」論、自主憲法制定論に対する闘いに、是非とも本書を活用していただきたい。

ご注文は、下記の書店へ
美和書店 電 話03-3402-4146
FAX 03-3402-4147
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by kenpou-dayori | 2015-03-28 09:06 | 敗戦直後の「平和国家」論の社説
2015年 03月 28日

70年前の「平和国家」論の社説No.1:昭和20年9月3日付『福島民報』社説「平和建設への強力な拍車」

2015年3月28日

この社説は、すでに2014年09月03日の『憲法便り#643』で紹介したものですが、憲法千話の中の『70年前の「平和国家」論の社説』のシリーズの最初の社説として、若干の加筆の上、再録します。

ここに紹介する昭和20年9月3日付『福島民報』の社説は、他紙に先駆けて、敗戦後、最も早く「平和国家」について論じた画期的な文章です。
社説の論題は、「平和建設への強力な拍車」ですが、これは単なる平和論ではなく、文中で二度繰り返されている「理想国家」という言葉をを見てわかるように、これは「平和国家」論です。
九月二日付「詔書」および「降伏文書」では、国民を「臣民」と呼んでいますが、『福島民報』の社説では、「国民」と表現しています。
文章全体も、自由民権運動が最も盛んに展開された土地柄の福島県民らしい、「肚」のすわった文章です。
旧字体の漢字は、新字体に改め、旧仮名遣いも改めました。

昭和20年9月3日付『福島民報』一面掲載の「社説」。

「平和建設への強力な拍車」
「さきに時局収拾に関する大詔が渙発されてから約半月、停戦協定は極めて平和裡に成立した。同協定はいう迄もなくポツダム宣言を内容とする峻厳な降伏文書である。帝国が連合国に対し、完全に敗北し、完全に降伏した事実を、帝国政府の名に於て確認し、帝国に課せられた降伏条件を忠実に履行すべきことを確約した帝国の降伏文書である。われら国民の感情としては之を正視するに忍びないものであるが敗戦と降伏の惨憺たる境地からわれらの祖国を再建するためには、われらは断乎この感情を抑制し冷静に大胆に敗戦と降伏の事実を直視し之に対処するために最善の努力を払わねばならない。首相が告諭で御指示あらせられたように「潔ク降伏ノ事実ヲ直視シ、勅ヲ畏ミ飽クマテモ冷静秩序ヲ持シ政府及大本営ヨリ命セラルル所ニ□由シテ大道ヲ誤ラサル行動ニ終始」しなければならない。然うすることが祖国を救い祖国を再建するただ一つの途なのである。敵側で帝国が全面降伏を決定してから今日まで、われら国民は未だ嘗て経験したことのない歴史的な狂瀾の裡に立ったのであるが、爾来今日まで政府も国民もこの難局に対する大乗的措置に過らず、よく大国民としての態度を保持してきたのは、国民とともにわれらの窃かに悦びとするところである。しかし過去半ヵ月の苦難は、今日以後更に何カ月、何十ケ月となく続くであろう苦難に比するならば恐らく物の数ではなかったのであろう。日本及日本国民の行く手には、物心両面に於て真に忍び難いような苦難が待ち構えているものと覚悟せねばならない。今ではそれが日本国民に課せられた不可避の運命である。だが、われらは文字通り石に嚙付いてでもこの苦難を克服せねばならない。日本及日本国民の名誉に賭けて□に連合国に対する降伏条件を完全に履行するばかりでなく敗戦日本を世界最高の理想国として再建するために、国民の全力を余すところなく傾注しなければならない。國體を護持し正義と平和とを基盤として、新日本の平和建設に邁進せねばならない。
 全連合国進駐軍の兵数は漸増し、進駐地区は更に増大され、連合国の飛行機の爆音は不断にわれらの耳朶を打つであろう。連合国は固より世界を挙げてわれら国民の国家再建の努力を凝視するに相違ないのである。この間に処して、われらは如何にその政治態勢を改善し、如何に精神文化の向上を図り如何に科学水準を上昇せしめるか、これはまさに世紀的大事業である。一方に於て降伏条件の完全履行という重荷を背負いながら、しかも一方に於ては世界を驚倒せしめる程の理想国の再建という文化的な一大展望の実現を期するのである。敗戦と降伏とは永久に拭い去ることの出来ぬ国民的屈辱であるが、この屈辱から日本及日本国民は新しい希望を目指す契機を掴むことが出来たともいえる。さきに渙発せられた時局収拾の大詔に於て「□□ヲ□クシ志操を鞏クシ國體ノ精華ヲ発揚シ世界ノ邁進ニ後レサランコトヲ期スヘシ」と仰せられたのは屈辱の彼岸に日本国民の生々発展すべき新天地の存することを御□示あらせられたものと拝察する。
 このように日本及日本国民の進むべき途は昭々乎として一点の難を容れる余地がない。降伏条文の調印完了という事実は
却って日本及日本国民の平和建設への努力に拍車をかけるであろう。ただこの平和建設への努力は、政府並に一般指導層の猛省と勇断を必要とし、国民の努力は飽くまで組織的且つ能率的なものに仕組まれねばならない。国民の肚は出来ている。平和建設に対する政府当局の最善の努力を重ねて希求してやまない。

