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岩田行雄の憲法便り・日刊憲法新聞

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2013年 11月 21日

憲法便り#446 戦後(昭和20年)の「第一次讀賣争議」について

11日21日
昭和20年11月17日付『朝日新聞』社説の題名が「讀賣争議の社会問題化」であったことは、すでに紹介している。
その際に、近日中に、「讀賣争議」についての書くことを予告した。
この問題については、2009年8月に自費出版した『外務省と憲法第九条』(B5判、287頁)の中で、詳しく記述しているので、それをほぼそのまま紹介しておきたい。

戦後の日本社会を考察する上で、キーワードとなるのは、「平和国家論」「民主国家論」「文化国家論」である。
その中でも、「民主国家論」を論じる場合には、「憲法の民主化」、「憲法改正手続きの民主化」、「社会の様々な分野における民主化」など、具体的な課題に向けて急速な改革が、日本国民の手によって行われたことを、事実に拠って確認しておかなければならない。
そうした視点に立つと、「讀賣争議」は、単に「一新聞社の争議」に留まらず、戦後日本の社会において、労働組合運動を始め、様々な分野での闘いの組織化の原動力になったことが判る。

以下、拙著『外務省と憲法第九条』の39頁下段11行目から44頁に終りまでを紹介する。

 「戦後の『讀賣報知』の記事を辿ると、憲法に関する報道は、マッカーサー・幣原首相の会談を伝えた十月十二日に始まる。そして、わずかその二日後に憲法改正への提言が掲載される。『朝日新聞』や『毎日新聞』を見ても、憲法改正に関する報道が始まるのは、十二日以降のことであり、新聞社が独自の提言を行なうことなどは、まだ考えられない時期である。
 十月十三日付『朝日新聞』を見ると、憲法問題に関しては、他紙の報道とほぼ同様に、近衛文麿が内大臣府御用掛に任命されたこと、もうひとつはマッカーサー・幣原会談で占められている。これらの記事はまだ、事実の報道により今後の方向を探る段階にあって、自ら憲法改正に関しての指針を示すようなところには至っていない。
ところが、『讀賣報知』の憲法改正に関する見出しを列挙してみると、現在の『読売新聞』からは考えられない革新的な見出しが躍っている。
十月十二日「憲法の自由主義化」「婦人参政、労働組合促進等五項目連合軍、新首相に要求」
十月十三日「憲法改正の御準備 畏き聖慮 宮相・首相に伝達」
十月十四日「一君万民体制の確立 大権を議会中心に」
  「権力専断勢力の一掃を期する」「憲法改正の民主的眼目」
十月十七日「政府・学者のみの憲法改正に反対」「日本社会党の政策案」
十月十九日「憲法改正の方向 松本国務相との問答      
「國體」には触れず 立法事項を増す」「純学問的に研究進む」
十月二十三日「天皇退位の条項挿入もあり得る」「憲法問題 近衛公の談話」
十月二十六日「調査と起案は別」
十一月四日 本社座談会「民主主義獲得への途【1】」
「現存憲法は死滅」「非民主的改正 国民は迷惑」
十一月五日 本社座談会「民主主義獲得への途【2】」
「陰謀が生んだ神秘 “國體”観念の打破」
  「新憲法へ まづ啓蒙」「押し付けられた國體」
十一月六日 本社座談会「民主主義獲得への途【3】」
「天皇制の存廃は国民投票に問え」「國體悪用の“警察政治”」
十一月十三日「憲法改正問題 天皇制下に行なう日本の社会主義化 松本国務相所信表明」
十一月十七日「近衛公奉答の新憲法案」「陸、海、外の大権除去」「枢府廃止」「内府の権限抹殺」

 このような見出しで一連の報道を行ないうる編集体制があったことが、憲法改正への提言を可能にしたものと考えることが出来る。その背景には、『讀賣報知』社内に於ける民主化闘争という大きな力があった。

