1月3日
本書は、執筆途上にある『日本国憲法成立史の実証的再検討』と題する学位論文の中から、新聞報道による「憲法民主化の世論形成」、および「日本国憲法を国民がどのように迎えたか」という部分を判り易くまとめたものです。
『心躍る…』の書名は、1946年11月1日付『徳島民報』一面に掲載された《新憲法祝賀おどり》の広告の、次の喜び溢れる言葉に因んでいます。
「11月3日は新憲法公布の日だ、新日本の黎明だ、平和だ、友好だ、豊年じゃ、満作じゃ、みんなで祝う、阿波踊りが許された、踊りおどるなら華やかに踊ろう」(〔日時〕11月3日朝9時から夜11時まで〔会場〕市役所前〔主催者〕徳島商工会議所と徳島民報)。これが当時の国民の姿です。
調査した65紙に関しては、上記の標題紙に示してあります。新聞名を四角で囲んであるのは、調査した当時に国会図書館に所蔵がなかったので、各地の県立図書館(広島は市立図書館)を訪問して、現地調査したものです。
「はじめに」より
【平和への私の思い】
私は、東京大空襲の直後に家族と共に福島に縁故疎開をし、一九四五年八月九日に、小名浜で米軍の焼夷弾の爆撃を受けた。命だけは助かったが、家も持ち物もすべて焼かれたという体験をしている。三歳の誕生日を迎える直前のことであったが、靑空と、藁ぶき屋根が燃えさかるオレンジ色の炎を、はっきりと記憶している。
その日、母が焼け跡で、米を入れてあったブリキの一斗缶の中を見て「みんな炭になっちゃった」とポツリと言って佇んでいたことを、小学一年だった姉はよく覚えている。その後、私たち家族は、アニメ映画『火垂るの墓』で描かれたような川辺の「岩屋」で暮らし、親戚や土地の人たちに助けられて生き永らえた。敗戦の年の十二月に東京に戻ると、皮肉なことに、疎開前に住んでいた借家は、焼けずに残っていた。私たち家族も戦争に翻弄されたが、幸いにして命を落とした者はなかった。
だが、この戦争で多くの人たちが亡くなっている。
私の小学校時代の同級生N君は父が戦死して、長い間、親類の家に同居していた。早稲田大学時代の同級生I君は、彼が生まれる前に父が戦死したため、父に抱かれたことがない。この友人たちの母親は「女手ひとつ」で子供を守り、育てた。私がおはぎを買いに行く伊勢屋のご主人は、東京大空襲の際に、二歳年上の兄と逃げたが、兄は生死不明のまま現在に至っている。私の周辺には、この他にも辛い戦争体験を持つ人たちが数多くいる。
二〇〇九年五月に千葉の稲毛で講演を行った際に、小学校時代の同級生Kさんが友人二人を誘って聴きに来て下さった。暫くして、彼女から届いた綺麗な押し花付きの手紙には私が五十五年間全く知らなかったことが書かれていた。ご本人の承諾を得て、核心部分を紹介する。
「戦争放棄に関心がありました。私の父が戦死だからです。私は父の顔を知りません。父は若い時に耳を怪我して難聴になり、耳元で大きな声で話をしないと聞こえない状態だったそうです。昭和十九年、三十五歳のときに招集令状が来て狩りだされました。昭和二十年十一月(中華民国北***?)戦病死と書いた死亡通知が八ヶ月後に千葉の疎開先に届いて、増上寺に遺骨を引き取りに行ったのですが、渡された小さな箱には骨は入ってなく、お弁当箱と箸が入っていたそうです。母はそれを遺骨と思ってお墓に入れていたそうです。その母が九十六歳十カ月で亡くなりました。昨日、七七日忌の法要があり、お墓に母が入りました。建て替えたお墓には父の遺品はありませんでした。少し悲しい思いがしました。母に聞いたことを思い出して書いてみました。
これからの人たちには、この様な思いをさせないように九条を守りたいです。」
私の身の回りにあったいくつかの例を紹介したのは、戦争による加害、国家的犯罪を不問にして、単に感情に訴え、戦争被害のみを強調するためでも、戦争こりごり論を展開するためでもない。伝えたかったのは、ひとたび国家が戦争を始めた時に、子供や母親たち父親たちがおかれていた冷厳な現実であり、平和への思いである。
私は昭和十七年九月生まれなので、太平洋戦争の時、戦争反対の表明は出来なかったし、責任もない。