※平和憲法を守る闘いに寄与するため、5月に下記の新著を緊急出版しました。
『世論と新聞報道が平和憲法を誕生させた!』
―押し付け憲法論への、戦後の61紙等に基づく実証的反論―
(これは『心踊る平和憲法誕生の時代』の改題・補訂第二版です)

闘いは、まだこれからも続きます。「押し付け憲法」論、自主憲法制定論に対する闘いに、是非とも本書を活用していただきたい。

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美和書店 電 話03-3402-4146
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by kenpou-dayori | 2015-03-28 08:00 | 敗戦直後の「平和国家」論の社説
2015年 03月 28日

憲法千話・憲法施行に際しての社説No.16:昭和22年5月3日『下野新聞』社説「新憲法の実施」

2015年3月28日(憲法千話)

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*No.16までは、カテゴリの表示が「憲法千話・憲法施行に関する社説」だが、連続番号がうまく表示されないため、
No.17からは、「日本国憲法施行日の社説」とする。


憲法千話・憲法施行に際しての社説No.16:昭和22年5月3日『下野新聞』社説「新憲法の実施」
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5月3日社説「新憲法の実施」
新憲法はいよいよ今日から行われる。新憲法の中味を一口にいうと、国民による国民のための国民の政治だということと、お互いに人格を尊重し合うこと、そして絶対に戦争はしないという三つの点が骨組となって成立っているということができる。これを言いかえるならば民主政治の徹底、人としての尊さ、平和の提唱という三つの言葉となる。このような新憲法を実行するためには、われわれはいままでの古い考えをさらりと捨てて、民主政治と国際(平和)をうちたてるために全力をつくさねばならない。いままでの古い考えとは一例をあげていうならば、旧憲法には「文民の自由」が保証されていなかったので、過去における日本人は利益も保護も得られない政府にたいして労力のみならず尊い生命までもささげるように強いられていたではないか。それを新憲法は保証している!だから、総司令部民政局代表は新憲法公布にさきだって、新憲法によって示された「文民の自由」の意義を次のように解説している。
 「文民の自由」とは個人の行動の自由であり、法によらずして他から干渉をうけることのな□□□有の自由である。また自己の良心にもとずいて考えてものをいう個人の権利である。このように個人は重要かつ尊厳なものであるという観念は、民主主義の根本観念である。何人もまたいかなる団体も、他人の行動の自由を左右したり、命令したり、制限したりする権利はもっていないといっている。
 これはしかし「自分勝手なわがままをしろ」ということでは断じてないのであって、自己の良心にもとずかなければならないのであるから、自己の良心というものを失ってしまった人にはできないことであって、そのような者が法によって正しい方向にみちびかれることになるわけである。この点はまちがえないように注意しなければならない。例えば、言論の自由とい立場から、昨秋、芳賀の農民が「自主供出」を叫んだ。言葉の上ではどうあろうと、政府が食糧政策の上からこれだけ出してもらいたいといったその割当にたいして、無いのならともかく、持っていて出さなかった悪農があった。それが法のさばきをうけることになったことは、「自主供出」をさけんだ農民が自己の良心にもとずかなかったからである。そもそも、「自主供出」などとといものは、誰もが自己の良心にもとずいてはじめて実行されるものであって、口では自己の良心にもとずいてやるようにいいながら、腹の中では□□□□□出す気はなかったという結果となったのである。
 民政局代表はさらにこういっている。今日の日本における政府の地位と責任は非常に重大である。民主的な日本再建に向って政府が平和的に漸進的に進んでいこうとして努力していることはよくわかるが、とくに官僚はかれらの身内にしみこんでいる伝統的なやり口、すなわち国民の意見には一切耳をかさないで、ただ自分が国民のためになると思っただけで物事をきめていくというやり方にかえろうとする傾向があるから、国民は、これを厳重に監視してその根を絶つことが必要である。官僚はいかにも(一行判読不能)に自分を重要なかしこい人物と思いこんでいようとも、国民が正規の期間を通じて表明した希望、要求、決定に反対し、またはこれを無視する権利は、法律的にも道徳的にも全く持っていない。官僚は国民が自由に自分の思っていることを語り、その信念をのべ、周囲のものを説得しようとするのを十分に保証する責任をもっている。官僚、軍閥、貴族、財閥のいずれを問わす、少数の特権階級が国民の生活を上から支配し、国民を思うままに動かす社会を何とかして温存し、または維持しよとすることは、国民の生存を無視あるいは□□するものである。
 新憲法の施行によって日本は平和な民主国家をつくり上げるキソ工事を終った国民はいまこそ戦争の恐怖と圧政の悲劇から解放される機会を与えられた。国民は男女の別なく自由に生活し、自分の手で役人をえらび、彼等に国民の決定と判断にしたがうことを要求する権利をもつに至った。「国家に対する臣民の義務」ということは昔ばなしとなり、国民がすなわち国家となったのである。だからわれわれは今こそ古い考えをすてて、新憲法はこのような明るい生活を象徴(?)するのだということを考えるべきである。

