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岩田行雄の憲法便り・日刊憲法新聞

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2015年 05月 30日

憲法便り#1015 第九条:高橋英吉委員(日本自由党)の質問:『検証・・・』(第六版)第六章(8)

2015年5月30日(土)(憲法千話)

憲法便り#1015 第九条:高橋英吉委員(日本自由党)の質問:『検証・・・』(第六版)第六章(8)

第六章の前回まで、
憲法便り#1014 第九条:山崎岩男委員(日本進歩党)の質問:『検証・・・』(第六版)第六章(7)
憲法便り#1013 第九条:笠井重治委員(無所属倶楽部)の質問:『検証・・・』(第六版)第六章(6)
憲法便り#1012 第九条:加藤一雄委員(日本自由党)の質問の続き:『検証・・・』(第六版)第六章(5)
憲法便り#1011 第九条:加藤一雄委員(日本自由党)の質問:『検証・・・』(第六版)第六章(4)
憲法便り#1010 第九条:山田悟六委員(日本進歩党)の質問:『検証・・・』(第六版)第六章(3)
憲法便り#1009 第九条:鈴木義男委員(日本社会党)の質問:『検証・・・』(第六版)第六章(2)
憲法便り#1008 第九条:野坂参三委員(日本共産党)の質問:『検証・・・』(第六版)第六章(1)


『検証・憲法第九条の誕生』(増補・改訂 第六版)(p.90ー97)より
第六章 第九十回帝国議会 衆議院憲法改正案委員会での逐条審議(8)


改正案委員会の審議は、第九回(七月九日)で一般質疑を終了し、第十回(七月十一日)から逐条審議を開始した。第九条に関する審議は、第十二回(七月十三日)の後半と第十三回(七月十五日)の前半において、集中的に行われた。

【第十三回委員会】七月十五日(月曜日)
午前十時二十四分開議、午後四時十五分散会
参加委員五十六・国務大臣六・政府委員四名


高橋英吉委員(第四回委選定・日本自由党)の質問
「唯一の頼みの綱、国際連合への加入の見通しは」
「国家こそ主権の主体であり、統治権の主体である」


芦田委員長 高橋英吉君

高橋委員 九条に付きまして、二点ほどお伺い致します。第一点は、ごく簡単に箇条的にお尋ね致しますが、日本は自衛権の規定をこの戦争放棄の規定から除いたこと、即ちこれを挿入するということは有害無益であるということの総理大臣のご説に対しては、私、了解致すのでありますが、然らば唯一つの頼みの綱である国際連合、この国際連合に加入することは、講和条約の結果この見通しがあるのでありますかどうか。講和条約が成立しました結果、当然この国際連合に日本も入り得る可能性があるのであるかどうか。
これが一つと、それから仮に国際連合に加入が出来ない場合でも、日本国が被害国である場合、即ち自衛権が障碍(しょうがい)された場合、日本が侵略の対象となった場合に、日本国から積極的に提訴することが出来るかどうか、これが第二。
それから第三としまして、先日、終戦後当然速やかに家郷に帰してもらうことになって居る武装解除せられました日本の軍隊が、なお今日抑留拘禁の憂き目に遭って居る、即ちこれは「ポツダム」宣言に違反するものであるということの質問をいたしましたに対して、総理大臣から私と同意見であるというお答えを得ました。しからば、現在日本として国際連合にこれを提訴することができるかどうか。日本としては、如何なる方法に依ってこれが救済策を仰ぐことが出来るか。国際連合は現在日本との直接の関係がないために、これを放置して顧みないという風なことの組織になって居るのであるかどうか、第三と、それから第四に講和会議の開催は何時頃になる見通しであるかということ、この四つの点に付いて政府のご所見を伺いたいと思います。

金森国務大臣 お尋ねになりました諸点は、もとより政府の誰かがお答えすべき筈のものではありましょうけれども、私自身と致しましては、仕事の分担の関係上お答えしにくい、またお答え致しましても権威のない事柄に属すると思いますから、しばらくご猶予願いたいと思います。

