2015年6月12日(金)(憲法千話)
2015年6月13日(土)
赤字部分を加筆
憲法便り#855:ドキュメント・朝日新聞上丸洋一編集委員への憲法研究協力とその中止について(第六回)
『キリンシティにて』
まず、ビールを頼み、
ソーセージの盛り合わせをひと皿。
ひとつの皿から、二人で食べた。
私は、あまり個人的な質問はしない。
だが、この時は、初めて質問した。
岩田:「どのニュースを見て、講演会を知ったのですか?」
上丸氏:「『赤旗』の行事案内の欄、あれは便利なのです。」(注:「くらしの情報」のこと)
岩田:「朝日ではない、それは面白い」
上丸氏:「私は、あの近くの大学の出身なので、それも行ってみよう思った理由の一つです。」
早稲田九条の会の事務局の方が、インターネットやチラシでのお知らせのほか、『赤旗』、『朝日新聞』、『週刊金曜日』などに、ニュースを送って下さっていたので、この質問をしたが、その他の理由は聞かなかった。
そして、次の質問をした。
岩田:「学部は、どこですか?」
上丸氏:「政経です」
岩田:「そうですか、私の妻の兄は政経の出身ですから、彼の後輩にあたりますね。義兄は、つい最近まで政経の大学院教授でしたよ。」(義兄の経歴については、もう少し話したが、ここでは省略)
そんなことから、上丸氏は打ち解けて、いろいろな話をし始めた。
上丸氏:「私は、出版関係を担当していました。ですから、出版関係の、いろいろな人を知っています。ナウカのことも書いたことがあります。「ナウカ」を訪ねて、取材をしました。」
岩田:「その記事については友人から聞いて知っていますが、私は読んでいません。」
上丸氏:「出版労連関係も取材しましたが・・・。」
岩田:「そうですか。出版労連には、30年間所属していました。ナウカ労組の委員長や、小売洋販共闘会議の議長も務めたことがありますし、争議団支援の活動もかなりやりましたよ。」
上丸氏:「ジャーナリスト会議の方にも会いました。」
岩田:「私も、数年間でしたが、ジャーナリスト会議の会員だったことがあるんです。
当時、八月の集会のあとの交流会で、代表委員だった秦正流さん(元朝日新聞大阪本社専務)と同じ席になって、私がナウカの社員だと名乗ると、とても懐かしがって、親しく話をする機会がありましたよ。」
上丸氏:「A出版社のBさんはご存知ですか。」
岩田:「ええ。彼なら、よく知っています。お世話になった方です。」
「10年前に、『検証・憲法第九条の誕生』を自費出版した際に、電話をしたところ、『お前さんのやり方は、古いんだよ。私たちは、インターネットで発信している。まあ、読んであげるから、送って寄こしなさい』って言われたんです。」
「私はその時、『いえ、送りません』ときっぱりお断りしました。」
上丸氏:「私も、『読んであげるから、送って寄こしなさい』って言われて驚いたんです。」「私は、送りましたが・・・」
「出版社の方は本を買わないで、貰うことが当たり前なのかと疑問に思いました。しばらく前にもお目にかかったことがあるんですが、(この後は、プライバシーにかかわることなので省略)」
岩田:「出版社の人だって、ふつうは自分で買っていますよ。みんなが、みんなそういうことではないですよ。」
このあと、朝日を励ます話をした。
その具体例として、『新聞と戦争』について、私としては、少し甘めの書評を書いておいたことを話した。
さらに、励ましの話の前段として、私の著書『世論と新聞報道が平和憲法を誕生させた!』を、今住んでいるところの、身のまわりの様々な人たちにも買っていただいていることを話した。
それは次のような具体的な話である。
郵便局員、食堂のご主人、洋菓子店の社長、幼児教育研究所長、酒屋の社長、コンビニの店長、マンションのオーナー、スーパーの店長と副店長、信金の職員、不動産会社の社長、東京新聞販売所所長、同配達員、耳鼻科の先生、区役所の職員、古書店の店主、公共施設の責任者、元PTA活動の仲間、共産党の区議会議員、
