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岩田行雄の憲法便り・日刊憲法新聞

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2015年 07月 09日

憲法便り#1044:新宿区教育委員会に提出した、育鵬社、自由社の教科書を不採択の要請書全文の紹介③

2015年7月9日(木)(憲法千話)

憲法便り#1044:新宿区教育委員会に提出した、育鵬社、自由社の教科書を不採択の要請書全文の紹介③

第2章 立憲国家と国民(37)

第1節 世界の立憲的民主政治(38)
13.国家の成立とその役割(38)
14.立憲主義の誕生(40)
*もっと知りたい:基本的人権思想の発見(42)
15.立憲的民主主義(44)
第2節 日本の立憲的民主政治(46)
*統治権総攬
16.大日本帝国憲法(46)
万機公論ニ決スヘシ:幕末の動乱期、幕府の力が弱まり、天皇の権威が大きく上昇し、国民の意見によって政治を行うという考え方が芽生えました。この考え方を反映して1868年(慶応4年)、明治新政府が発布した五箇条の御誓文は、第1条に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と書いています。その後、政府は欧米の憲法を調査研究し、日本の古典を参照して憲法制定作業を進めました。そして、1889(明治22)年、大日本帝国憲法を発布しました。

大日本帝国憲法の特徴:大日本帝国憲法は、第1条で、万世一系の天皇が国家を統治すると定め、日本の政治は古今一貫して天皇の統治によってなされる、というわが国の政治的伝統を宣言しました。(原注①)
政治の実際の形態は、まず、天皇は統治権を総攬(原注②)する一方、その統治は条規に従う(4条)とされます。つまり法治主義が規定され、天皇も憲法に従うこと(岩田注③)が明らかにされています。次いで三権分立が規定され、天皇が三権を行使するにあたっては、法律の制定は国民代表の意見が反映された帝国議会の協賛(承認)によること(原注③第37条)、行政は国務大臣が責任を担うこと(原注④第55条)、司法は裁判所が行うこと(原注⑤第57条)とされています。大日本帝国憲法のこうした規定は、イギリスなどですでに先例となっていた立憲体制を実現したものといえます。
 また憲法は、アメリカやヨーロッパで定着した憲法の理念をとり入れ、国民の自由と権利を保障し、基本的な自由権と参政権などを規定しました。そして、公共の福祉の観点から、法律に基づく以外、自由と権利は制限できないとされています。
 このように大日本帝国憲法は、法治主義、三権分立など、立憲主義の主要原則をすべて備えた立憲君主制の憲法でした。この大日本帝国憲法は、アジアで最初の憲法として、内外から高く評価されました。

*ここがポイント(47)
①明治政府は、成立の初めから話し合いによる政治の確立を目指していた。
②大日本帝国憲法は、欧米の政治理念をとり入れた立憲君主制の憲法であった。(岩田注④)

*もっと知りたい:立憲主義を受け入れやすかった日本の政治文化(48)(岩田注⑤)
(48と49の2頁見開き)
権威としての天皇 48頁全面 後鳥羽天皇
合議の伝統 五箇条の御誓文 図入りで49頁全面

17、日本国憲法の成立(50)
写真:衆議院本会議において憲法改正案を議決(1946年8月24日)(岩田注⑥、資料①)

GHQ案の提示:1945(昭和20)年8月(岩田注⑦)、わが国は、ポツダム宣言を受け入れて連合国に降伏しました。ポツダム宣言は、わが国に民主主義化と自由主義化を求めていました(原注①ポツダム宣言第10項に、「日本国政府は、日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は、確立せらるべし」と書かれている。)(岩田注⑧ポツダム宣言第10項の前段)。日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官マッカーサーは、11月(岩田注⑨:10月、資料②)、日本政府に対して、民主主義化、自由主義化のために必要だとして、憲法改正を指示しました(岩田注⑩幣原の挨拶会談、資料②)。これを受けて日本政府は大日本帝国憲法の改正案を作成しましたが、マッカーサーは、この改正案は天皇の統治権総攬を規定していることなどで、改正は不十分であるとして拒否しました(岩田注⑪日本政府案はなし、資料3)。GHQの民政局で新憲法案がひそかに英文で作成され(岩田注⑫憲法研究会案、資料4)、1946年2月13日、日本政府に提示されました。日本政府としては受諾する以外に選択の余地のないものでした。(岩田注⑬外務大臣官邸での会談、資料⑤)