しかしながら、現在は選挙権の行使、政治活動、市民運動、言論・出版活動等で戦争反対の意思表示が出来る。したがって、力及ばず憲法改悪、新たな戦争を許した場合、私にも責任の一端がある。いざという時には体を張ってでも九条を守るという言葉を聞くことがあるが、私自身は今がその「いざという時」だと思っている。
「目 次」
はじめに(4)
第一 「押し付け憲法」論のでたらめ
第二 安倍首相の所信表明演説に見る国民騙し
第三 「美しい国」「強い日本」のルーツ
平和への私の思い
三つのプロローグ(12)
プロローグ①…吉田茂元首相が『回想十年』に記した「押し付け憲法」論への反論(12)
プロローグ②…ポツダム宣言受諾と憲法改正の必然性(14)
プロローグ③…報道の違いで生じる差異(17)
第一部 新聞報道により一九四五年末までに形成された「憲法民主化」の世論(21)
外務省による意図的な誤訳(21)
「ポツダム」宣言受諾による民主化及び憲法改正の必然性(22)
民主化を進めなかった東久邇宮内閣(22)
法制局が自主的に行った憲法改正案研究(24)
外務省内での自由闊達な論議(26)
内大臣府の憲法研究(28)
憲法改正に消極的だった幣原内閣(31)
幣原内閣が憲法問題調査委員会を設置(33)
「平和」及び「平和国家」論の社説登場(38)
日本全国に吹く民主化の風(39)
憲法民主化の世論(41)
日本国憲法の原型「憲法研究会」案の報道(44)
書簡・出版物等に見る「憲法民主化」論(51)
第二部 新聞報道により追いつめられる松本国務相と幣原内閣(60)
憲法問題調査委員会無視の松本路線(60)
閣議における初めての憲法論議(64)
一月の新聞報道(64)
二月一日・衝撃の「スクープ」報道(66)
全国二十一紙の「追い打ち」報道(68)
日本輿論調査所の調査結果(70)
GHQの動き(70)
GHQ民政局の憲法制定会議(74)
二月十三日・外務大臣官邸(74)
松本国務相への不満が爆発した二月十九日の閣議(80)
「押し付け憲法」論の始まり(82)
政府案作成を閣議決定(84)
松本・ホイットニー会談(86)
「戦争放棄」の原点は「パリ不戦条約」に!(87)
松本・ホイットニー会談以後について(88)
「政府、難局に直面」報道(90)
第三部 政府案についての国民的論議(92)
三月六日政府案の全文報道及び社説(92)
政府案の対する各党の態度(97)
「松本体制」から「金森体制」へ(98)
「憲法研究会」による批判的な声明(98)
讀賣新聞社主催『憲法草案批判講演会(99)
「庶民大学三島教室」主催の討論会(101)
各省庁の反応(102)
司法の民主化及び司法改革(103)
共和制を規定した二つの憲法草案(105)
二つの世論調査に見る国民の意見(105)
国民の国語運動と「ひらがな口語体」草案の実現(108)
『憲法改正草案逐条説明』及び『憲法改正草案に関する想定問答』(110)
第四部 新憲法公布の記念行事(113)
北海道・東北地方(114)
関東・甲信越(134)
北陸・東海地方(151)
近畿地方(164)
中国・四国地方(172)
九州地方(186)
第五部 新憲法祝賀広告・・・大企業からキャバレーまで、そして露天商の組合も!(200)
北海道・東北地方(203)
関東・甲信越(204)
北陸・東海地方(206)
近畿地方(208)
中国・四国地方(210)
九州地方(212)
第六部 憲法普及会による多彩な活動
(一九四六年十二月―一九四七年十一月)(216)
『新しい憲法 明るい生活』の前文(216)
憲法普及会の創設(217)
第一項 講習会及び講演会(218)
第二項 出版・刊行物による普及活動(219)
第三項 芸能並びに民衆娯楽による啓蒙運動(220)
第四項 記念作品の募集(223)
第五項 諸団体との提携事業(229)
第六項 記念週間の設定並びに行事(229)
平和精神昂揚運動(231)
結びにかえて・・・吉田内閣の答弁より(234)
主な原資料と参考文献(236)
おわりに(237)
表紙デザイン 岩田行雄
※本書『心踊る平和憲法誕生の時代』の注文については、
こちらから
歴史的事実をもって、安部首相と石原慎太郎議員の「押し付け憲法」論のデタラメを打破するこの本が十万部普及すれば、闘いは必ず勝てると思っています。