2015年3月26日(憲法千話)
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憲法千話・憲法施行に際しての社説No.14:昭和22年5月4日『福島民報』民報評論「新憲法と婦人の立場」
『福島民報』には、「社説」がなく、その代わりに「社説」の位置に「民報評論」が掲載されている。
ただし、5月3日号には「民報評論」がないので、一面の上半分のみを紹介する。
翌5月4日一面には「民報評論」の掲載があるので、まず、その紙面を紹介する。
5月4日付『福島民報』の「民報評論」『新憲法と婦人の立場』は拡大したコピーが読み易いので、文字起こしをせず、紙面紹介のみにするこもを考えた。だが、公布時および施行時に婦人の問題を題名に掲げているものは数少ないこと、筆者が婦人民主クラブ書記長の櫛田ふきさんであることを考慮して、私自身の記憶に刻み込むためにも、文字起こしをすることとした。
5月4日付の民報評論『新憲法と婦人の立場』
新憲法に即して民法も改正され、日本独特の家族制度が廃されることになったのは、長い間あるいは守られ、あるいは束縛されてきた女性にとってゆゆしい問題である。しかし純然たる家族制度というものが果して今まで存在していたであろうか。一部特権階級は知らず。今日の経済状態の中で恐らく家長たる戸主はその大家族を養う能力はないから、家族はそれぞれ独立の生計をたてて戸主の保護や監督の外にあるもので、家族制度はすでに一枚の戸籍謄本の上でだけの存在となって崩れてきているのではあるまいか。それならこれが廃止になるのは世間一般がすぐに道徳のたい廃と結びつけ憂慮するには当たらないことである。
封建的な思想や制度のもとでいつでも損をするのは女性であるように、家族制度のためにはずいぶん女はみじめな目を見た。家の廃止にあたって一番救われるのはやはり女性で、この家のワクの中での娘として、妻として、母として、「しゅうとめ」としてはなはだしい忍従を強いられてきた女性ははじめて解放されるわけである。
換言すれば女性は民法の改正によってまず家から解放され、日本の民主化のためにも封建的なものを徹底的に一掃して、まず手近かなところから新しい生活を建設するその使命が委ねられたのである。民法を実際に活かすもまた有名無実として殺すのも女性の実践力一つにまたれるということになったのである。
そこで女性はまず手近な家庭生活の民主化から着手するせきにんがある。例えば民法を見ると、第一条に「私権ノ享有ハ出生二始マル」とあるから、生れた瞬間から男女貧富の別なく経済生活において同じ人格を宣明されている。自分の生んだ子といえどもそれはすでに社会構成の一単位として、個人としての尊重を忘れずに育ててゆかねばならない。そこで新しい育児や教育に対する確固たる信念をもたなければならない。すべて古い観念から割出したものでは意味をなさない。夫唱婦随、または男尊女卑式の思想を家庭からまず追出し、家庭生活を合理化するために何といっても妻や娘はここのところを大いに勉強をして教養を高め、人間として社会人としての自覚の上にたって、新しい家庭生活の様式を編出さなければならない。
家庭内ではだれの独裁も専制も許さず「しゅうと」も「しゅうとめ」も、夫も妻も娘も心を協せて話合いの上でどこまでも明朗に生活をすすめるようにする。一人の不満も不平もないように、いつでも機会をつかまえてはすべての人の意見をきいて、家計のことも、子女の教育のことも、選挙のことも、食べもののこともきめてゆくようにする。民主主義の方法はこうして家庭にまず実行されるように主婦の力で習慣づけてゆかなければならない。
新しい法律で広く自由結婚を認めるようになっても、実際として若い人たちの間に男女の交際が自由かっ達に行われていない間は、お互いに認識不足な結婚をして親兄弟を失望させ、自分も不幸になる例も多いであろうし、親族会議などという封建的なものがなくなってそのために幼少者や未亡人が苦しい立場に置かれることがなくなるかわりには夫を失い、かつ金を持った人がいつの間にか人にだまされて一文なしになり、遺児が憂き目を見るということもできるであろう。これ等はすべて個人を尊重したためだが、個人個人の社会的な自覚が伴わぬ間は犠牲者もできるであろう。
それで今後の家庭生活はすべてにおいてもっと民主化され、しかも社会性を帯びなければならない。民法の改正が女性の解放を要求しており、女性の解放が家庭生活の民主化、日本全体の民主化をめざしている限り、女性の責任は重大である。(婦人民主クラブ書記長・櫛田ふき)
(典拠は、国立国会図書館所蔵マイクロ資料による)