議員の追放と憲法改正の審議:
 英文の新憲法案を基礎に日本政府は政府案を作成し、3月6日に発表し、4月10日、衆議院選挙を行いました。1月にGHQは、戦争の遂行に協力した者を公職から追放するという公職追放(原注②自由党を率いていた鳩山一郎総裁は、選挙が終わって総理大臣になる寸前に公職追放となった。)を発令していました。そのためこの選挙のときは現職の82%の議員は追放されていて、立候補できませんでした。さらに5月から7月にかけて、議会審議中にも貴族院議員を含め多くの議員が公職追放されてしまいました。(岩田注⑭戦争への反省なし)
 また、当時は、GHQによって、軍国主義の復活を防ぐという目的から、信書(手紙)の検閲や新聞・雑誌の事前検閲(岩田注⑮)が厳しく行われました。GHQへの批判記事は掲載が一切認められず、特にGHQが新憲法の原案を作ったということに関する記事は掲載しないよう、厳しくとりしまられました。従って、憲法審議中、国民は新憲法の原案がGHQから出たものあることを知りませんでした。
 このような状況のなかで憲法改正の政府案は6月から10月にかけて帝国議会で審議されました。帝国議会では、主として衆議院の憲法改正特別委員会小委員会の審議を通じて、いくつかの重要な修正が行われました。しかし、小委員会の審議は、一般議員の傍聴も新聞記者の入場も認められない密室の審議でした。この小委員会の速記録は、1995(平成7)年に初めて公表されました。
 こうして可決された日本国憲法は、11月3日に公布され、翌1947年5月3日より施行されました。この憲法は国民主権や平和主義などを定め、立憲主義と民主主義をさらに進めています。

写真説明 日本国憲法を承認した枢密院(1946年10月29日)(岩田注⑯)
枢密院は天皇の諮問機関。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれた。

*ここがポイント(岩田注⑰)  
①日本政府はGHQより、憲法改正の指示を受けた。
②日本政府がつくった改正案は不十分なものであるとして、GHQが原案をつくって日本政府に憲法改正を命じた。
③日本国憲法は、国民主権や平和主義などを定め、立憲主義と民主主義を進めた憲法である。

18、日本国憲法の原則(52)
 19、日本国憲法の改正問題(54)(*54と55の2頁を使っている。)
  *各国の憲法改正回数:(2014年3月現在、国会図書館データによる)(岩田注⑱)
国  名      制定年  改正回数
ドイツ       1949    59回
フランス       1946    27回
アメリカ       1788    18回
イタリア       1947    15回
大韓民国       1948     9回
中華人民共和国  1954     9回
オーストラリア    1900     5回
日本        1947     0回

*(憲法改正についての)ここがポイント(55)
①憲法改正手続きは、衆参各総議員の3分の2以上の賛成があり、満18歳以上の国民による投票で過半数の賛成を得て行われる。
②憲法改正の論点として論議になっているのは第9条、二院制、首相公選制、元首の問題、新しい権利などが主なものである。(岩田注⑲)
*学習のまとめと発展(56)       (以上が、「第2章」の目次と主な記述)