(典拠は、国立国会図書館所蔵マイクロ資料YB―327より)
今日のひと言:新憲法の施行によって日本は平和な民主国家をつくり上げるキソ工事を終った国民はいまこそ戦争の恐怖と圧政の悲劇から解放される機会を与えられた。
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by kenpou-dayori | 2015-03-28 06:47 | 憲法千話・憲法施行に関する社説
2015年 03月 27日

憲法千話・憲法施行に際しての社説No.15:昭和22年5月5日『福島民友』社説「新生日本の発足」

2015年3月27日(憲法千話)

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憲法千話・憲法施行に際しての社説No.15:昭和22年5月5日『福島民友』社説「新生日本の発足」

昭和22年5月3日付『福島民友』の社説は、「政治性の不足」と題してはいるが、憲法施行には関係のない一般論である。したがって、文字起こしはせず、一面上半分の紙面紹介に止める。
なお、翌5月4日付の社説「面目を一新した県政界」も、憲法施行に関係のない県政界の分析なので、紙面紹介は省略する。
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5月5日付『福島民友』の社説「新生日本の発足」で、ようやく憲法施行に関して論じている。
当時は、紙不足で、教科書用紙を確保するため、新聞各社が順番で、それに協力していたが、5月5日付『福島民友』はその順番にあたり、タブロイド判で発行している。

昭和22年5月5日『福島民友』社説「新生日本の発足」
 新憲法の施行により主権在民の原則は確認され、文化国家、恒久平和の大勢は定められ、わが国はいよいよ新しい平和日本、民主日本として、更生の第一歩を踏み出すことになったわけである。われわれはこれを機会に過去を過去として葬り去り、よりよき国家生活を開始する希望と、確信と、勇気とに燃え上がらなければならない。新憲法の制定とか、新憲法の実施を、何か他人事のような傍観的な態度をもって、見ている者もあるようであるが、そうゆう態度は反省されなければならないのではないか。新憲法の実施に対して一般国民が余りにも無関心な、何の感激もない態度を示していることは、決して感心すべきことではない。
 新憲法は新しい日本の在り方、新しい日本統治の大本をはっきりと規定している。しかしそれは、国民大衆の心の在り方まで規定し得るものではない。心の在り方は自律的に決められるものだからである。したがって新しい憲法が実施されて、新しい日本の在り方は規定されても、国民大衆が自律的にこの新憲法の精神にそうて、今後の日本の運営を行う心構えにならなければ、何もならないのである。いかにりっぱな憲法でも、それは要するに紙の上に書かれた文字にすぎない。これを生かすも殺すも、それは国民大衆の心構えいかんにあることなのである。しかしてその国民の心構えは、法文に□□□規定しうるものではなく、国民大衆自身の自律的な考えによることなのである。
 馬を河に入れることはできる。しかし馬に水を飲ませることはできないとゆう言葉がある。馬の首を無理矢理に水の中に突っ込んでも、馬に水を飲む気がなければ、飲ませることはできないのである。これと同じように法規はいかようにも定めることができるし、また法規は、人の行動を規定することもできる。しかし法規は人の心の中まで、規定することはできないのである。結局それは、各人の自主的な協力にまつほかはないのである。すなわち国民の自覚とゆうことが根本の問題となってくるのである。
 新憲法の実施に際して、国民の多くが、無感激、無関心の態度を示しているとゆうことは、この自覚が不足していることを物語るものではなかろうか。新憲法制定が、必然的な時代の要請であるとゆうこと、更生日本建設の目的を達成するためには、新憲法の精神に基いて、方針を立てて行くほかはないと、正しく認識していないことを示すものではないだろうか。この点について国民大衆は、この祭じゅうぶんに考慮するところがなければならないと思う。

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(典拠は、国立国会図書館所蔵マイクロ資料より)
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by kenpou-dayori | 2015-03-27 06:18 | 憲法千話・憲法施行に関する社説