2013年11日28日
2015年5月14日(木):本の画像追加
比嘉宇太郎著『名護六百年史』(1985年、第二版)【第一章 王国時代】より
【第三章 琉球国から沖縄県へ】
〔第二節 明治新政初期の概況〕より
「琉球国が帝国版図(はんと=領土)の一部であることを国際的に認めさせようとして、維新政府は長い日子(にっし=日かず)と軍事、外交上の多くの犠牲を提供することに吝かでなかった。斯くも日本の関心が琉球に向けられたというのは、琉球に於ける植民地的経済開発がその狙いではなく、本土の護りの前衛として軍事的に価値を有するからで、実際この島には過剰の人口があり、資源も乏しい上に、毎年のように暴風災害があって、経済的には無価値であった。
維新革命後、日本では万事改革へと驀進(ばくしん)し、盛に欧米文化を導入して政治、行政は勿論、経済、文化の面でも旧いものは一掃され、因襲は打破されていったが、独り沖縄県ではその動きは極めて微温的であった。事実廃藩以来、日清戦争に至る十数年間において、政府の行政措置によって成果をもたらしたものは、民間同化を目的とする教育施設だけであった。
地方自治は、旧態依然たる地頭代の制度を存続し、産業、交通、庶民経済の面では、別段目新しい歓迎されるような施設が為されず、飢饉はなお住民生活を脅かした。
明治二十年の伊平野蘇鉄事件が起っても、政府は救いの手を差し延べなかったし、公衆衛生や福祉厚生施設に至っては、全く行き届かないので、明治十九年の虎列刺(コレラ)発生にさいしては多くの罹病者と死者を出した。これを要するに、日本政府が沖縄に尽した内政上の諸施策とその業績が顕著でないのは、琉球の置かれた歴史的、民族的特殊事情に由因する日本当路の差別的偏見の現れであって、新政権の下敷にされた琉球人は、何の足しにもならない聖恩優渥の美しい空手形だけで黙々我慢しなければならなかった。地図の上では日本の一県に昇格し、帝国の一環を組成したけれども、古い薩摩の植民地的偏見が改善されないままに、特殊地域の取扱を甘受しなければならない琉球と琉球人、即ち名のみの新沖縄県人は自分達に直接関連する県政の要務から追い出された。寄留商人は、互に協力して琉球商人の進出を阻止し、植民地的官僚風は彼等に援助の手を藉した。互に異端視し、溶け合うことのない日琉関係は、その後も長く尾を曳いて相反目し、その対立相克は、日清戦後に及んで遂に近隣同士で開化、保守の白黒を争う分裂闘争に発展した。
諸制改革というも、内務省の出先機関でしかなかった県庁の政策は、殊に地方農村生活とは無関係にかけ離れていて、新政による影響は殆んど感受しない位であった。しかし廃藩革命による裏面の社会情勢は激しく変動して、その底流は流石に地方僻すうの農山村にも及んだ。首里、那覇、泊、久米の失禄旧士族は新しく生活の道を拓かなければならなかったが、此所都市地区には、仕事は不足していて、彼等を満足させるだけの職は無かった。結局多くの者は、知己縁者を求めて田舎下りをしなければならなかった。農民は百姓の別名で呼ばれる程労働は彼等に属する専売物で、士族が農耕や労働者に転落することはなかった。(138-139頁)
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