高橋委員 それでは次の機会に総理大臣からこれをお答え願いたいと思います。それから第二の点は、この九条の国の主権という問題がありますが、結局これは主権論になって、すでに幾百、幾千度この委員会なり本会議場において質問応答が繰り返されておりますから、私改めてこれを申し上げることもないでのありますが、ただ私が前回お尋ねしましたことに対して、金森国務相から私がまことに満足するような、諒解することの出来るようなご答弁があって、私のみならず国民が安堵したという感じに打たれて居ったのでありますが、その後のご答弁にはまた何か割り切れないものがあるようでありますから、いま一度確かめさせて戴きたいと思います。
即ち、この九条の国の主権というものは、国家が主権者である、国家が統治権の主体であるということを明記しているのではないか。即ち、主権というものは、国家なる協同体にあるのではないか、天皇初め国民一般、その他国家の構成分子である、ありとあらゆるものの総合体、協同体そのものに主権というものがあるのではないか。即ち、国家なるものが国家の中では最高至上のものであるのではないか。個々の構成分子、天皇とか、国民とか、その他のあらゆる構成分子よりは、国家というものが最高至上のものであるのではないか。
現在まで、主権在君説、主権在民説、主権在国家説という三つの説が述べられて居ったように思いますけれども、一般には主権在民説とか、在君説の二つに置かれて居るような印象が与えられて居るのであります。この前申しました通り、主権在国家説、国家こそ主権の主体であり、統治権の主体である、そういうことに対する明確なご意見をもう一度承りたいのであります。
即ち、金森国務相が度々ご答弁になって居る、天皇と国民との協同体が主権の源泉と言いますか、淵源と言いますか、前文にあります由来、こういう、文字に相応しい立場にあり、或いはそれが主権者だという風に取られないこともないようなご説のようにも取れるのでありますが、即ちこれは言葉の上では前文にありますように、国民から由来するのであり、天皇と国民との協同体であり、国民なるものから由来するものであり、国民から源泉するものであり、淵源するものであるということになるのではないか。即ち、主権の主体ということの説明にはならぬのではないか。もし、天皇と国民との協同体なり国民が主権者であるならば、前文においても源泉というか、由来というか、「その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行い」というような、由来という言葉を使わずに、国民が主権者であると思うことを明確に、はっきりと前文の中に織り込まれて居るべき筈だというのであります。したがって、前文にありまするし、またその他天皇を包含したるところの国民協同体なるものは、日本国家の最重最高の構成分子となって居りますけれども、それは全体ではない。即ち、最高至上のものは国家であり、天皇を包含した国民の協同体なるものは、その国家の至上最高の権力の源泉になって居るのであり、由来するところの源、淵源になっているのであり、国家よりは一段低い所にあるということになるのではないか。即ち、主権在君説、主権在民説、主権在国家説の三つの中で、金森国務相のお心持ちはどれに最も近いのであるか。近いのではない、はっきり主権在国家説を採られるようなことになるのであるか。明確に、一口に簡単にそれがご説明出来ないとすれば、その三つの中のどの線に最も近くお考えになるのであるか。この点に付いて、金森国務相のご所見を伺いたいと思います。

