2013年 11月 22日
このエッセーは、愛知県立大学の「おろしゃ会」会報第7号その1(2001年10月8日発行)に寄稿したものです。当時、かなり好評でしたので、ここに再録し、紹介致します。 岩田 行雄(ロシア書籍文化史研究) 2001年5月26日。モスクワ行きのアエロフロートの機内でのこと。隣の座席は若い女性。その隣は外国人女性。この外国人女性が上手な日本語で隣の女性にしきりに話しかけていたが、そのうち私にも話しかけてくるようになり、3人の会話が始まった。外国人女性は日本人男性と結婚している日本在住のウクライナ人で、里帰りの旅であった。 私がエカテリーナ2世の蔵書について調べるためにペテルブルグとモスクワに行くことを話すと、彼女は思いもよらないことを話し始めた。モスクワのクレムリンの地下で「イワン雷帝蔵書」の一部分が見つかったというのだ。それはいつのことかと訊ねると、「たぶん今年だと思う」との答え。ロシアの週刊新聞『アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ(論拠と事実)』の2月のある号に、発見された『イーゴリ公軍記』の写真と、クレムリンの地下をどのように掘り進んでいったかの図面も載っていたから間違いないという。 私はこの話しを聞いて、愕然とした。事実だとしたら、これは文字通り「世紀の大ニュース」だ。金額的にも数千億円になるだろう。イワン雷帝(1530-1584、在位1533-1584)の蔵書に関しては、相続した写本を主体とする約900冊にのぼるコレクションを所有していたことが知られている。このコレクションには、ビザンチン帝国最後の皇帝の姪でイワン雷帝の祖母ソフィア(ゾエ・パラエオロガ)が、1473年に祖父イワン3世の2度目の妻として輿入れする際に持参したビザンチンの写本が多数含まれている。だが、「イワン雷帝蔵書」はある時から忽然と消えてしまい、考古学的な調査も含めて様々な探索が試みられたが、その行方は謎のままだった。私は『アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ』紙がゴルバチョフ時代のグラースノスチ(情報公開)のもとでスクープを連発して急速に部数を伸ばし、現在も290万部の発行部数を誇る新聞であることは知っていたが、同紙をまったく読んでいなかったことを後悔した。それにしても、なぜ今までこの大ニュースが伝わってこなかったのか、頭の中はそのことで一杯であった。今回の旅は、すでに発表をすませている「ピョートル大帝蔵書の構成」「ロモノーソフ蔵書の運命」についで、「エカテリーナ2世の蔵書」に関する調査を主目的にしているが、次の論文のテーマを「イワン雷帝蔵書の謎」と決めていたからである。 前半の滞在地ペテルブルグでの第一の目的は、エルミタージュ美術館内の図書館でエカテリーナ2世蔵書の製本の特徴を確認することにあった。しかしながら「イワン雷帝蔵書発見」の記事が気になって仕方かないので、『アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ』紙を置いている新聞スタンドや書店で2月の号を持っていないかと訊ね回ってみたが、週刊新聞のバックナンバーを持っているところなどあろうはずがない。国立図書館(旧公共図書館)でも聞いてみたが、あいにく新聞は置いていないとのことで、諦めるしかなかった。 4日間の滞在で予定した調査を一通り終え、特急夜行列車「クラースナヤ・ストレラー(赤い矢)」号でモスクワに着いた私は、クレムリン前のロシアホテルでチェックインの手続きを済ませてから『アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ』社を訪れることにした。アポイントメントはないが、現地で雇った運転手のオレークに住所を示して、とにかく同社に向かった。『アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ』社の所在地ミャスニーツカヤ通りの近くまではホテルから車で30分ほどで到着したが、さらに10分ほど周辺をまわって同社を探しあてた。建物は前庭のあるコの字型の2階建てで、瀟洒なたたずまいであった。正面には背の高い柵があり、左手に出入り口の守衛所があるので当方の用件を伝えたところ、当然のことながら「アポイントなしでは中に入れるわけにはいかない」との返事。さてどうしようかと考えている時、運転手のオレークが、ある政治活動での仲間が同社の中にいることを思い出した。何という幸運。彼はさっそく守衛所脇の内線電話で連絡を取ってくれた。その結果、私たちは見事に難関の守衛所を突破し、オレークの仲間の女性に会うことが出来た。彼女はすぐに『アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ』紙の綴じ込みを持って来てくれた。