人気ブログランキング |

岩田行雄の憲法便り・日刊憲法新聞

kenpouq.exblog.jp
ブログトップ
2013年 09月 14日

憲法便り#293 必見! 9月12日付『東京新聞』社説は歴史に残る名文です!!

2013年9月12日付『東京新聞』5面に掲載された社説の題名は、「嵐に鳴く蟋蟀のように 桐生悠々を偲んで」。
これは、九月十日に七十二回目の命日を迎えた桐生悠々の業績を偲んで書かれたものである。
ただ、偲んでいるだけではない。彼が生きた軍国主義・治安維持法時代と、急速に右傾化し、歴史を逆走し、「秘密保護法」により言論弾圧を用意している現在とを重ね合わせ、新聞人が「言うべきことを言う」、その覚悟を述べている。

桐生悠々の論説で最も有名なのは、一九三三年(昭和八年)八月十一日付『信濃毎日』に掲載されている、『関東防空大演習を嗤(わら)ふ』である。当時、彼は同紙の主筆であった。

私も、2008年4月に、憲法講演100回記念特別として自費出版した『平和憲法誕生の真実―戦後の息吹を伝える物語のような資料集』(B5判、239頁、3000冊)の第一部「敗戦直前」中で、桐生悠々について述べ、『関東防空大演習を嗤(わら)ふ』の主だった部分を紹介したことがある。(参考文献:井出孫六著『抵抗の新聞人 桐生悠々』岩波新書、1980)

『平和憲法誕生の真実』第一部では、外務省編『終戦史録』に基づき、米軍による日本各地への爆撃の大まかな「日歴」を示した後で、次のように書いている。

「私は、家族と共に福島県の小名浜に疎開していたが、長崎に原子爆弾が投下された八月九日に、疎開先でB29による空襲に遭った。そして、私達が借りていた親戚の離れに焼夷弾が命中し、母屋を含めて全焼した。すでに見た「太平洋戦争日暦」では、「米機動部隊約一六〇〇機東北攻撃」と簡単に記されているだけである。また小名浜は、艦砲射撃も受けている。その他にも私が講演に招かれた広島は言うに及ばず、函館、青森、秋田、仙台、館山、小平、長野、富山、松山でも空襲を受けている。わずか一行足らずで記された空襲の被爆地には、全国どこでも数え切れないほど多数の悲惨な事実が存在しているのである。
このような惨状を予見した論説が、一九三三年(昭和八年)八月十一日の『信濃毎日』に掲載されている。主筆桐生悠々が書いた『関東防空大演習を嗤(わら)ふ』である。
この二年前の一九三一年(昭和六年)九月十八日、日本の間東軍が柳条湖で南満州鉄道の線路爆破を自ら仕掛け、それを中国の仕業であるとして、本格的な中国への侵略戦争を開始する。
翌一九三二年(昭和七年)五月十五日には、海軍の青年将校と陸軍士官学校生徒らが、首相官邸、内大臣邸、日本銀行、政友会本部などを襲撃するクーデターを決行する。そして、軍靴のまま首相官邸に踏み込み、「話せばわかる」と制する犬養毅(いぬかい・つよし)首相を「問答無用」と射殺する。いわゆる「五・一五事件」である。この事件を契機に、軍部の政治的発言力は急激に増大する。
軍部の暴走で戦争に突入し、新聞がほぼ沈黙してしまっていたこの時代に、桐生悠々は真正面から軍部批判の論説を書いてきた。そして『関東防空大演習を嗤(わら)ふ』を書いた。

「防空演習は、かつて大阪においても、行われたことがあるけれども、一昨九日から行われつつある関東防空大演習は、その名の如く、東京付近一帯に亘る関東の空において行われ、これに参加した航空機の数も、非常に多く、実に大規模のものであった。そしてこの演習は、AK(NHKラジオ)を通して、全国に放送されたから、東京市民は固(もと)よりのこと、国民は挙げて、若しもこれが実戦であったならば、その損害の甚大にして、しかもその惨状の言語に絶したことを、予想し、痛感したであろう。と同時に、私たちは、将来かかる実戦のあり得ないこと、従ってかかる架空的なる演習を行なっても、実際には、さほど役立たないだろうことを想像するものである。
将来若(も)し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ、人心沮喪(そそう)の結果、我は或は、敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか。何ぜなら、是の時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落とすこと能(あた)わず、その中の二、三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焦土たらしめるだろうからである。如何に冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、又平生如何に訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすること能わず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く、投下された爆弾が火災を起す以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚(あびきょうかん)の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである。しかも、こうした空撃は、幾たびも繰り返される可能性がある。
だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである。」(以下略)

いま読んでみても極めて客観的な分析による予見、そして当時としては勇気あるこの発言を、「国民」は許しておかなかった。
同年九月、信州郷軍同志会幹事長と各郡の代表を名乗る、軍服姿の七人の男が『信濃毎日』本社に押しかけ、応対にあたった小坂常務に対して、主筆桐生悠々と編集長三沢背山の追放、小坂自身の謝罪文掲載を要求した。この要求は、それが容れられない場合には、すでに用意していた印刷物を以って、全信州八万人の郷軍同志会が『信濃毎日』の不買運動を始めるという脅迫を伴って行われた。
桐生悠々は『信濃毎日』を去った。これは、日本の新聞と言論が完全な窒息状態に突き進むを時代を象徴する事件であった。そして、「国民」は軍部と共に、戦争にひた走りに走り、桐生悠々が予見した惨状を迎えることとなる。」

私がこの文章を書いたのは2008年4月以前、いまから5年半前のことであるが、その後情勢は急激に悪化している。

私も、歴史の真実を伝え、「言うべきこと」を言い続けるつもりである。


※本書『心踊る平和憲法誕生の時代』の注文については、こちらから

by kenpou-dayori | 2013-09-14 07:30 | 社説


<< 憲法便り#294 昭和20年9...      憲法便り#292 終戦直後の内... >>