美容院の経営者、鍼灸の先生などなど。
複数の部数を買ってくださる方もいらっしゃる。
このような人間関係での本の広がりは、彼には思いもよらない話であり、驚きであった。
岩田:「憲法改悪を阻止するためには、こういう活動が必要なんです。私の場合は、調査・研究、執筆、編集、宣伝、販売、代金の回収まで、印刷と製本以外は、すべて自分で、やります。そして、皆さんの感想や、反応を確かめます。大学の先生や、上丸さんのような場合には、原稿完成までがせいぜいでしょう。」
そして、私の著書を買って下さったある商店主(業種は秘す)の言葉として、次の話をした。
岩田:「この方は、私よりも年配の方ですが、父親の遺言を守って、『朝日新聞』をずっと取り続けているんです。彼の父親は、『朝日新聞が変わる時は、日本の社会が悪い方向に変化する時だ。だから、決して、日本社会の状況判断のため、朝日新聞をやめてはいけない』と言い残したと言うんです。」
この話を聞いて、上丸氏は、
「わあ~、涙が出るほど嬉しいです。」と言った。
そのあと、私は次のように話を続けた。
岩田:「近々、朝日新聞に激励の手紙を書こうと思っているんですよ。」
これに対して、上丸氏は言った。
「有難うございます。よろしくお願いします。喜ぶと思います。」
「でも、投稿として掲載されるかどうかは、判りませんが」
私は、応えた。
「激励が目的ですから、掲載されるかどうか、それはどうでも良いことです。」
それを聞いて、上丸氏は、安心したように言った。
「それなら、いいんですが。」
この日、私は、もう二つ質問をしている。
岩田:「上丸さんは、定年までには、まだ何年かあるんでしょ?」
上丸氏:「いえ、来年の3月で定年です。」
「上司は、私より年下なんですよ。」
岩田:「年下、そうでしょうね。」
「来年3月が定年ですか。まだ十分働けるのに、それは勿体ないなあ。」
岩田:「それじゃあ、来年の企画を担当出来るかどうかは、まだ決っていない訳ですね。」
上丸氏:「そうです。」
これを聞いて、私は、次のように励ました。
「実現するといいですね。まあ、頑張って下さい」
私は、この日最後の質問をした。
岩田:「ところで、『朝日』では、担当する企画は、どうやって決るのですか?」
上丸氏:「オレが『これやる』って言えば、それで決るんです。」
私は、『朝日新聞』の決定の仕組みは、そんなものなのかと思った。
それは、この日、彼が開口一番、
慰安婦問題で朝から大騒ぎになっていることに対して、
「私は担当者ではありませんから、関係ありません。あれは、担当者がやる問題です。」
と言い放ったことと、共通していると思った。
このような話をしている時の、時間が経つのは早い。
あっという間に、午後7時を過ぎようとしていた。
二人とも、3杯目を飲み干した。
帰り間際に、上丸氏が、「もう一度会ってほしい」と言った。
「もう一度」ということは、今日、彼がしきりに「おねだり」をした、憲法公布時と施行時の社説のこと、そして、その前後の事情が知りたいのか?
これ以上、何を聞きたいのか?
彼は、私に対して、時間をとって欲しい、話を聞かせて欲しいとは言うが、取材という言葉を使っていない。
また、一般論として、戦後70年ということで、出来れば憲法について特集を組みたいとは言ったが、
その後判明することになる、『新聞と9条』を書くなどということは、一度も口にしていない。
その意図が判らないが、応じることにした。
次回は、9月12日午後1時半ということにした。
そして、上丸氏が「改めて連絡をします」ということで、話は終わった。
場所は、今日と同じ。
会計は、私がした。
4,220円。
上丸氏が言った。
「では、先輩に少し多めに出して頂くことにして、私は2,000出します。」
ところで、上丸氏の都合に合わせて、8月6日に会うことにしたのだが、私には、追悼行事に参加しなかったことへの後ろめたさが、その後もつきまとった。
(第七回に続く)