2015年12月27日(日)(憲法千話)
憲法便り#1504:教科書不正の三省堂経営者を叱る!そして、猛省を促す!
表題を「叱る」としたのは、
私が、30年間、出版文化の担い手として、出版労連の活動に積極的に関わってきた事実に基づいている。
私は、1967年6月に、洋書の輸入販売および出版事業を行っていたナウカ株式会社に入社、1997年12月に、定年まで5年半時点で退職した。
三ヶ月の試採用期間終了後、私はナウカ労組に加入し、同時に出版労連(当時は、出版労協)の組合員となり、積極的に両方の活動に参加した。
それから5年後の1972年9月、出版労連は第25回定期大会において、
「’73春闘は小共闘体制で」の新運動方針を決定し、同年11月の春闘討論集会で、
その方針を全参加単組が確認して具体化することとなった。
それまでも、出版労連は、賃金・労働条件の決定機構を個別労使関係=企業内から産業別に拡げ、
産業別統一労働協約を締結することを課題として、書協・取次・日書連など経営者団体に、
産業別要求を提出して闘ってきた。
小共闘運動は、これに至る一段階として、業種別・規模別の統一労働協約確立を目標とし、
「闘いの単位」として出発した。
出版労連の小共闘運動拡大方針は、それまでの教科書共闘の統一闘争の教訓を踏まえたものであった。
この統一闘争誕生の背景には、教科書労働者が置かれていた、次のようなつらい事情があった。
当時、教科書会社の営業担当者は、全国各地の担当地区で、教科書採択担当者に対して、酒食のもてなしは勿論のこと、現金を渡し、相手によっては女性の手配までした。
だが、このような営業手段と「慣習」に対して、真面目な営業担当者の中から、
「学校教育の一端を担う我々が、このようなことをいつまでも続けていてはいけない」という意見が台頭し、旅先で、企業の枠を超えた話し合いが持たれるようになった。
そして、行き着いたのが、企業の枠を超えた、統一的な賃金・労働条件の獲得、そのための統一交渉という方式であった。
この闘争の中で、三省堂労組は、大きな役割を果たしていた。
春闘討論集会で、「小売・洋販(洋書販売)共闘」が提起された際に参加していたのは、業種も企業規模も違う、タトル、東京堂、大盛堂、極東書店、ナウカ、OUP(オックスフォード大学出版局)、第二出版販売の7単組であった。
企業別組合の意識は強く、当然のことながら、意見は分かれた。
私は、小共闘結成に積極的な意見を表明したが、消極的あるいは反対の意見もあった。
本部提案を積極的に受け止める単組代表と、消極的な単組代表との間で、堂々巡りの論議が二日間にわたり続いたが、先に述べた教科書共闘による統一闘争誕生に至る話を聞いて、私たちは、最終的に、小売・洋販共闘の結成を確認した。
この論議を指導したのは、三省堂労組出身の出版労連書記次長であった。
小売洋販共闘は、出版労連内で、積極的な小共闘となった。
私たちの運動は、賃金・労働条件獲得のみにとどまらなかった。
そして、小共闘体制確立から15年。
『十五周年記念行事』として、
公開講座「出版文化―その総合的見地から」を開催した。
第一回 前早稲田大学図書館長 浜田泰三氏
第二回 雄松堂書店社長 新田満夫氏
第三回 地方小出版流通センター代表取締役 川上賢一氏
(公開講座は、その後も続けられた。)
また、1988年1月31日、私たちは統一闘争の記録として、
『出版労連 小売洋販共闘15年史―ひとつの組合のようにー(1973-1987)』を刊行した。
私は、15年史刊行委員会の責任者を務めた。
私たちは、教科書労働者の闘いに感動し、出版文化の担い手として誇りを持って働き、労働運動も続けて来た。
このたび、報道されている三省堂経営者による教科書不正は、営々とした努力の積み重ねを台無しにするものであり、絶対に許すことは出来ない。
ここに、出版関連産業に携わった「先輩」として、三省堂経営者たちを「叱り」、
猛省を促すものである。