2015年8月23日(日)(憲法千話)
憲法便り#1212:昨日、若い僧侶との対話で、改めて知った「戦争の非情」な現実
昨8月22日、ある用件で、若い僧侶と話をする機会があった。
初対面であり、若い僧侶の硬さもあり、最初のうちは、話がギクシャクしている感じがあった。
だが、僧侶の出身地、学んだが学校などの話をしているうちに、共通理解出来ることが増え、十年来の知己のように話がはずむようになった。
そこで、私は、最近新たに作った、似顔絵のイラスト入り名刺を差し出し、憲法研究者であることを伝えた。
そして、併せて、現在安倍内閣が強引に進めている憲法の解釈改憲、戦争法案に反対して闘っていることを伝えた。
すると、驚いたことに、僧侶は、自分の祖父が若くして戦死したこと、それは昭和20年の正月だったことを話した。
遺骨は、届くことはなかった。
僧侶の祖父は、開山からかなりの時代を経ている寺の息子だったが、妻子を残して世を去った。
私は、しばらく言葉を失った。その方が、僧侶であったのかどうかは、聞いていない。そのような質問をするような心のゆとりなどなかった。
その時、私が思い出したのは、小学校の同級生の父親が中国で戦病死した時のことであった。
同級生からもらった手紙は、了解を得て、拙著『世論と新聞報道が平和憲法を誕生させた!』(10ページ)で、次のように紹介している。
「戦争放棄に関心がありました。私の父が戦死だからです。
私は父の顔を知りません。
父は若い時に耳を怪我して難聴になり、耳元で大きな声で話をしないと聞こえない状態だったそうです。
昭和十九年、三十五歳のときに招集令状がが来て駆り出されました。
昭和二十年十一月(中華民国***?)戦病死と書いた死亡通知が八ヶ月後に千葉の疎開先に届いて、増上寺に遺骨を引き取りに行ったのですが、渡された小さな箱には骨が入ってなく、お弁当箱と箸が入っていたそうです。
母はそれを遺骨と思ってお墓に入れておいたそうです。
その母が九十六歳十ヶ月で亡くなりました。
昨日、七七忌の法要があり、お墓に母が入りました。
建て替えたお墓には父の遺品はありませんでした。
少し悲しい思いがしました。
母に聞いたことを思い出して書いてみました。
これからの人たちには、この様な思いをさせない様に、九条を守りたいです。」
この何とも言えない怒りを、安倍首相にぶつけたい。
※岩田行雄編著『世論と新聞報道が平和憲法を誕生させた!(『心踊る平和憲法誕生の時代』の改題・補訂第二版)の注文については、
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