「第2章」への問題点の指摘と〔岩田注③-⑲〕

〔岩田注③〕「天皇も憲法に従うこと」とあるが、これは、絶対王政の下での無制限な王権と同様にならないよう、王権を制限することを意味するものであって、天皇が国民と全く同じ立場であることを意味しない。天皇には、臣民(国民)にはない、臣民(国民)の権利を停止する、次の規定が存在する。
 『大日本帝国憲法』の「第二章 臣民権利義務」の第三十一条がその例である。
「第三十一条 本章ニ掲ケタル條規ハ戰時又ハ國家事變ノ場合ニ於テ天皇大權ノ施行ヲ妨クルコトナシ」
 
〔問題点の指摘〕「欧米の政治理念」という表現
*ここがポイント(47)
①明治政府は、成立の初めから話し合いによる政治の確立を目指していた。
②大日本帝国憲法は、欧米の政治理念をとり入れた立憲君主制の憲法であった。

〔岩田注④〕:一口に欧米というが、アメリカは、独立した時点から立憲君主制の経験はない。また、フランスも革命により王制を倒して共和制を樹立しており、立憲君主制の手本になるものではなかった。日本が規範としたのは、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世が1850年1月31日に公布した「プロイセン憲法」(正式には「プロイセン国憲法典」)であった。
 「話し合いの政治の確立」、そして「欧米の政治理念」を強調しているのは、大日本帝国憲法が、いかに民主的な政治を目指していたかを主張するためだが、客観的な記述が求められる。
 ここで、より適切な記述の参考例を示しておこう。
「より適切な記述の参考例」
 その一例は、帝国書院の『中学 公民 日本の社会と世界』の第2部に見ることが出来ます。
大日本帝国憲法に関する記述としての、次の説明文です。
「国民の権利や自由は、天皇が与えた「臣民の権利」として、法律の範囲内において、ある程度保障されていました。しかし、実際には、政府を批判するような言論や活動をすることで逮捕されたり、出版物の発行が禁止されたりすることもありました。
 このように、大日本帝国憲法には立憲主義的な性格も見られ、日本の近代化に大きな役割を果たしましたが、民主的な憲法としては、不十分な面もありました。」

この第2部は、次のように構成されている。
「 第2部 私たちと民主政治
学習の前に:暮らしを良くする政治を考えてみよう
第1章 民主主義について考えよう
第2章 日本国憲法について考えよう
 1、日本国憲法とは(36)」参照。(以下、略)

 また、第2部の中にある「大日本帝国憲法と日本国憲法の9項目の比較」は、判りやすい。
 私の考えとしては、この表に「議院の構成」、および「拷問および残虐な刑罰」の項目を加えることによって、国民の権利、および国民がおかれている状況が一層明確になる。戦前の拷問に関しては、作家小林多喜二虐殺事件が、あまりにも有名である。

【比較表】
 「比較する項目」  「大日本帝国憲法」         「日本国憲法」
 ①性 格      欽定憲法(天皇が定める)      民定憲法(国民が定める)
 ②主権者      天皇                   国民
 ③天皇の地位   元首                   象徴
 ④国民の権利  法律の範囲内で認められる   すべての人間が生まれながらにもつ権利として保障される
 ⑤国民の義務   兵役、納税、(教育)          普通教育を受けさせる。勤労。納税。
 ⑥国会       天皇の協賛機関             国権の最高機関。唯一の立法機関。
 ⑦内閣       各大臣は天皇を助けて政治を行う   国会に対し連帯して責任を負う(議院内閣制)
 ⑧裁判所     天皇の名において裁判を行う     司法権の独立
 ⑨軍隊       軍が通常の行政から独立       持たない

以上は、帝国書院『中学 公民 日本の社会と世界』からの引用で、
以下は、岩田の追加提案。
 ⑩議院の構成  衆議院(選挙)と貴族院(勅撰)    衆議院と参議院(どちらも選挙)
 ⑪拷問       禁止の条項なし          公務員による拷問及び残虐な刑罰絶対に禁止(第36条)