『読売新聞社100年史』によれば、この民主化闘争の中心となったのは鈴木東民で、彼は東京帝国大学経済学部に学び、民本主義を唱えた吉野作造に師事している。卒業後、朝日新聞社を経て日本電報通信社に入社。大正十五年から八年間ベルリン特派員を務めたが、台頭したナチスに容れられず帰国する。帰国後、彼が書いた文章が読売新聞社外報部長高橋の目にとまり、昭和十年に読売新聞社に入社。外報部次長、同部長を経て論説委員となる。だが昭和十九年七月三十一日掲載の社説「重光外交の三原則」が危険視され、「横浜事件」延長線上にあるとの疑いがかけられて特高により横浜・磯子署へ連行される。彼は不起訴となったが、郷里岩手県で過ごす。
 敗戦後、彼は直ちに上京し復職を求めるが、結論がでないため、社長正力松太郎と直談判し、十月十八日付で「編集委員会幹事を命ず」との辞令を受ける。
 この間に、社内で民主化運動が起っていることを知っていた鈴木は、復職後、「民主主義研究会」の発起人代表となる。そして十九日に、同会の設置要求を出すが、正力は「諸君が各自で民主主義を研究するのは自由だが、社としては調査局がこれにあたっている」と答え、翌二十日には、各部次長に設置不許可の緊急訓示を出す。
 この状況下、発起人会は二十四日に予定していた組合結成のための社員大会を二十三日に早め、二十二日に正力に申し入れる。正力は組合結成を認め、許可する。
 初めての社員大会は、鈴木を議長に進められた。白熱した討議を重ねた結果、次の四項目を決定した。
①従業員組合の結成 ②社内機構の徹底的民主化 ③従業員の人格尊重と待遇改善 ④自主的共済組合、消費組合。
 大会の最中に、当時同じく民主化闘争が行われていた朝日新聞社で村山社長以下役員局長の総退陣が決まったとの報告がなされ、緊急動議により次の決議が可決された。「われらは社内における戦争責任を明らかにするため、読売新聞社員大会の名を持って社長、副社長以下全重役並びに全局長の総退陣を要求す」。大会後、代表は正力に面会を求め、二十四時間以内の回答を迫った。
翌十月二十四日付『朝日新聞』は、役員総退陣について、「朝日新聞革新 戦争責任明確化 民主主義体制実現 社長、会長以下重役総辞職」の見出しで報じ、「新聞の戦争責任精算」と題した社説を掲載した。
この同じ二十四日の正午に、正力は全役員立会いの下で鈴木らに対し「①戦争責任につき諸君にうんぬんされるいわれはない。決議の趣旨による退職は考えない②本社の戦災復興が一段落した暁には、自らの意思で引退を考慮する③今回社を騒がせた鈴木、長文連ら五名に退職を命ずる」と回答した。
鈴木は編集局に戻ると、「今日から新聞を自主制作しよう」と宣言。各部で選んだ闘争委員による闘争委員会、その上に最高闘争委員会が設けられ、鈴木が最高闘争委員長となった。翌二十五日、編集局内で全国新聞最初の「読売新聞社従業員組合」結成大会が開かれ、組合長鈴木、常任執行委員に長文連(論説委員)、片山睿(外報部員)、岩村三千夫(外報部次長)、宮本太郎(政治部次長)、主事渡辺文太郎を選出。
当時の『讀賣報知』の記事でその民主化闘争について辿ることが出来る。
十月二十四日「新聞の民主化へ」「本社社員大会ひらく」
十月二十六日「従業員組合結成」「全国新聞に魁け本社で大会」
十月三十一日「闘争第二段階へ」「本社の民主化運動」
十一月一日「全国打って一丸」「新聞通信従業員組合  連合会結成へ」「本社闘争運動資金」
十一月三日「正力社長と直接交渉」「本社闘争最後の段階へ」
十一月四日「本社民主化闘争 既に旬日余に及ぶ」「巧みに戦争責任韜晦(とうかい=つつみかくすこと)」
  「正力本社長・第一回交渉の言分」
十一月五日「本社民主化の闘い」「日本民主化を憎悪          正力社長はじめ本社首脳の放言」「識者の審判に訴う」
十一月七日「増俸を好餌に社長側切崩工作」「本社従業員益々結束を固む」
十一月九日「本社民主化闘争」「ナチス機関紙化図る」
  「血迷った正力社長の言論機関冒涜」「軍閥支持にも幇間的役割を演ず」               
十一月十一日「社長側勝たば不買同盟」「本社闘争応援演説転じて読者大会」
十一月十二日「社長の独裁を画策」「本社闘争・交渉またも暗礁に」
十一月十八日「新聞発行を妨害(注・正力社長が)」
  「民主化拒む正力社長の告発暴挙 本社闘争」
十一月十九日「本社闘争の支持 民党と協同組合協会共同声明」
十一月二十二日「河原田委員長反対 調停委員会 本社従業員側の態度(注・戦争責任者が調停委員会委員長に決定したことに対して)
  「本社の闘争を応援」「日比谷で民衆大会 日本民主同盟主催」「激励のメッセージ 自由文化連盟(名古屋から)「三労働組合からも 日本製靴労働組合、北海道労働組合会議、北海道鉱山労働組合」「大蔵、内務両記者会から寄金」
十一月二十三日「従業員招請に応ぜず 本社問題調停の委員会「毎日従業員組合 きのう結成大会開く」「本社へ激励文 朝日従業員」「日本産経新聞の大会 委員会に論難集中、本社争議後援演説大会」
十一月二十四日「農魂と結ぶ民主化闘争 葛飾の農民から本社へ温い贈物」
