岩田行雄の憲法便り・日刊憲法新聞

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2013年 11月 28日

憲法便り#456 沖縄と連帯のために:『名護六百年史』(1985年、第二版)に学ぶ(第1回)

11日27日
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ドキュメンタリー映画『標的の村』を観たことをきっかけに、沖縄について学び始めた。
私は、何事につけても、歴史的背景をしっかりと学ぶことにしている。
その上で、歴史の縦軸と横軸を整理すれば、物ごとを判断する際に、大きく外れることはないからである。
3年程前に購入しておいた、比嘉宇太郎著『名護六百年史』(やんばる叢書)は360頁に及ぶ大著である。
著者は、奥付けの著者紹介にあるように、実に豊かな経歴を持つ。

同書は、題名こそ『名護六百年史』となっているが、単に「名護」という狭い地域について述べたものではなく、「琉球」そして「沖縄」の全体像を描き、その中に「名護」を位置付けている。六百年という時間も、私が研究する際の思考にぴったりである。

自民党沖縄県連の動きについては、後程述べるとして、まず、琉球の歴史的状況について、同書から私が気付いた個所を抜き出しておきたい。

【第一章 王国時代】より

「一六〇九年(慶長十四年)琉球は薩摩の侵略で大島五島を割き、支那貿易の巨利は壟断(ろうだん=ひとりじめ)された。歳毎に決裁するかれこれ一万石の貢賦(こうふ=みつぎのもと賦税)は、王朝政府の主題目とあって、琉球は全く薩摩の附庸(ふよう=従属国)としてその実を挙げなければならなかった。それ以来は、上下虚脱の状態から抜け切れず、進取の気象は地を払って退廃し「大和の御手打に相成候てより五十余年、いかやうに候らへばかほどまでに衰退し候や」と国司(くにのつかさ)向象賢(しょうじょうけん)は慨嘆した。」(2頁より)

【第二章 王国時代の間切の庶政】より

「由来琉球国は、海洋弧懸の島嶼をもって自給経済を維持して来たので、国土資源全般の均衡を保つために、農地政策は、人口とも噛み合わせて、非開墾主義を堅持した。開墾は農地開発という利得はあっても、その半面には牧野、山林の荒廃が予見され、家畜、森林資源の確保はもとより、国土の保全上好ましくないからである。
 薩摩の琉球入りによって植民地化され、被征服者の取扱を受けた琉球人は、上下虚脱の状態に陥り、浮華軽薄の風潮は地方にも浸透して、農民達もまた自らの生活経営に熱意を失った。国中至る所に荒蕪地(荒れ果てて雑草が生える土地)が発生して財源の枯渇を招き、政府収入は毎年のように赤字を出した。茲(ここ)に政府は、その伝統の殻を破って、開墾を認めることにして、一六六八年(寛文八年)薩摩の承認を経て、翌年からこれを実施した。
土地は、農民達にとって、唯一無二の生計手段たるばかりでなく、また中央地方を通じ、彼等の政府の最も重要な財源であるだけに、その保存、管理には最大の関心が払われなければならないが、その掛け替えのない重宝が、年々荒蕪地になって耕されないということは、前掲百姓地と地割制度の説明したように、百姓達が負担に堪えかねて耕作を忌避したからで、その搾取の張本が薩摩であったことはいうまでもない。土地は百姓達の為に在るのではなく、また彼等は土地を持つがために、牛馬に類する器物となり、耕す道具の取扱を受けた。
 政府が百姓達の耕作意欲をそそるために、彼等が自由に裁量し得る私有地をあたえることは、方法として賢明であった。
 仕明請地が何故重宝がられ、百姓達の羨望の的になったかは後記することにして、折角の開墾令も解禁二十年にして再び禁止されてしまった。何れかというと、新規開墾もよいが開墾というより荒蕪地の復旧を先んずべきが順序であろう。土地がなかった訳ではない。荒蕪地の解消にさえ努力すれば、開墾は別段急ぐ要もなかったが、百姓達が私有地を所有することは、農地に対する意欲を増進し、これによって政府は財政収入を増やすことになる。しかし妄(みだ)りに開墾を許可することは、冒頭に述べた通りの反対現象が起って、却って危険を招く結果に陥る。中頭、島尻地方は、土地が平坦で、古くから牛馬など放牧の習慣があって、開墾には種々の利害関係が当事者間に附き纏った。又国頭(くにがみ)地方の山林原野において、矢鱈(やたら)に開墾を許すことになると山林の荒廃は免れない。斯のような事情から、一六八七年(貞享四年)に至って新規開墾は再禁止された。
 開墾地即ち仕明には、団体所有と個人所有の別がある。両者とも請地状(地券)が下附されたことは前項の請地同様である。この地券を俗に仕明手形という。売買、譲渡、質入、抵当など処分権を有する百姓唯一の土地私有財産である。」(62-63頁より)