私は入り口の応接セットに座り、はやる心を抑えて2月に発行された各号に3回も目を通した。だが、それらしい記事は載っていない。そこで、改めて今年の第1号から順にゆっくりと見ていくことにした。オレークも真剣に目を凝らして見てくれた。そして我々は遂に、3月に発行された第11号に掲載されている「イワン雷帝蔵書発見さる!」の記事を発見した。この記事はパーヴェル・ワシーリエヴィチ(名前と父称のみで、姓は書かれていない)の署名入りで、タブロイド版の第14頁のほぼ全面が使われていた。私がオレークの友人に14頁とタイトルページのコピーを頼むと、彼女は1分も待たないうちにコピーを持って来てくれた。何をするにも大変な時間と忍耐を要するロシアで、しかもアポイントなしで初めて訪れた所でこんなにスムーズに物事が運ぶのは奇蹟に近い。 私は再び応接セットに座り、コピーを読み始めた。 「クレムリンの秘密の塔の擦り減った階段を、私は慎重に降りていった。階段は暗号の鍵が付いた、どっしりとした金属製の扉に通じていた。係官たちが1分間ほど鍵に魔法をかけると、扉は音もなく開いた。」 何やらミステリアスな書き出しの記事にざっと目を通したが、その内容がどうも腑に落ちない。記者が写っているトンネル内の写真も合成のようだし、手にしている『イーゴリ公軍記』も写本とは思えない。彼が這い回ったというクレムリン内部から城壁の外側にまで続くトンネルの見取り図も怪しげである。私はこの記者に直接会って、内容を確認したいと思った。そこで、質問項目を次の4点にまとめた。 ? 写真は本物か。 ? トンネルの見取り図は本物か。 ? この記事に対するロシアの歴史家たちの反応は。 ? 今日この発掘現場を見ることが出来るか。 オレークの友人にもう一度来てもらい、パーヴェル・ワシーリエヴィチに面会したい旨を伝えると、すぐに彼の秘書である女性が2階から降りてきた。そして彼女が言うには、パーヴェル・ワシーリエヴィチは非常に多忙で今日はいないこと、社内にいるのは金曜日だけで、それも朝から会議や執筆の打ち合わせのスケジュールがぎっしりと詰まっているとのことであった。モスクワ滞在はわずか4日間だが、運のいいことに翌日が金曜日にあたっていた。そこで、秘書に「明日もう一度来るので、彼に会わせてほしい」と頼むと、「会えるとしても15分以内、いや5分位かも知れないが、確実に時間が取れるとは約束出来ないので、明朝10時に電話をするように」とのことであった。 別れ際に、彼女らに向かって「この写真はモンタージュではのないか」と質問すると、「判らない」との返事。ついでに「この記事は真実か」と訊ねると、二人は声をそろえて「シュートカ(冗談)!」と答えた。エイプリル・フールなのだと言う。このあまりにも意外な答えに、私はオレークと顔を見合わせて「なーんだ、そうだったのか」と言いながら声をあげて笑った。機内で出会ったウクライナ人女性が私を騙そうとしたとは考えられないが、結果的には私が見事にひっかかってしまったのだ。それにしてもこんな手の込んだ冗談を考えたパーヴェル・ワシーリエヴィチとはどんな人物なのか、是非とも会ってみたくなった。明朝10時にオレークが電話することを伝えて、我々はレーニン図書館に向かった。私はオレークと別れる際に、彼のおかげで最大の懸案が解決したことへの礼を述べた。そして、彼が私の仕事を「相場」よりもかなり安く引きうけてくれていたことが判っていたので、感謝のしるしとして、私は「二人の娘さんへのおみやげを買う暇がないので」と言いながら当初彼に約束していた報酬の倍額を手渡した。 翌朝10時過ぎにオレークから電話があった。秘書の女性に電話をしたが、部屋には誰も来ていないのでまだアポイントが取れないと言う。私はとにかく行ってみることにして、10時半にホテルまで迎えに来てもらった。途中までは、学校の先生をしているというオレークの妻が同乗した。『アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ』社には11時頃に着いた。パーヴェル・ワシーリエヴィチは出社しているとのことだが、内線電話をかけても部屋には誰もいなかった。彼はたしかに社内にいるのだが、動き回っていてなかなか連絡が取れない。15分ほど待っていたが、私は諦めて「時間がないので、レーニン図書館へ行こう」とオレークに言った。だが、彼は「せっかく来たのだから、もう一度だけ内線電話をかけてみよう」と言って、ダイヤルし始めた。丁度その時、2階から背広姿の男性がにこやかな笑顔で降りてきた。新聞記事の写真で見覚えのあるパーヴェル・ワシーリエヴィチその人だった。初対面の挨拶を交した後、彼は遠来の客として私をオレークとともに2階にある個室に案内してくれた。明るく、こざっぱりとした個室には、入り口のドアー近くに秘書の机、そして前庭に面した窓に近いところに彼の机があった。 