 ただし、選挙権を得られる条件と年令、婦人参政権の確立は昭和20年12月17日の衆議院議員選挙法改正公布によることも、併せて説明しなければならない。婦人参政権確立は「ベアテの贈り物」ではない。これは、誤った俗説。

〔問題点の指摘〕下記の〔岩田注⑤〕と同じ。
*もっと知りたい:「立憲主義を受け入れやすかった日本の政治文化」の構成は次の通り。
(48と49の2頁見開き)
権威としての天皇 48頁全面 後鳥羽天皇
合議の伝統 五箇条の御誓文 図入りで49頁全面

〔岩田注⑤〕「もっと知りたい」の憲法の説明で、2頁も割いて、「立憲主義を受け入れやすかった日本の政治文化」に後鳥羽天皇を登場させ、明治天皇の五箇条の御誓文を持ち出し、皇国史観に基づく説明を展開し、これを立憲主義の原点としているが、明治の社会状況を具体的に教えるべきである。家永三郎著『日本近代憲法思想史研究』の「第二章 明治憲法制定以前の憲法の諸構想」によれば、青木周蔵、元老院、嚶鳴社、京都府民有志、大隈重信、交詢社、井上毅、植木枝盛、立志社、西 周、小野 梓など、個人、団体による構想案は、49件にのぼっている。

〔岩田注⑥〕写真説明に、「衆議院本会議において憲法改正案を議決(1946年8月24日)」とあるが、この写真は、第二読会で起立採決をした時の写真。日本国憲法の成立過程で最も重要な採決は、第三読会の記名投票。(資料①:昭和21年8月25日発行の官報号外に掲載された「衆議院議事速記録第三十五号 帝国憲法改正案 第三読会」のコピー)
 当時の議院法には、「三読会」制の規定があった。「三読会」制は、イギリスの議会において、まだ印刷術が進歩していなかった時代に、書記官に議案を三度朗読させたことに始まると伝えられる制度。
1946年8月24日の第90回帝国議会衆議院本会議では、前日の「第一読会の続き」として開会され、開会時の出席議員数は406名。第一読会は午前までの議事で終了とし、午後は第二読会とされた。代表討論が終了した後、起立による採決が行われ、「七名を除き、他の諸君は全員起立」と報告され、第二読会は終了。教科書に使われているのは、その時の写真である。
そのあと、動議により直ちに第三読会が開かれ、記名投票による採決が行われた。
投票総数429票、白票(賛成)421票、青票(反対)8票。投票したすべての議員名が白票、青票の別に記録されている。こうした事実を正確に教えることが必要である。

〔岩田注⑦〕「1945(昭和20)年8月、わが国は、ポツダム宣言を受け入れて連合国に降伏しました。」と記述されているが、8月15日と正確に教えるべきである。
 3月9日から10日にかけての東京大空襲以後、日々空爆は激化し、連日のように全国各地に大きな被害が出ていた。したがって、太平洋戦争当時の一日の重みがどれほどのものだったかを、教育にもしっかりと採り入れるべきであると考える。
 優柔不断な「最高戦争指導会議」による「ポツダム宣言」受諾の遅れが、広島、長崎への原爆投下のみならず、下記の通り、多くの都市への空爆の悲劇を生み出しているからである。

