岩田行雄の憲法便り・日刊憲法新聞

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2013年 08月 11日

憲法便り#187 昭和20年8月11日

外務省編纂『終戦史録』の「太平洋戦争日歴」

昭和20年8月11日(土)

[日本]
陸海軍の一部に終戦阻止運動起る。
政府の國體護持声明と陸相の戦争邁進訓示、新聞にならんで発表。(注1)

[外国]
トルーマン華府時間十時二十分に連合側回答を駐米スイス公使に渡す。
フーヴァー元大統領アジア及び欧州の赤化警告演説。

(注1)この間の事情について、外務省編纂『終戦史録』の「第四十五篇」では次のように記述されている。(610-611頁)
「国内においては、國體問題留保附をもって、ポツダム宣言を受諾する措置が講ぜられたことは、一般には絶対機密事項として伏せられていた。ただ十月午後三時宮中より重臣へお召しがあった。このお召し会議に先だち、鈴木首相はそれ迄の経緯を説明するため重臣を招いた。主として東郷外相が右の説明に当った。小磯大将より、軍備の充実は神勅に基くもので、これがなければ國體に合致せずとの発言があり、東條大将亦小磯大将の言に賛成を述べたが、しかしそのとき、東條大将は、御聖断ありたる上は自分としては何等言うべきことなしと述べた。
午後二時から閣議が開かれ、ポツダム宣言受諾に関する公表問題が論議された。その結果、午後四時三十分、わずかにこれをにおわすが如き辞句の下村情報局総裁談が発せられた。下村氏は、当時、これは陸海両相とも相談して、練りに練ったものだと述べている。ところが、また同時刻、全軍玉砕の覚悟を促す陸相布告が、各新聞社に配布された。このことについては事前に阿南陸相は知るところがなかったのである。
 十一日附各新聞は、右両文が相並んで掲載された。これでは折角の情報局総裁談にいう「國體護持論」は、陸相布告の「本土決戦論」を裏書きするものと一般には解せられたであろう。少しく情報に通じた人々は、ここにいたって、政府と陸軍との最後的対立を来したものと見て、頗るこれを憂慮した。
 なお、十日夜、陸相布告が新聞社に配布されたことを知った外務省の安東政務局長、岡崎弘報部長並びに朝日新聞某記者は、東郷外相私邸に赴いてこれを報らせ、外相から陸相を説いて、この際その発表を中止させるべきだと訴えた。東郷外相は、沈痛な態度でこれを聴いていたが、結局その措置はとらなかった。」

この混乱と情報の錯綜は、「敗戦」を迎える最後の最後まで続くことになります。


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# by kenpou-dayori | 2013-08-11 07:00 | 太平洋戦争日歴
2013年 08月 10日

憲法便り#185 昭和20年8月10日 条件付きでポツダム宣言受諾電報発送

外務省編纂『終戦史録』の「第四十四篇 國體問題に関する了解附のポツダム宣言受諾電報発送」より

「霞ヶ関の外務省庁舎は、五月二十五日の空襲により全焼していたので、このときは虎之門の文部省内(四階)に引き越していた。
 八月九日から十日にかけては、もち論、松本次官以下幹部を始め関係局課の所要部員は、それぞれ徹夜で頑張っていた。
 瑞西(注:スイス)の加瀬公使、瑞典(注:スウェーデン)の岡本公使あての電報の原案は、すでに九日中に曾禰政務局第一課長が起草し、安東政務局長、松本次官の校閲を経て予て、同次官より東郷外相にも見せてあった。外相は次官に対し、陸軍側提出の三条件は、条件ではないが希望条項として付加する案を別に作成しておくよう命じたが、次官はこれに反対し若し出すにしても此際は絶対に避くべきであると主張したのであった。扨て(さて)、外相が帰って来たのは午前四時頃であった。それから案文の修正にかかった。即ち御前会議において平沼枢相の意見で、「天皇の国法上の地位云々」の箇所が天皇の国家統治の大権云々と修正されたので、その部分のみ電報原案が一枚書き改められた。英文翻訳は、加瀬書記官が担当し、松本次官以下幹部が検討を加え、それから大臣の決裁を仰いだ。時に八月十日午前六時頃だといわれている。東郷外相はその際これら電報案に、鉛筆をもって二、三ヶ所修正を施し、第一電の欄外に(加瀬公使、岡本公使あて合第六四七号)決裁のサインをした。これらの原案は、現在外務省文書課記録書庫内に編さん保管されている。
 午前六時四十五分、加瀬公使、岡本公使あて第一電が送られた。次いで、第二電は七時十五分、第三電は九時、第四電は十時十五分、第五電も同じく十時十五分発出された。かくして、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に」ポツダム宣言を受諾するとする一連の関係電報は発電を終ったのである。
十一日午後になって、両公使より、取り急ぎ任国政府に所要の申入れを了した旨の報告電報が到着した。」

