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岩田行雄の憲法便り・日刊憲法新聞

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2014年 08月 14日

憲法便り#636 【再録】 太平洋戦争開戦直後から始まっていた「終戦」を模索する動き

2014年8月14日 

憲法便り#636 太平洋戦争開戦直後から始まっていた「終戦」を模索する動き

今日、2014年8月14日付けの『東京新聞』朝刊一面において、同社が独自入手した史料に基づき「重光外相、ソ連仲介構想」「終戦1年3ヵ月前「対中終結を」」、「第2次大戦中 新史料122通で判明」と報じた。詳細は、『東京新聞』そのものを読むことをお薦めするとして、私が執筆中の論文の序章の冒頭で「終戦」を模索する動きを、既存の資料でまとめて来ているので、参考までに公表しておきたい。
 この中では、日本がどうしたら「敗戦」ではなく、「終戦」に持ち込めるかという問題が解決出来ないまま、日本の立場を有利にするために、「独ソ和平斡旋の意図」をソ連およびドイツに対して申し出ていることが判る。

序 章「ポツダム」宣言受諾までの経緯

(1)開戦直後から始まっていた「終戦」を模索する動き
実は、「ポツダム」宣言受諾に至るまでに、日本政府の中には、開戦直後から外務省を中心に「終戦」を模索する動きがあった。だが、そこから見えてくるのは、主戦論を唱え、虚勢を張り、「大本営」発表で国民を騙し、暴走し続ける粗野な軍人たちの姿、実情を知りながら、彼らを抑えることが出来ず、ただうろたえるだけの無力な政治家と文官たちの惨めな姿、そして天皇の無責任な姿である。また、外務省編『終戦史録』の日暦で一連の動きを見ただけでも、天皇は自ら航空機増産を激励しており、決して天皇が「平和主義者」であったなどとは言えない。天皇を含め、戦争遂行の中心となってきた彼らが戦争責任を問われるのは当然である。
以下、外務省編『終戦史録』の「太平洋戦争日暦」から、「終戦」を模索する動きを中心に列挙する。
なお、近いうちに、外務省が刊行した外交文書『太平洋戦争』(全三巻)に基づき、再点検を行う予定である。
     