【昭和20年8月】(外務省編纂『終戦史録』を典拠とした大まかな記録)
一日:スイス駐在加瀬公使よりポ宣言受諾を進言
二日:B29鶴見、川崎、水戸、八王子、立川、長岡、富山を空襲(約八〇〇機の大空襲)
三日:米空軍は三月二七日以来のB29による機雷敷設で日本の港湾及び海行路完全封鎖を発表
四日:佐藤大使よりポ宣言受諾を進言し来る
五日:B29約四〇〇機前橋、西宮、宇部を空襲
六日:広島に原子爆弾投下
B29約一六〇機西宮に来襲
七日:B29約四〇〇機福山、北九州爆撃
八日:B29一〇〇機東京西部に来襲
九日:長崎に原子爆弾投下
米機動部隊約一六〇〇機東北攻撃、同三〇〇機九州に来襲
一〇日:条件付きでポ宣言受諾を連合国に通告
一二日:連合国(拒否)回答ラジオにて到着
一三日:米機動部隊約八〇〇機関東来襲
一四日:ポ宣言受諾決定、外務省午後十一時に打電
B29約八〇〇機高崎、大阪、熊谷、伊勢崎、秋田等大空襲
一五日:米空軍、九州全土を空襲(最後の爆撃)
一六日:マッカーサー元帥より即時停戦の指令到達
 因みに、私の家族は東京大空襲直後、母方の親戚を頼って、福島の小名浜に疎開していたが、8月9日の空爆で家は全焼、わずかな持ち物もすべて焼かれた。

〔岩田注⑧〕「ポツダム宣言」第10項の前段には、次の文言が入っている。
「十、吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも吾等の俘虜(ふりょ=捕虜)を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし」
 『マッカーサーを叱った男』というテレビドラマで、白洲次郎がマッカーサーに対して、「われわれ日本人は、奴隷になったわけではない」と、怒鳴るシーンがあったが、「ポツダム宣言」を無視したストーリーの運びである。
第10項の文言を正確に伝えることが、太平洋戦争を反省し、戦争を繰り返さないためにも、必要不可欠である。

〔岩田注⑨〕11月は誤り。10月11日に、幣原首相が就任挨拶のためマッカーサーを訪問した会談。これは、歴史上の有名な会談である。教科書執筆者がどのような資料をもとに記述したのか、疑問である。(資料②:岩田行雄編著『世論と新聞報道が平和憲法を誕生させた!』p.31-33コピー)、

〔岩田注⑩〕マッカーサーの話は、指示ではなく。自由主義的な憲法を前提とした日本民主化のための五項目の要望を伝えた。その五項目とは、(同じく、資料②参照のこと)

〔岩田注⑪〕これは多く見かける誤った俗説で、日本政府が正式に作成した改正案はない。あるのは、松本烝治国務大臣(憲法担当)の私案のみ。(資料③岩田行雄編著『世論と新聞報道が平和憲法を誕生させた!』p.80-82コピー)。

〔岩田注⑫〕GHQ草案作成の基礎となったのは、憲法研究会の『憲法草案要綱』である。GHQは1945年12月の時点から、周到な調査・研究を行っていた。
資料④-1:岩田行雄編著『世論と新聞報道が平和憲法を誕生させた!』憲法研究会『憲法草案要綱』全文p.44-48コピー。
資料④-2:講演用レジュメ〔資料11〕ラウエル著『民間の研究団体により提案された憲法改正案に関する註解』(憲法研究会案に関する分析)
資料④-3:講演用レジュメ〔資料10〕「日本政府とGHQの動き=明治憲法押し付けと平和憲法制定の攻めぎ合い」
資料④-4:昭和20年12月28日付『毎日新聞』朝刊一面トップニュース「民間側の新憲法草案 憲法研究会 首相に手交」

〔岩田注⑬〕2月13日に、外務大臣官邸でオフレコ会談が行われている。この会談は吉田外相が申し込んだもの。会談内容は、研究者によってすでに明かにされている。選択の余地がなかったのかどうか、会談の記録を踏まえて記述すべきである。自由社の教科書は、検証なしに、「押し付け憲法」論の立場から記述されている。(資料⑤:講演用レジュメ〔資料12〕「2月13日に外務大臣官邸でGHQ草案を手渡した際の『記録』より」)