金森国務大臣 お尋ねの点は一般に国法学を論議致しまする場合に、相当研究上頭を捻らなければならぬ種類の事項に亘って居ります。念のために一つの例を借りて申しますれば、例えば会社がありまして会社が外に向かって取引きをするという場合に、誰が取引きをするのであるかと言えば、会社が権利の主体、義務の主体となって取引きが行われるのである。これは普通の場合にちっとも疑問はない訳であります。しかしながら、会社が権利を有し、義務を負うという場合、その実際の働きを誰がするのかということになりますと、勿論眼前の事実として見ますれば、その会社の代表者がやって居りますけれども、本当にこの会社の意志はどうして出来るのかという根源に遡りますれば、会社の種類に依って違いましょうけれども、普通の場合でありますれば、会社を組み立てて居る人々の全部の意志に依りまして、その会社の方針が右にも左にも動く、こういう風に言えるものであります。これは全く狭小な事例を申し上げたに過ぎませぬ。
国に付いて考えて見ますれば、国が外国と色々な交渉をするという場合の法律的な見地から申しますれば、国が単位となって、この国と他の国とが交渉をする、そうすれば国自身が働く主体となって居る。したがって、国自身がいわば意志の如きものを持って居る訳であります。そういう場合におきまして、この国家は意志を持って居る、その意志をまた別な言葉で言えば主権を持って居る、こういう風に一般に認められていると思います。
そこで、この九条の「国の主権の発動」というものは、つまり国のまとまった意思を主権と申しまして、それが発動する、でありますから、国権と言っても宜しいし、ここで先日鈴木君からご質疑になりましたが、国の統治権と言っても宜しいと言えるのであります。つまり、国家が外に向かって働きまする時に、その国を単位として考えまする時に、国は一つの意志を持って居ると言い得ると思います。その意志を称して、国家意思、即ち国の主権と言うのが、一つのごく平明な考え方と思って居ります。ところがその意味におきましては、主権の主体は国家である、こう言って一向差し支えないと思います。
しかし、その国家の意思ということを申しまするけれども、それはどうして出来るものであろうか、国家が脳髄を持って居る訳でもなく、その外の神経作用を持って居る訳でもありませぬ。この国家の意志というものは、本質におきましては、人間の意志を以って充たされて居なければならぬ筈であります。そこで、一つの国の意志と言うものは、一体どこから来るのであろうかという時に、それは国民の全体であるということが、私の今まで述べたところであります。そうして、その国民の持って居る意志は国家の意思を構成するということになりますれば、結局国民の意思が一番強くて、その意志を以って国家の意思が完成せられる訳であります。でありますから、さような場合に、国民が主権を持って居ると、こう言って学問上差し支えないと思う訳であります。かく考えて行きますると、国家も主権を持って居る、こういうことが言えまするし、国民全体が主権を持って居るという言葉も成立致します。矛盾じゃないか、こういう疑いが起るかも知れませぬが、それは同じ主権という言葉を使いましても、意味が違って居るのであります。その先の、国が主権を持って居るという時は、国が活動をする時に国が主権を持って居るという風に説明して、しかも国が一つの単一体であるが如く人間の頭の中で組み立てて説明をして居るのであります。今度、実質的に分解致しまして、国の意志というものは誰の意志で出来て居るのだと打ち割って中味から考えて行きますると、それは国民全体の意志である。したがって、国民各個の精神作用とつながりを持って居る。勿論複雑な組織でありまするから、何の何がしの意志がはっきり国家の意思を組み立てたと言い切れないかも知れませぬけれども、この前文にありまするように、選ばれた多数の国民が意志を決めますれば、それが国家の意思となるという訳であります。繰り返して申しますると、主権という言葉が二つの意味に使われて居る。現実に外に向かって―外に向かってと申しまするのは、必ずしも外国というだけではありませぬ。国内に向かって税金を取るという時でも、税金を取るとなれば取るものがなければならぬ。誰が取るか。国が取るのであると言えば、国が主権を持って居る。その主権の働きで取るのだと、こう思って居ります。けれどもこれを義務的に分解して、主権が出来て来る元をたずねて見ますれば、それは国民の全体である。国民各自がそれにつながりを持って居る。これにまた一つの主権という言葉で言えるのである。こういう言葉で言えるのだと思います。
そこでこの憲法の草案におきましては、初めの外から見まして、国外に着想をして国が主権を持って居ると言う場合は、主権ということばを使って居る。けれども、内側の方の組み立てに着想して言う時には、言葉の混同を避けまして、主権という言葉を使わないで、国民の総意が至高である、或いは至高の総意である、「日本国民の至高の総意」という言葉を用い換えて、紛糾の起るのを避けたのであります。たまたま、それが動(やや)もすれば疑惑を増して、主権という観念の混雑を来して居るように見えますけれども、そうではない。その混雑を避けるために、故にそういう言葉を使ったのであります。
もしこれを徹底して申しますれば、例えば前文の中にありまする「国民の総意が至高なものであることを宣言し」という所を、「国民の総意が主権性のものであることを宣言し」、こう言えば、そういう方面の学問をした人にはよく分かるのでありますけれども、また第一条の「この地位は、日本国民の至高の総意に基づく」と言うのを、「日本国民の主権性の総意に基づく」こう言えば、特殊の学問をした人にはよく分かると思います。
しかし、国民全般にこれを理解して貰いまするためには、そういう紛らわしき言葉を避けまして、至高の意志と、こう言ったのでありますから、先の法人のご説明と組み合わせてお考え下さいますればはっきりして居る、こういう風に私は信じて居ります。そうしてその後の主権性というものは、度々繰り返して言うように、国民全体にあるということは一点の疑いがない、この憲法の建て方の基礎でありますし、これを他の言葉で言えば、その第二の意味の主権は国民全体にある、こう言って宜しいと思います。