【一九四二年】
一月一日 東郷外相部下省員に対する訓示中終戦問題に言及。
二月五日 木戸内府、天皇に終戦を考慮すべき旨進言。
二月十日 天皇、東条首相に対し終戦機会捕捉を御忠告。
六月十一日 吉田茂、木戸内府に終戦促進工作進言(近衛公の派欧)
九月一日 東郷外相、東条内閣を去る(大東亜省設置問題にて東条首相と衝突)。
一二月一二日 天皇、伊勢神宮戦勝祈願の参拝。
【一九四三年】
二月四日 近衛文麿、終戦促進の要を木戸内府に強調。
三月十日 天皇、木戸内府と終戦促進のことに関し御談合。
五月十三日 木戸内府、重光外相に終戦促進のため皇族の力により軍部を抑える必要を打ち明ける。
五月一四日 木戸内府、高松宮と終戦問題に関し談合。
五月三一日 御前会議において「大東亜政略指導要綱」正式決定。
九月一〇日 独ソ和平斡旋の意図をソ連に申し入る。
九月一三日 モロトフより独ソ和平斡旋提案拒否。
九月三〇日 御前会議で絶対防衛線をマリアナ、カロリン、西ニューギニアに後退すること、航空機増産に全力をあげること、船舶対策を強化することを決定(「今後執るべき戦争指導大綱」、「右に基く当面の緊急措置に関する件」)。
【一九四四年】
一月六日 木戸内府、終戦は降伏によるの外なきを悟る。
三月十七日 天皇の御前で陸海軍合同の船舶損耗対策研究会を開催。
四月一日 天皇、航空機生産激励のため関係工場に侍従武官差遣(七月末迄)。
四月八日 独ソ和平斡旋の意向をソ連に申し入る(第二回目)。
四月十日 天皇、陸軍航空技術研究所に行幸。航空機増産激励。
四月十二日 モロトフより独・ソ和平仲介を拒否。
六月十六日 重光外相スターマー独逸大使に独・ソ和平勧告。
六月二十六日 終戦は聖断による外なしと木戸内府、重光外相と極秘申し合す。
八月二十八日 重光外相スターマー独大使に独・ソ和平斡旋提議。
九月八日 重光外相よりマリク大使にソ連へ特派使節派遣の件提議。
九月十四日 スターマーより重光外相へ独ソ和平斡旋拒否。
九月十五日 最高戦争指導会議でソ連に対し独ソ和平を含む日ソ関係改善案討議。
九月十六日 最高戦争指導会議でソ連に対する提案決定。
同     モロトフ・佐藤大使に日本よりの特派使節派遣提議拒否。
十一月五日 重光外相「我が外交」を起案し重臣その他に秘密配布。
十一月七日 スターリン、日本を侵略国と見做すと(革命記念日の)演説。
    ソ連大使館の革命記念日祝賀会に日本高官多数出席
【一九四五年】
一月六日 天皇、内府に重臣招致を要望(戦局観聴取のため)。
一月十三日 天皇、内府に重臣招致を重ねて要望。
二月七日 平沼騏一郎、天皇に戦局観言上。
     梅津参謀総長、親ソ外交により米国とあくまで抗戦の旨奏上。
二月九日 広田弘毅、天皇に戦局観言上。
二月十日 ヤルタ会談においてスターリン対日戦参加を正式に約す。
二月十四日 近衛文麿、天皇に戦局観言上(敗戦に伴う共産革命の脅威、早期終戦の要を上奏)。
二月十日 若槻礼次郎及び牧野伸顕、天皇に戦局観言上。
二月二十三日 岡田啓介、天皇に戦局観言上。
二月二十六日 東条大将、天皇に戦局観言上。
三月三日 天皇、陸海合同に関し御下問。
三月八日 木戸内府、重光外相と早期終戦を協議。
四月五日 ソ連、日ソ中立条約の不延長を通告。
四月九日 東郷外相(兼大東亜相)就任。
四月十八日 東郷外相、スウェーデンの和平仲介を打切る。
四月二十一日 木戸内府、東郷外相、終戦問題で談合。
四月二十七日 モロトフ、佐藤大使にソ連は中立条約厳守を約す。
五月七日 ドイツ無条件降伏(翌日発効)に調印。
五月八日 トルーマン大統領日本の軍民離間声明(日本に対する)降伏勧告
在スイス藤村海軍武官、米国代表ダレスとの日米和平交渉につき米内海相、梅津軍令部総長宛請訓。
五月九日 ドイツの降伏に拘らず日本の戦争遂行決意不変を政府声明。
五月十日 スウェーデン政府による日米和平工作、バッゲより岡本季正公使に申し入れ。
五月十一日 六巨頭(最高戦争指導会議構成員会議)極秘会談、対ソ交渉方針討議。(注:十二日、十四日も続く。六巨頭とは、鈴木首相、東郷外相、米内海相、阿南陸相、梅津参謀総長、及川軍令部総長〔五月末から豊田大将に替る〕)
五月十四日 六巨頭会談ソ連仲介の終戦方針を申合す。
五月二十日 梅津参謀長、スウェーデン工作打切りを小野寺武官に指令。
六月四日 広田よりマリクに日ソ関係改善を申入れ。
六月六日 戦争指導会議においてあくまで本土決戦断行の議案採択。
六月八日 御前会議において戦争指導会議決定の「今後採るべき戦争指導の基本大綱」正式採択。
    木戸内府終戦私案起草。
    佐藤駐ソ大使より外相へ日ソ有効強化絶望を進言。
六月九日 木戸内府、終戦試案を天皇に説明。
六月十三日 木戸内府、終戦試案を鈴木首相、米内海相に説明。
六月十五日 木戸内府、終戦試案を東郷外相に説明、外相より御前会議決定との矛盾を指摘さる。