「凡そ歴史時代を通じ、琉球の百姓達は、封建社会秩序の桎梏(しっこく)の下で、人権は無視され、殊に経済生活の面では、農奴に比すべき生涯を終始した。百姓では絣(かすり)の着物を着、下駄履きは法度(はっと)とされ、粉米はよいが、まともな良質米は上納だから食えない。反則すると歯を折ってよろうと脅迫した。家屋は無論萱葺きで、軒差し一尺五寸以上ではいけない。籠舁(かごかつ)ぎが首里に着て吃驚したことには、市中が皆番所(ぶりばんじょ)であったことだ。地方間切では、番所しか瓦葺はなかった。百姓に贅を与えると貢租、口米の不調があったりして、二万の支配者貴族の台所に影響するからで、彼等は鵜を使って漁りをする鵜匠のように、巧に首を締めつける工夫をした。事実百姓には、辛うじて雨露を凌ぐに足る粗末な家屋以外には不動産というものはなかった。百姓達は生活の資として当てがわれる猫額程の地割によって、而も貢租、口米を差引いた残余の部分に露命を託すという惨めさは、生地獄(いきじごく)さながらの情景であった。かかる農奴生活者時代に在って、彼等が夢にも求めて得られなかった私有地開墾が認められようという。正に晴天のへきれきであった。」(63-64頁)

【第三章 琉球国から沖縄県へ】より

「一八七一年八月(明治四年)日本における維新革命によってもたらされた廃藩置県によって、琉球国は、薩摩藩の羈絆(きはん=牛馬などを綱などでつなぎとめること)を脱し、表面対薩関係は撤去されたかに見えたが、薩摩は、依然琉球王国を属国と看做し、引続き鹿児島県に隷属した。翌一八七二年九月十四日、東京政府は、琉球国を改め琉球藩となし、国王を藩王として冊封したので、茲(ここ)に慶長以来二百六十余年の対薩服属関係は後を断ち、翌々一八七四年(明治七年)には琉球関係を国内問題として取り扱うことにして外務省から内務省に所管替えを行い、那覇の西村には、内務省の出張所が設置された。しかし琉球の地位が戦略的には重大な意味を持ち、歴史の素性が複雑微妙であっただけに、その宗主権を繞(めぐ)っては、日支(=日中)関係に葛藤を生じ、時に台湾事件を種に利用されるなど、茲(ここ)数年来は琉球国の帰属向背(こうはい)の成行が国際間に関心を惹いたが、琉球自体の世論も現状維持が支配的であったため、結局は東京政府の強圧による琉球処分が勝利を制し、日本の一環としてその地位は確認された。この様な経緯があって、琉球藩に廃藩置県を仰せ出されたのは、全国に後れて一八七九年(明治十二年)三月十一日のことである。廃藩置県と同時に琉球藩は沖縄県に改まり、旧藩庁の制度は悉く廃止されたが、地方制度に至っては毫末も改まる所なく、間切り番所の行政は従前によって執行されたから、首里王府の廃絶にもかかわらず、地方の間切、村では一般に平静を保っていた。しかし明治八年以降は東京政府の官員が乗り込んできて、旧藩の対支(対中)関係の停止、明治年号の呼称、藩内職制の改革、新制法の施行など難題を持ち込んで来て藩庁と秦め合っている一方では、警察隊や陸軍兵力を進駐して藩庁を威嚇したので、中央政界は激しく動揺した。宗国の重大変局に直面して晏如(あんじょ)たり得ないのは独り首里府だけではなかった。波紋は大なり小なり閑散な地方農村にも波及して一般に焦燥気味であり、嵐の前夜を思わせるものがあった。百姓達は身体の自由が拘束されていて、彼等の行動圏は村を出ることが出来なかったばかりに、首里に起った廃藩の内幕について多くこれを知らないし、又近代化しつつあった新興日本の隆々たる国運についても全く無知であった。彼等はただ旧藩の恩恵に浴する少数権門の言いなりに上方の命を畏み、新手の日本勢力に抵抗を試みるよう仕向けられた。廃藩革命が来るべき農奴の解放戦であり、農村の黎明であることも勿論予想しなかった。
 日支琉の相克が、仮令部分的であろうと、これが表面化して、行動となって彼等の眼前に展開されると、彼等の暗黒社会では、それだけに衝動も大きかった。地民達の動揺が可成深刻であったのは、嘗つて彼等の社会に革命というものを経験しなかったからである。」(135-136頁)

*第2回に続く

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by kenpou-dayori | 2013-11-28 06:45 | 沖縄


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