高橋委員 いまのお説を聴きまして、ますます私の国家主権説の確かであるということを自ら信ずることになるのでありますが、いまの主権の作用、統治権の作用に内外の作用があるという風なご説明ぶりであったようでありまして、単に国際間の場合において、国家が主権を持つ(原文は學ツ)という風になるのだという風のご説明のようにも聴いて居りましたが、後からまたそうでもない、内部関係においても無論統治権としては国家にあるのだという風なご説明があったように思いますが、統治権には内外の作用というものはない、統治権そのものは権利の主体として、それ本来の働きをする場合に、内の作用もあり、外の作用もあるのでありますから、統治権に二つの主体者があるということは、これは到底信ずることが出来ないと思う。したがって、私はかく解釈さして戴く訳には行かないかと思うのでありますが、金森国務相のご所信はどうでありましょうか。即ち、法令上から言いますと、主権は国家に在るのだ、しかし実際上政治的の意味から行くと、国家なるものは結局人類を除いての意志活動をするものはないのでありますから、土地にしても、建物にしても、その他の物体にしても、意思決定の協力者がないのでありますから、したがって、国家即ち国民協同体ということになるのであるから、実際上においては国民の意思が統治権の作用を決定するのであるという風に、即ち政治的実際的には国民に主権があるという風な説明は差し支えないけれども、法理的においては、国家に主権があるのだという風な、はっきり区別したところの説明が出来ぬものでありましょうか。そうして戴ければ、非常にこの問題は国民の耳にも入り易いし、我々も安心してその点に付いて天皇のご尊厳並びに民主主義的な前進ということに対して、十分この憲法に依ってそれ等のすべてのものが保障され得るという風に確信するものでありますが、如何でありましょうか。

金森国務大臣 ご説明はよく分かりました。この憲法の用いて居りまする文字から言えば、大体お話しのような建前に出来て居ります。主権という言葉は常に国家が持つ、つまり国家が主体であるという組み立ての場合に、主権という文字を使って居ります。それは確かであります。しかし世間の色々の学説その他をもとにして、別の意味の主権がどこにあるかというお尋ねでありまするが故に、そこでどうしてもまたご説明が面倒になるのでありまするが、別の意味の主権は国民全体に在る、こう言って居ります。それを突き止めて言えば、いまお話しになりましたようなお考え方で、一般人に了解が出来るものと考えて居ります。

高橋委員 くどいようでありますが、最後に簡単な言葉で表わしたいと思うのであります。即ち、主権は国家に在って、その主権の行使者、総攬者(そうらんしゃ=一手に掌握する者)―現在の言葉で言いますと、総攬者という言葉を使ってありまするが、総攬者、行使者というものが国民である、かように解釈してもお宜しいのじゃないかと思いますが、如何でしょうか。

金森国務大臣 非常に学問的なご質問でございまして、ここでお答えをする資格もありませぬし、知識もございませぬ。総攬者という言葉が当てはまるかも知れませぬけれども、この場合にそう言って宜しかろうというだけのまだ決心も付きませぬ。やはりいまのお言葉の行き方をして行けば、主権は国家にあるのだ、その主権を構成する本体は国民全体に在るのだ、こういう風にご了解願えると、大変都合が好いと思います。

高橋委員 最後にちょっと簡単に吉田総理大臣に質問しておきたいと思うのですが、先般質問に対して、「ポツダム」宣言は降伏の条件ではない、内容である言われて居りますが、条件か内容かということは、色々民法の条件論にも難しい問題になって居るのであります。条件より内容の方がより重要だと私共も考えますが、「ポツダム」宣言の五条に「吾等の條件は左の如し。吾等は右條件より離脱することなかるべし。右に代る條件存在せず」という風に、條件という言葉が三つも使ってあるのであります。したがって、「ポツダム」宣言なるものは、日本降伏の條件という風に簡単率直に国民に知らしめる必要があるのじゃないか。内容なんという法律的に非常に難しい言葉を使わなくても、條件という言葉が「ポツダム」宣言に書いてあるのですから、したがって「ポツダム」宣言は降伏の條件であるという風にご宣言下さいますならば、今日士気が少し沮喪(そそう=気落ちしていること)しかけて居る日本国民の上に、一道の光明をもたらすことになり、士気昂揚に資することになると私は思うのでありますが、この点に付いて、他日、吉田総理大臣よりご明答を得たいということを申し上げて、私の質問を終ります。

『憲法便り#1015』へと続く。

by kenpou-dayori | 2015-05-30 11:22 | 自著連載


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