だが、この条件付きでのポツダム宣言受諾の発電で、直ちに戦争終結にはいたらなかったのである。

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外務省編纂『終戦史録』の「第四十四篇 國體問題に関する了解附のポツダム宣言受諾電報発送」より

「霞ヶ関の外務省庁舎は、五月二十五日の空襲により全焼していたので、このときは虎之門の文部省内(四階)に引き越していた。
 八月九日から十日にかけては、もち論、松本次官以下幹部を始め関係局課の所要部員は、それぞれ徹夜で頑張っていた。
 瑞西(注:スイス)の加瀬公使、瑞典(注:スウェーデン)の岡本公使あての電報の原案は、すでに九日中に曾禰政務局第一課長が起草し、安東政務局長、松本次官の校閲を経て予て、同次官より東郷外相にも見せてあった。外相は次官に対し、陸軍側提出の三条件は、条件ではないが希望条項として付加する案を別に作成しておくよう命じたが、次官はこれに反対し若し出すにしても此際は絶対に避くべきであると主張したのであった。扨て(さて)、外相が帰って来たのは午前四時頃であった。それから案文の修正にかかった。即ち御前会議において平沼枢相の意見で、「天皇の国法上の地位云々」の箇所が天皇の国家統治の大権云々と修正されたので、その部分のみ電報原案が一枚書き改められた。英文翻訳は、加瀬書記官が担当し、松本次官以下幹部が検討を加え、それから大臣の決裁を仰いだ。時に八月十日午前六時頃だといわれている。東郷外相はその際これら電報案に、鉛筆をもって二、三ヶ所修正を施し、第一電の欄外に(加瀬公使、岡本公使あて合第六四七号)決裁のサインをした。これらの原案は、現在外務省文書課記録書庫内に編さん保管されている。
 午前六時四十五分、加瀬公使、岡本公使あて第一電が送られた。次いで、第二電は七時十五分、第三電は九時、第四電は十時十五分、第五電も同じく十時十五分発出された。かくして、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に」ポツダム宣言を受諾するとする一連の関係電報は発電を終ったのである。
十一日午後になって、両公使より、取り急ぎ任国政府に所要の申入れを了した旨の報告電報が到着した。」

だが、この条件付きでのポツダム宣言受諾の発電で、直ちに戦争終結にはいたりませんでした。

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# by kenpou-dayori | 2013-08-10 07:35 | 太平洋戦争日歴
2013年 08月 10日

憲法便り#184 昭和20年8月10日第一回御前会議で「聖断」が下るまで

外務省編纂『終戦史録』の「第四十三篇 第一回御前会議 聖断下る」より

第一回御前会議で聖断が下ったのは、8月10日午前2時20分のことですが、御前会議は、8月9日の午後十一時50分(または55分)から始められています。
9日の閣議は、休憩をはさんで第二回臨時閣議に入り、夜になっても論議が続けられていました。

「そこで、鈴木首相は九日午後十一時頃東郷外相と共に拝謁した。首相から外相に御説明申し上げるよう言ったので、東郷外相は天皇にそれ迄の議事の成行を詳細御説明申し上げた。
 次いで、首相は御前で最高戦争指導会議を開催いたしたいこと並びに平沼枢相を参列せしめられたいことを併せお願いした。直ちに勅許せられたので、ここに異例の御前会議が開催されたのである。御前会議奏請の場合首相と両総長の連書を必要としたが、迫水書記官はさきに六巨頭会談の折両総長からこれを獲ておいた。
 御前会議は午後十一時五十分(五十五分と記するものもある)宮中防空壕内の一室にて開かれた。
ポツダム宣言受諾に関する条件問題について、この日朝から繰り返された通り、東郷外相と阿南陸相との対決であった。外相説が甲案、陸相説が乙案として提出された。米内海相、平沼枢相は東郷外相に賛し、梅津参謀総長、豊田軍令部総長は阿南陸相を支持した。もっとも平沼枢相は一、二質問を発した後に、甲案の保留個所が原案では「天皇の国法上の地位を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に」となっていたのを「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に」と修正方を力説し、右修正が容れられたので、甲案即ち外相の意見に賛成したのであった。十日午前二時、鈴木首相は自ら意見を述べて決をとることをせず、その儘天皇の御裁決を願い出た。
陛下は、我が国力の現状、列国の情勢等を顧みるとき、これ以上戦争を続けることは我民族を滅亡せしめるのみならず世界人類を一層不幸に陥れるものである、自分としてはこれ以上戦争を続けて無辜の国民を苦しめるに忍びないから速に戦争を終結せしめたい、開戦以来、軍の言う所と実際との間には屢々食い違いがあった。現に軍は本土決戦などと言うけれども九十九里浜の防備さえ出来ていないではないか、と仰せられ、外相の説を御嘉納になった。時に二時二十分、かくて歴史的の御前会議が閉じられたのであった。――この会議の情景については、陪席した迫水書記官長がその手記に詳しく記しているのでそれによられたい。
十日午前三時、第三回目の臨時閣議が開かれ、聖慮の存するところにしたがって、國體問題のみに関する了解付にて、ポツダム宣言を受諾することに一決した。」


