8月27日(火)、妻と久しぶりに 浅草寺境内の戦跡をめぐり、名店「釜めし 麻鳥」に寄ってきました。
浅草の観音様は、正式名称を「金龍山浅草寺(きんりゅうざん せんそうじ)」と言います。
日本で最も有名な観光地なので、お参りなさった方も多いかと思います。
しかしながら、この浅草寺が昭和20年3月8日の東京大空襲で、すべて焼かれてしまったことは、ほとんど知られていません。
実は、華やかな賑わいの中にも、戦争の傷跡が、浅草寺の意向により、いくつか遺されています。
そこで、何回かにわたって、写真を入れて、当時の状況をお伝えすることにしました。
まず、第一回は、現在の宝蔵門(ほうぞうもん)のところにあった旧仁王門の礎石の話です。
浅草寺の入り口は雷門。仲見世を真っすぐ進むと、宝蔵門があり、これをくぐると本堂があります。
この礎石は、本堂に向って広場の右手にある派出所の隣に設置されています。
写真の青空にそびえ立っているのは、スカイツリーです。
礎石の前に説明文がありますので、そのまま紹介します。
旧仁王問礎石
慶安二年(1649)十二月二十三日、旧本堂と共に三代将軍徳川家光公により再建落慶した旧仁王門(国宝指定・現宝蔵門と同規模)は、三百年間浅草寺山門として江戸・明治・大正・昭和と時代の変遷を見つめ、文学、絵画、芸能など往時の文化にたびたび登場してまいりましたが、残念ながら、昭和二十年(1945)三月十日の東京大空襲により本堂・五重塔(家光公建立・国宝)と共に炎上焼失いたしました。
その後、現本堂に続き昭和三十九年(1964)四月一日仁王門を宝蔵門と改めて同跡地に再建されました。
この三つの大石は宝蔵門再建に際して、旧仁王門の跡地より昭和三十七年二月六日に掘出された礎石です。旧仁王門には十八本の大木柱があり、それぞれに基礎石がありましたが、戦火に遭いひび割れ破損し、原型をとどめる大礎石三個を選び保存しました。
石材は「本小松石」で、上端の仕上げ面は約1・2m角、柱受けのホゾ穴があり、最大幅は約1・4m角、高さ約1m。この礎石の下部と周囲は、10~15cm径の玉石と粘土で突き固められていました。
江戸の人々の息吹を感じると共に、平和を祈る記念碑として受継ぎたいと存じます。
浅草寺
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