闘争委員会による「経営管理」に入ってから一週間後の十一月一日に法制局長官楢橋渡が「個人的」な調停を試みたが不調に終わる。翌二日、政府は警視総監、地方長官に通達を出し、労働争議調停のため常設の委員会を設けることを指示する。そして、「警察的威力による調停の廃除、当事者の協議により解決すべし」としている。
正力は、警視庁在職中に、米騒動、東京市電争議などを弾圧しているので、警察への指示は、まず彼の強圧的手法を警戒してのことである。鳩山一郎その他の人物からも調停の申し入れをうけたが、正力はこれを断った。
十一月十七日付『朝日新聞』は、社説で「読売争議の社会問題化」と題して取り上げるまでになった。
最終的には東京都の委員会の調停を受け、正力、闘争委員会双方が三名ずつ調停委員を選び、交渉を行なうこととなった。最高闘争委員会は、朝日、毎日、共同、社会党、共産党、総同盟、東交など十五の支援団体から三名の調停委員の推薦を受けた。闘争委員会の中には共産党を入れることに強く反対する意見があったが、紆余曲折の末、朝日新聞従組執行委員長聴涛克己、社会党鈴木茂三郎、共産党徳田球一で決定した。
争議調停小委員会が十二月四日に発令される予定であった。だが、その前日の三日にGHQが発表した五十九人の戦犯容疑者の中に正力社長が含まれていた。リストには、梨本宮、元首相平沼騏一郎、同広田弘毅、鮎川義介、思想家山川周明、王子製紙社長藤原銀次郎、児玉誉士夫、笹川良一らも含まれていた。
十一月二十日付『朝日新聞』によれば、これに先立つ十一月十九日にも、戦争犯罪人十一人に対して逮捕命令が出され、巣鴨拘置所に拘禁するよう命令が出されている。この中には、極端な軍国主義者・荒木貞夫大将、奉天事件責任者・本庄繁大将、満州占領の指導者・小礒国昭大将、三国同盟締結者・松岡洋右、朝鮮に圧制を行なった南次郎大将らが含まれていた。
巣鴨拘置所への出頭は十二月十二日と定められていたが、この事態に至っても、正力は態度を変えなかった。
だが、ついに十二月十一日、九項目からなる組合側の勝利的調停が成立する。正力松太郎社長は辞任し、高橋副社長ほか二名の役員も退社する。
十二月十二日付『讀賣報知』は一面に於いて次の見出しで調停成立を報じている。
 「本社闘争調停成る 正力社長の引退等 
民主化原則確立株式改組 新社長に馬場恒吾氏」
 九項目の主な内容を見ると、次の通りである。
一、正力松太郎社長の辞職および持ち株で三十%を超える分は適宜処分する
二、讀賣新聞社を株式会社に改組し、正力氏の推薦する馬場恒吾氏を新社長として迎える
三、争議を理由とする社員の解雇はすべて撤回する
 四、労使で経営協議会を結成する
五、会社は従業員組合を公認し、これと団体交渉を行ない、労働協約を締結する
新社長に就任した馬場恒吾は、第五章で詳述する「憲法研究会」の主要メンバーであり、同研究会『憲法草案要綱』の起草者七名のうちの一人である。
 彼は、同志社大、早大政治学科で学んだ後、ジャパン・タイムズを振り出しに、ニューヨークで四年間、帰国後は国民新聞社で政治部長、主筆として活躍する。徳富蘇峰が同社社長に就任するに及んで退社。その後『讀賣報知』に五年間『日曜評論』を執筆するなど、自由主義的なジャーナリストとして活躍していたが、日中戦争が引き起こされた後は執筆を拒否され、太平洋戦争後はさらに軍部からの圧迫が強まり、ジャーナリストとしての執筆活動は長い中断を余儀なくされていた。
 新社長就任の要請を受けたのは、昭和二十年五月二十八日の空襲により代々木西原町の邸宅を焼かれ、逗子市桜山の仮住まいに身を寄せていた時のことである。
次に、十二月十二日付『讀賣報知』に掲載された就任当日の馬場恒吾の抱負を紹介しよう。
「平和・自由・愛 馬場社長の抱負」
「新聞は決して軍閥、財閥、官僚の所有物ではない。社長や株主が俺のものだと言うのもいけないが、従業員の私物であってもならない。あくまで社会の公器だ。新聞は読者の持ち物だと堅く信じて疑わない。新聞は読者に奉仕する以外、他の目的をもってはならぬ。アメリカのワールド新聞社長プリツアー(ピュリッツァー)氏は「新聞記者は読者以外の主人をもってはならぬ」ということを常にモットーとしていた。私も社長として読者に奉仕する以外何も考えていない。読者に奉仕することは要するに民主主義にほかならない。読者即ち国民大衆の利益のために、日本における民主主義発展のため、いまこそ全力をあげて奉仕しなければならぬ。お互いに手を握り合ってゆこうという愛のないところに真の民主主義はありえないと思う。国際的にも同じことで、お互いに同調しあい理解しあうことなしには真の世界平和は成り立たないであろう。平和なきところに民主主義なく、自由もまたあり得ない。平和と自由と愛を求めて新生日本の民主主義確立のために私は社長として微力を尽したい。」
 これは、現在の『読売新聞』の役員及び社員は勿論のこと、すべてのジャーナリストに読ませたい文章である。」


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by kenpou-dayori | 2013-11-21 10:19


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