〔岩田注⑭〕公職追放された戦争協力者が被害者であるかのような記述で、戦争への反省がまったくない。

〔岩田注⑮〕枢密院は、皇族をはじめとするごく少人数の諮問機関で、民主主義を阻害する機関であった。法制局は文字通り「憲法の番人」と呼ばれて来たが、枢密院をこのように扱うのは、子どもたちに誤った歴史認識を「植え付ける」以外の何物でもない。最近、NHKの番組でも全く同じ内容を放送していたことと併せて、由々しき問題である。衆議院および貴族院で論議を尽した案件でも、枢密院は認めなければ、何も先へは進めなかった。
したがって、民主化をもとめる戦後の日本社会では、枢密院は「憲法の番人」どころか、不要のものとされていた。
 その主張の具体例を3点、示しておきたい。
①昭和21年10月11日付けの、外務省の極秘文書『憲法改正大綱案』の【第一根本方針】の第二項目で「一君ト万民トノ間ニ介在シ来レル従来ノ不純物ヲ除去スルコト(一君万民ノ政治)」と、枢密院について、「従来の不純物」と呼んでいる。(資料⑦-1、参照のこと)
②昭和20年11月25日付『毎日新聞』朝刊一面は、[社説]に「枢密院廃止の必然性」と題して論じている。
③昭和21年2月3日に、輿論調査研究所が発表した調査報告でも、「枢密院の存否」の設問に対して、「廃止を支持」が58%に及んでいる。(資料⑦-2:講演用レジュメ〔資料15〕「1945-1946年の三つの 世論調査に見る憲法改正に関する国民の意識」)
したがって、第90回帝国議会で憲法改正の論議が行われていた時点では、枢密院は俗に言うところの「死に体」となっており、「憲法の番人」ではなかった。
枢密院官制は、日本国憲法施行前日の1947年5月2日、勅令により廃止された。

なお、憲法改正論議は、主に衆議院で行われ、別紙のとおり、衆議院本会議、衆議院憲法改正案委員会、衆議院憲法改正案委員会小委員会(秘密会)の三段階があった。(資料⑧:講演用レジュメ〔資料16〕「衆議院での実質審議(1946年6月25日~8月24日)と議事録」)

〔岩田注⑯〕日本では、敗戦後も、戦前の政治制度がそのまま維持されており、検閲や、特高などの活動もそのまま続けられていた。昭和20年9月29日に、GHQが9月27日に遡って検閲制度を廃止し、新聞報道、言論の自由が確立されている。これを契機に、新聞、出版は、自由に行われていた。そのことを抜きに、GHQの検閲のみを強調するのは、史実に反する。
資料⑥-1:昭和20年9月30日付『朝日新聞』一面トップ記事「新聞、言論の自由へ 制限法令を全廃 連合国司令部「新たなる措置」通達」のコピー。下記の検閲の事実を知り、連合国司令部がとった措置。
資料⑥-2:昭和20年9月28日付『朝日新聞』一面トップ記事「天皇陛下 マ元帥を御訪問 三十五分に亙り御会談」のコピー(日本政府の検閲により、二人が並んで撮った写真不掲載)
資料⑥-3:昭和20年9月29日付『朝日新聞』一面トップ記事「天皇陛下、マックァーサー元帥御訪問 二十七日□(一字不明)写」(28日に日本政府の検閲で不掲載になった写真のみ)

〔岩田注⑰〕「ここがポイント」で説明している日本国憲法成立過程は、私がすでにその誤りを指摘した説明の繰り返しである。

〔岩田注⑱〕「各国の憲法改正回数比較表」について。憲法改正の問題は、改正回数の問題ではなく、問題の核心は、何を「改正」したのか、これから何を「改正」するのかにある。
また、日本国憲法の改正問題に、54と55の2頁を使っているが、これは異常である。

〔岩田注⑲〕「憲法改正の論点として論議になっているのは第9条、二院制、首相公選制、元首の問題、新しい権利などが主なものである」と記述されているが、これらは自民党の主張の宣伝であって、国民の世論の反映ではない。



by kenpou-dayori | 2015-07-09 08:05 | 教科書検定・採択問題


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