パーヴェル・ワシーリエヴィチは私が名刺を取り出そうとしている間に、先に彼の名刺を差し出した。彼のフルネームはパーヴェル・ワシーリエヴィチ・ルキヤンチェンコ。私も自分の名刺を渡し、それと同時に私がなぜ「イワン雷帝蔵書発見さる!」の記事に興味を持ったのかを説明する代わりに、エルミタージュ美術館館長宛てに書いた手紙のコピーを取り出してパーヴェル・ワシーリエヴィチに示した。この手紙には私のこれまでの研究内容を伝えるために、前述した3点の論文以外にも16世紀から18世紀にかけてのロシア、リトワ、ベラルーシ、ウクライナの出版史に関する論文5点及び「フランス革命とロシア」の論文1点をリストアップしてあったからである。彼は手紙のコピーに目を通しながら、感激した面持ちで一言「バリショイ・スペツィアリスト(すごい専門家だ)」とつぶやいた。この一言は私にとって最高の誉め言葉であった。 私は彼に「あなたはとてもご多忙なので、すぐにおいとましますから」と伝えると、彼は「気にしないで下さい」と言った。この言葉に少し安心して、私が記事の中にある写真について「これはモンタージュですか」と質問すると、彼はいたずらっぽく笑いながら「そうです」と答えた。私が今回のロシア訪問の目的はエカテリーナ2世の蔵書に関する研究だが、次はイワン雷帝蔵書の謎についての論文執筆にとりかかるつもりであることを告げると、彼の方から『母国の心臓部―クレムリン』と言う本を知っているかと質問してきた。私が「知らない」と答えると、彼は資料室に行ってその本を持って来てくれた。そして、ページを繰って、「イワン雷帝蔵書」に関するページを開いてくれた。私は二つ目の質問として、どうして「イワン雷帝蔵書」についてのジョークを考えたのかを聞くつもりであったが、もうその必要はなかった。私が「このページとタイトルページのコピーが欲しいのですが」と頼むと、彼は快く引き受けてくれた。パーヴェル・ワシーリエヴィチがコピーをとるために部屋を出ていった後、オレークがいささか興奮気味に「彼はこの会社のナンバー2だ!」と言った。そう言われて名刺を見直してみると、小さな文字で書かれているので先ほどは気が付かなかったが、「副編集長」の肩書きがあった。彼はコピーを手にすぐに戻ってきた。私は彼の親切な対応にお礼を言って、その場を辞することとした。 私たちが帰る時、彼は多忙にも拘わらず前庭まで見送ってくれた。私はパーヴェル・ワシーリエヴィチに会えてとても喜んでいることを改めて伝えた。そして「手紙を書きます」と言いながら、彼と固い握手を交した。彼は「私もあなたに会えてとても嬉しいです」と応え、最後に日本語で「ありがとう」と言った。 わずか4日間のモスクワ滞在中に、最優先課題として『アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ』社を2度も訪問したわけだが、レーニン図書館での調査とはまた別の、大きな充実感があった。 帰りがけに、もうひとつ嬉しいことがあった。オレークが昨日のお礼にと言って、カリーニングラード産の「フラグマン」という銘柄のウオッカをプレゼントしてくれたのだ。このウオッカは、彼の言によれば「昨年のコンクールで金賞をとった、最も旨いウオッカ」ということであった。さらに、彼は「この次にモスクワに来た時には、是非我が家の食事に」と招いてくれた。 * * * * * 私はパーヴェル・ワシーリエヴィチとの約束を守って手紙を出す準備をしている。タイトルは「騙された日本人からの手紙」。「アルグメントゥイ・イ・ファクトゥイ」紙を手にした写真を添えて送る予定である。そして、手紙の最後を次のように結ぶつもりでいる。 「日本に帰ってからのこと。私は自分の本棚から1冊の本を取り出した。この本の中にモスクワのクレムリン内にあったチュードフ修道院の蔵書の歴史についての論文が掲載されている。その論文によれば、ポーランドの干渉者たちによりロシアが支配されていた時代、1610年から1612年に羊皮紙の写本がとくに大きな被害を蒙っている。バルイカという人物の日記によれば、モスクワ解放軍によって包囲されて飢餓状態にあった干渉者たちは、羊皮紙の写本を探し回っては、それらを釜ゆでにして食べてしまったという。そのような状況に鑑み、私は「イワン雷帝蔵書」もポーランド人たちに食べられてしまったのではないかと考えている。しかしながら、今となっては誰も彼らの腹の中を確かめることは出来ない」。(2001年7月10日記) (2021年11月5日追記:パーヴェル・ワシーリエヴィチとの約束を守って、ちゃんと手紙を出しました。手紙のコピーは保存していませんが、上述のアンダーラインを付した部分をロシア語で書いて送りました。エイプリルフールの記事のコピーも追加しました。)
by kenpou-dayori
| 2013-11-22 16:02
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