六月十八日 木戸内府、終戦試案を阿南陸相に説明。
    六巨頭会談(ソ連仲介の和平着手の話出る)。
六月二十日 内府より天皇に六巨頭会談召集奏上。
六月二十一日 木戸内府より天皇に六巨頭会談では6月8日御前会議決定に捉われぬよう進言。
    沖縄守備軍全滅。米軍、沖縄陥落を正式表明。
六月二十三日 天皇より六巨頭に終戦措置推進方を御指示。
七月三日 ソ連仲介和平推進につき首相を督促すべき旨内府より天皇に進言。
七月七日 鈴木首相、天皇よりソ連仲介の和平交渉促進を督促さる。
七月八日 東郷外相近衛公に和平依頼のため訪ソを依頼。
七月九日 鈴木首相・東郷外相、近衛公をソ連特派につき打合せ。
七月十日 六巨頭会談「遣ソ使節派遣の件」を決定。
七月十二日 天皇より近衛公に対し平和斡旋をソ連に交渉するためソ連に使するよう御話。近衛使節派遣につき交渉するよう駐ソ佐藤大使に訓電。
     佐藤大使降伏終戦を外相に進言。
七月十三日 佐藤大使ソ連政府に近衛使節派遣を申入れる。
七月十八日 ソ連、近衛使節派遣拒否を佐藤大使に通告。
     ポツダム会談でスターリン日本政府よりの和平斡旋以来を打明く。
七月二十七日 ポツダム宣言受信。政府は同宣言につき沈黙を守る旨決定。
七月二十八日 鈴木首相記者団に対しポツダム宣言黙殺、戦争邁進を声明。
八月一日 スイス駐在加瀬公使よりポツダム宣言受諾を進言。
八月三日 内閣顧問会でポツダム宣言受諾の意見出る。
八月四日 佐藤駐ソ大使よりポツダム宣言受諾を進言し来る。
八月六日 広島に原子爆弾投下
八月八日 天皇より外相を通じ首相に終戦の意を伝えらる。
    モロトフより佐藤大使に対日宣戦文を手交(佐藤大使の発電日本に到着せず)
八月九日 ソ連軍、北満・北鮮・樺太に進攻開始
    六巨頭会談、閣議終戦を論議
    長崎に原子爆弾投下
八月十日 ポツダム宣言受諾に関する第1回聖断下る。国体護持条件附にてポツダム宣言受諾を連合国側に申し入れる。
八月十一日 陸海軍の一部に終戦阻止運動起る。
    政府の国体護持声明と陸相の戦争完遂訓示、新聞にならんで発表。
八月十二日 連合国回答ラジオにて到着。
    統帥部両総長連合側拒絶を天皇に進言。閣議、連合側回答をめぐり論争。天皇、皇族を召し終戦意図表明。
八月十三日 六巨頭会談、閣議「国体護持」をめぐって意見対立。
    B29日本の降伏交渉文の伝単(ビラ)を空中から散布し始める
    陸相官邸でクーデター計画協議。
八月十四日 連合国回答受諾に関し第二回聖断下る。終戦の詔書渙発。
    連合国側に回答受諾の旨申入れ。
八月十五日 終戦詔書玉音録音放送。鈴木内閣総辞職。阿南陸相自決。
八月十六日 マッカーサー元帥より即時停戦の指令到達
八月十七日 陸海軍人に勅語(隠忍降伏の旨)。全軍に即時戦闘行動停止下令。
 天皇が平和主義者であったとの論議があり、「戦争放棄」の真の提唱者であるとの“研究成果”が大真面目で取り上げられることもある。だが、私はそのような主張を認めることは出来ない。上述の「太平洋戦争日暦」の中で示したように、一九四四年四月に天皇が戦争遂行の激励を行なっている。強調するためにその部分を再度記しておく。
一九四四年四月一日 天皇、航空機生産激励のため関係工場に侍従武官差遣(七月末迄)。
一九四四年四月十日 天皇、陸軍航空技術研究所に行幸。航空機増産激励。
この一事を以ってしても天皇が戦争に反対していたとか、平和主義者であったなどとは言えない。

ドイツは五月七日に無条件降伏し、翌八日にはトルーマン大統領が日本に対して降伏勧告を行っている。だが、日本政府は、五月九日に「戦争遂行決意不変」の声明を発している。だが、日本では新たな動きがあった。五月十一日、日本極秘裡に六巨頭(最高戦争指導会議構成員会議)会談を開催したことである。会談内容は、対ソ交渉方針の討議である。この会談は、十二日、そして十四日にも続けて行われている。六巨頭とは、すでに述べたように、鈴木首相、東郷外相、米内海相、阿南陸相、梅津参謀総長、及川軍令部総長〔五月末から豊田大将に替る〕である。日本国民の命運は彼らの判断にかかっていた。しかし、すでに見たように、彼らは当時日本がおかれていた客観的状況を真正面から捉えようとはせず、主観的願望によって、国民に大きな犠牲を強い続けた。

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『世論と新聞報道が平和憲法を誕生させた!』
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by kenpou-dayori | 2014-08-14 15:50 | 太平洋戦争日歴


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