2013年8月27日(火)
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ナチスの手口について21回にわたって明らかにしてきました。
全体を通してお読み下さった方は、自民党および改憲派の主張とあまりにも「酷似」していることに、驚かれたことと思います。
最後に、「ナチスの憲法」が出現した時代背景について、下記の文献の7ページをそのまま引用します。ただし、読み易くするために、改行をしてあります。
なお、文中の命令および法律名のドイツ語は省略します。
高田敏(たかだ・びん)・初宿正典(しやけ・まさのり)編訳
『ドイツ憲法集〔第3版〕』〈講義案シリーズ17〉(2001年、信山社)
7 ナチス・ドイツの憲法(1933~1934)
第一次大戦におけるドイツの敗北によって1919年6月28日に締結された《ヴェルサイユ条約》には、ドイツにとってはきわめて屈辱的な内容が盛り込まれており、これがドイツにとってきわめて大きな不満をもたらすことになり、それが、ヴァイマル体制の崩壊の大きな誘因となったといえる。
ヴァイマル共和国の初期はテロと一揆があいつぐ安定期であったが、第2期の1924年頃になって経済的にも安定期に入ったドイツは、国際連盟に加入(1926年)し、国際的にも地位を改善した。
しかし1929年の世界恐慌に始まる第3期に入ると、失業者が増大し、ナチス党(民族社会主義ドイツ労働者党)と共産党が急速に勢力を伸ばしていく。とくにナチスは、1930年9月14日の選挙では一挙に社会民主党についで第二党となり、さらに1932年には得票数が倍増してついに第一党に躍進した。
その後、1932年11月の選挙ではナチス党の議席数はいったん減少し、同年12月3日にはシュライヒャー内閣が成立するが、その内閣はたった2ヶ月たらずで翌1933年1月30日にはヒトラーに取って代わられ、2月1日にはライヒ議会が解散され、同年3月5日のヴァイマル共和国最後の選挙ではナチスが一大躍進し、《ヒトラーの時代》に移ることになる。
1933年2月28日に大統領ヒンデンブルクが出した緊急命令「民族と国家を保護するためのライヒ大統領の命令」という。これはヴァイマル憲法第48条2項の定める大統領の非常措置権が発動されたもので、これにより同項の列挙するすべての基本権が停止された。
3月24日に成立した「全権授権法」(または授権法)は、正式名称を「民族および国家の危難を除去するための法律」という。
当時のライヒ議会の総議席数は647で、ナチスの議席数は288であったから、単独では過半数も制しえない情勢であったが、この議決には中央党、ドイツ国民党等の協力を得、共産党議員らを排除・逮捕したり、脅迫・欺罔したりして、憲法を改正するのに必要な議会の3分の2以上の多数決(441対94)でこれを可決した(反対は社会民主党のみ)。
この法律は、ヴァイマル憲法の改正手続きを経て「合法的」に制定されたが、この法律により、法律はライヒ議会による立法によらなくても、政府によって議決することができることになり、しかも内容的にも憲法に違背することが許されるとされた。これによってヴァイマル憲法の議会制は事実上崩壊したことになる。この法律は、規定上は1937年4月1日に失効することとなっていたが、その後、1937年1月30日と1939年1月30日の法律で1943年5月10日まで効力が延長され、さたにヒトラーの命令で当分の間、延期された。
この全権委任法によって次々と政府制定による法律が成立した。
(以下、すでに紹介ずみの各法律についてのことなので省略)
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