「憲法改正への前進」
今日は、昭和20年12月30日付『香川日日新聞』の社説を紹介します。
題名は、「憲法改正への前進」。
ただし、この紙面は原紙及びマイクロフィルムの状態が悪く、判読不能な個所が非常に多くあります。したがって、判読可能な部分のみの紹介となります。
正確な資料紹介をするために、苛酷な判読の作業を続けて来ましたが、もう視力の限界です。
以前、ある政党の資料室の方と話していた際に、古い原資料を正確に読み取る調査・研究は「体力、気力、そして視力の勝負です」と言ったところ、「特に、お金は大変でしょうね。どうしていらっしゃるんですか」と質問されたので、「その資力ではなく、目の視力です。お金のことを気にしていては、本物の研究は出来ません。」と答えたことを思い出しました。
今回の「社説」の文字起こしは、甚だ不充分なものです。
しかしながら、「憲法研究会」案が発表されたことによって、それまでの政府や憲法学者の「煮え切らない」態度に比して、憲法改正の方向に希望を持つことが出来たという主張は読み取っていただけることと思います。
【見出し】
「憲法改正への前進」
【記事】
法、国家の真面目が憲法の精神に宿ることは東西その揆を一にするが、いまや、一切の旧体制を捨てて国家生活の新たな性格に出発せんとする日本に取って憲法の修正は基本的命題であり、不可避のものである。三権分立という法治生活の近代的革命以来、憲法の地位は各国とも不動のものとなっているが、その性格においては(以下、一行判読不明)政治の秘密性を含んでいるものも少なくなかった。われ等は日本における憲法の存在意義と、その条項に対する内容的な理解を昂め現実生活の法的権利義務について熟知する域に達しなけれならない。実際日本の国民は憲法を□□のものとし、縁遠いものと考え、生活と遊離せしめ、政治の秘密の□□を縛ろうとしなかったのである。民法や商法だけが一部の人々に直接に係わるもの位にしか考えないのが常識であり、一方では法的知識のみが□吏(官吏?)や公職に万能的な条件だとされながら(以下、三行判読不能)親密な関係あるものとして考えられず、□□だけで民衆は十分国民生活を続けて行けるというような未発達な常識を持ったのである。
憲法は道徳律と同じくわれ等の生活に身近につながっていることを認識せねばならぬ。憲法への理解が国民的に昂まって来れば、憲法の改正なども、もっとスムースに、真剣に考究されたに違いない。
高野博士らの民間における憲法研究会が発表した草案は、今までにない大改革を含んでおり、旧い□□的な憲法学者や政治家達の考え方を(以下、二行半判読不能)をこれによって、見出すのではあるまいか。
今までの憲法がどのように不適当であったかについて国民はむしろ冷静であり得る。国民大衆はこれから先の法治生活における指導と根本理念がこれではっきりすればよいからである。憲法の改正は□早く必至とされたが、今まで、相当進歩的な考え方をしていた学者でもその改正案はむしろ消極的で手ぬるいものになって、□□と□□改めればよいとか、或いは総論は□の部分だけを□□すればよいうとい□□に止まるものさえあったが、(以下、二行と少し判読不能)で掴まなければならなかったのである。否これさえも次の段階には更に一歩を□(擴?)むべきであるとの見解が、「この憲法公布後遅くとも十年以内に国民投票により新憲法の制定をなすべし」とう補則(注:「憲法研究会」案の補則)によっても示されている。之は、軽率なる変更を意味するのでなく、基本法であり、国民の□□の血であり肉であるが故に、常にその生活から遊離し時代遅れになってはならぬとの意味からでなければならぬ。
憲法のあり方は(以下、三行半判読不能)いることは出来ない。われ等の身近なる基本法として、最もよくその本質と条項を理解し、敬愛し、もって世界に誇るべき□□あるものたらしめるのが国民の責任である。□□的な憲法改正の義に当って一層この意□(識?)を強めなければならぬ。国民が法治について目覚めなければ、憲法の□(質?)の(以下、八行判読不能)定されることをわれ等は期待するが、兎に角今までの改正□□や気運が如何に如何にもみえきらぬものに対して、この案がむしろ一切のためらいを捨て、□□率直に新たな方向を示そうとした意図をくむと同時に、これによって国民の一層明□な判断と憲法そのものの理解を□む法治国民なるの良識と態度を□□し得るならば憲法改正議会に一前進を齎すであろうと考えられる。(以下、四行判読不能)
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