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# by kenpou-dayori | 2013-08-10 07:30 | 太平洋戦争日歴
2013年 08月 10日

憲法便り#183 昭和20年8月10日ポツダム宣言受諾に関する第一回聖断下る

外務省編纂『終戦史録』の「太平洋戦争日歴」

昭和20年8月10日(金)

[日本]
ポツダム宣言受諾に関する第一回聖断下る。
國體護持条件附にてポツダム宣言受諾を連合国側に申入る。
マリク大使ソ連の対日宣戦文伝達。
米機動部隊奥羽及関東空襲。

[外国]
日本の降伏申入れ18:45(華府時間)に米政府受領(同盟放送受信はその十時間前)。


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# by kenpou-dayori | 2013-08-10 07:00 | 太平洋戦争日歴
2013年 08月 09日

憲法便り#182 昭和20年8月9日私の家族も小名浜で米軍の爆撃を受けました

外務省編纂『終戦史録』の「太平洋戦争日歴」昭和20年8月9日(木)に米機動部隊奥羽及関東空襲とあります。詳しい地名は書かれていませんが、福島県の小名浜も空襲に遭いました。

昭和20年3月9日から10日にかけての東京大空襲のあと、東京・葛飾に住んでいた私たちの家族(母と子ども4人)は、父および女子挺身隊として「落下傘工場」で働いていた15歳の姉を東京に残し、母方の親戚を頼って、福島に縁故疎開をしました。最初の疎開地は小高でしたが、小名浜の親戚がより広い住居を提供してくれるということになり、転居しました。
ところが、この転居の結果、空爆により「焼け出される」ことになります。
のちに判ったことですが、小名浜には、通信塔があったために、これが軍事施設として、艦砲射撃や空襲の標的にされたと聞いています。

詳しい記録に基づく正確な話は、別の機会に譲ることにして、今日は、幼い私の記憶に残っていることを書きます。

空襲を受けた昭和20年8月9日、私はまだ2歳と11カ月、3歳の誕生日を迎える前でしたが、その時のことは脳裏に焼き付いています。

この日は、青空がきれいな日でした。突然の空襲警報で、私は母について庭の前の小さな山に登り、防空壕に入りました。
その直後、大きな爆音と共に、防空壕の上を何機もの米軍の爆撃機が飛んで来ました。

防空壕の入り口には扉がなく、入り口に近いところからは外がよく見えます。
外の様子を窺うため、母が入口に近づいた時、母の肩越しに私も外の様子を見ました。

対空砲火がないことを知っている米軍機は、手が届くほどの低空を飛び、藁ぶき屋根の農家めがけて、焼夷弾をばらまいて行きました。

恐ろしい爆音が遠のいた頃、私たち家族が仮住まいをしていた「離れ」の屋根から煙が上がり始め、親戚の「あんちゃん」たちが屋根に上り、袢纏でたたいて火を消そうとしますが、藁ぶき屋根に突き刺さった焼夷弾の火は消えません。
やがて家はオレンジ色の炎を挙げて燃え始めました。離れの火は、母屋に燃え広がり、親戚の家は全焼しました。
頭上にあった大きな爆撃機とこの日の青空とオレンジ色の炎は、未だに鮮明に覚えています。

4歳年上で、当時小学一年生だった姉は、焼跡にたたずんでいた母が、米を入れて置いたブリキの一斗缶の中を見て、「あーあ、みんな炭になっちゃった」と嘆いていたことを覚えています。私の家族はこの火災で、米だけではなく、東京から持って来ていた少しばかりの持ち物も、すべて焼かれてしまいました。
幸いにして、私たち家族は命をおとすことも、怪我をすることもありませんでしたが、東北および関東各地では、多くの人たちが爆撃を受けました。

そして、当時の私たちには知る由もありませんでしたが、この日、長崎に原子爆弾が投下されました。

「太平洋戦争日歴」をずっと辿ってきていますが、戦争指導者たちの判断力、決断力のなさが、多くの悲劇を生み出したことを、ここで強く指摘しておきます。

今日ここに記したことが、私が戦争に反対する活動の原点になっています。


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# by kenpou-dayori | 2013-08-09 15:30 | 太平洋戦争日歴