2015年3月23日(憲法千話)
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憲法千話・憲法施行に際しての社説No.11:昭和22年5月3日および5月4日の『河北新報』社説」
下は、5月4日付社説「新憲法の効能」の部分の拡大紙面
ここでは、5月3日付「社説」のみ文字起こしをしておきます。
前号の『新岩手日報』の社説と比較して欲しい。
社説「再建への一道標」
いよいよ今日から新憲法が実施されることになった。終戦後わが国の国家的諸法制は急速に民主化されて来たが、四月の選挙によって政治体制の民主化はさらに一段と推進され、新憲法の実施さるべき舞台(?)は一応の完成を見た。この日をもってわれわれは明治旧憲法にわかれを告げ、新憲法のもとに新しい民主国民として緊実な歩武を踏み出すわけてあって、その歴史的意義の木であることは改めて説くまでもない。
新憲法の根本的精神は民主主義と平和主義にある。国民は国政の主権者と規定され、すべての権力は国民から生れ、国民に帰属するものとなった。中央から地方にいたるまで、政治的権力者はことごとく国民の意思の決定するところとなり、過去におけるような特権者による政権の独占的支配は完全に一掃された。国民には人間としての当然の権利が平等に与えられ、その自由な意思と行動は何ものによっても拘束されることはない。この規定によってわれわれは先進民主国へのおくれを取り返し、他に恥じない民主国民としての資格をを獲得したが、その上さらにわれわれは戦争放棄の意図を成文化して平和主義をもって再建の指標たらしめることを中外に鮮明した。われわれはこの方針によって軍国主義の汚名をそそぐだけではなく世界平和にさきがけしようとするの転換を試みたいのである。これらはいずれも敗戦の体験と反省によって促されたもので、新憲法の規定にはなお戦痕が生々しく残っているが、戦後における重圧にあえぎながらも、理想的に民主主義と平和主義に徹底しようとした悲壮な決意は明らかに新憲法のなかに盛り上げられている。
敗戦の産物であるとはいえ、われわれは新憲法の民主的性格について世界に誇りうるものをもっていると考えうるが、しかし新憲法が内容的にすぐれているといっても、その実施によってただちにわれわれがすぐれた民主国民たる実をそなえるにいたったと考えるのは、間違いである。新憲法は実施されても、これがただ法として実施されただけで、実質的にその精神が制度と国民性に具体化されないならば、□□は空文としてあるにすぎないのであって、実情は生きているとはいえないのである。新憲法の公布以来その啓発宣伝によって大体の知識は国民に普及されており、新憲法といえばだれでも民主主義や平和主義を口にするまでになっている。だが、新憲法の精神を九官鳥のように異口同音にくり返すだけで、新憲法が実践的に活(?)かされるものでないことはもちろんである。われわれはともすると安易な形式主義におちいりやすい欠陥をもっているが、この悪傾向は新憲法にたいする態度にも露呈されているのではなかろうか。われわれは口だけのサービスで物事を片付ける習慣をいましめ、身をもって□□に新憲法の精神に生きる覚悟を必要とするものであって、これをおいて新憲法を生かす道はないのである。
新憲法の実施によってわれわれは再建への一歩を進めたが、再建の目標を達成するには、なお今後一層の精進が不可欠である。憲法的にわれわれは独立自主の国民となったが、講話会議がすまなければ、まだわれわれは本質の独立自主の国民となることはできない。現在は民主化に安定的基礎をつくるために、各種の追放が行われているが、この状態も無限に持続すべきものではない。やがて国民のすべてが民主化されて、国民が新憲法もとで一様に完全に平等の権利と義務をもって活動しうるにいたって、はじめてわれわれは新憲法を名実共に完全に実現しうるのである。しかし、われわれが真に独立自主の国民となる日が何時到来するかも、結局われわれが新憲法をいかに実務的に生しうるかにかかっている。再建最後の目標達成はすべての国民の念願するところだが、その実現への最短路は新憲法を現実に今日の日から生かすところに開かれるものと□うべきである。
(典拠は、宮城県図書館所蔵マイクロ資料)
このマイクロ資料を閲覧するために、仙台にある宮城県図書館に、2回足を運んだ。国立国会図書館になかったからである。
宮城県図書館は、仙台駅前からバスで片道一時間かかる。
それだけに、ここで紹介した資料には、特別な思い入れがある。
その後、私が「これからの利用者のために『河北新報』を補充して欲しい」旨を伝えたが、この要望に応えて、国立国会図書館が補充してくれたので、仙台まで出向かなくても閲覧が可能となっている。