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岩田行雄の憲法便り・日刊憲法新聞

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2015年 03月 27日

憲法千話・憲法施行に際しての社説No.15:昭和22年5月5日『福島民友』社説「新生日本の発足」

2015年3月27日(憲法千話)

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憲法千話・憲法施行に際しての社説No.15:昭和22年5月5日『福島民友』社説「新生日本の発足」

昭和22年5月3日付『福島民友』の社説は、「政治性の不足」と題してはいるが、憲法施行には関係のない一般論である。したがって、文字起こしはせず、一面上半分の紙面紹介に止める。
なお、翌5月4日付の社説「面目を一新した県政界」も、憲法施行に関係のない県政界の分析なので、紙面紹介は省略する。
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5月5日付『福島民友』の社説「新生日本の発足」で、ようやく憲法施行に関して論じている。
当時は、紙不足で、教科書用紙を確保するため、新聞各社が順番で、それに協力していたが、5月5日付『福島民友』はその順番にあたり、タブロイド判で発行している。

昭和22年5月5日『福島民友』社説「新生日本の発足」
 新憲法の施行により主権在民の原則は確認され、文化国家、恒久平和の大勢は定められ、わが国はいよいよ新しい平和日本、民主日本として、更生の第一歩を踏み出すことになったわけである。われわれはこれを機会に過去を過去として葬り去り、よりよき国家生活を開始する希望と、確信と、勇気とに燃え上がらなければならない。新憲法の制定とか、新憲法の実施を、何か他人事のような傍観的な態度をもって、見ている者もあるようであるが、そうゆう態度は反省されなければならないのではないか。新憲法の実施に対して一般国民が余りにも無関心な、何の感激もない態度を示していることは、決して感心すべきことではない。
 新憲法は新しい日本の在り方、新しい日本統治の大本をはっきりと規定している。しかしそれは、国民大衆の心の在り方まで規定し得るものではない。心の在り方は自律的に決められるものだからである。したがって新しい憲法が実施されて、新しい日本の在り方は規定されても、国民大衆が自律的にこの新憲法の精神にそうて、今後の日本の運営を行う心構えにならなければ、何もならないのである。いかにりっぱな憲法でも、それは要するに紙の上に書かれた文字にすぎない。これを生かすも殺すも、それは国民大衆の心構えいかんにあることなのである。しかしてその国民の心構えは、法文に□□□規定しうるものではなく、国民大衆自身の自律的な考えによることなのである。
 馬を河に入れることはできる。しかし馬に水を飲ませることはできないとゆう言葉がある。馬の首を無理矢理に水の中に突っ込んでも、馬に水を飲む気がなければ、飲ませることはできないのである。これと同じように法規はいかようにも定めることができるし、また法規は、人の行動を規定することもできる。しかし法規は人の心の中まで、規定することはできないのである。結局それは、各人の自主的な協力にまつほかはないのである。すなわち国民の自覚とゆうことが根本の問題となってくるのである。
 新憲法の実施に際して、国民の多くが、無感激、無関心の態度を示しているとゆうことは、この自覚が不足していることを物語るものではなかろうか。新憲法制定が、必然的な時代の要請であるとゆうこと、更生日本建設の目的を達成するためには、新憲法の精神に基いて、方針を立てて行くほかはないと、正しく認識していないことを示すものではないだろうか。この点について国民大衆は、この祭じゅうぶんに考慮するところがなければならないと思う。

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(典拠は、国立国会図書館所蔵マイクロ資料より)

by kenpou-dayori | 2015-03-27 06:18 | 憲法千話・憲法施行に関する社説


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