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岩田行雄の憲法便り・日刊憲法新聞

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2018年 03月 17日

憲法便り#2504:姉からもらった、東京大空襲そして福島への疎開体験をつづった手紙!

2018年3月17日(土)(憲法千話)

憲法便り#2504:姉からもらった、東京大空襲そして福島への疎開体験をつづった手紙!

4歳上の姉に誕生祝いを届けたところ、思いがけない手紙をもらいました。

東京大空襲そして福島への疎開体験をつづった手紙です。

まだ2歳半だった私が知らないことが書かれていましたので、

本人の了解を得て、『憲法便り』で紹介することにしました。


わが家では、死者こそ出なかったものの、

戦争は、常に、子ども、女性、老人、障害者など、弱い者が最初に犠牲になります。


「3月は暖かい日が多かったですね。

2月20日、お二人からの誕生祝いをありがとうございました。

登美子さん、いつもお手紙とすてきな絵葉書をありがとうございます。

行雄さん佐多岬の絵葉書をありがとうございました。2月9日はお父さんの祥月命日、懐かしく思い出していました。

私が六歳のとき、3月9日、10日の東京大空襲、B29の編隊は、9日の夜から不気味でした。葛飾・渋江の我が家の上も飛んでいました。そして、夜おそく、真っ赤になった東京の空。向島から逃れて、旧四ッ木橋を渡って渋江小学校へと続く人々の列。翌日もずーっと続いていました。

そして、お父さんとお母さんは、福島への疎開を決めました。3月24日ごろだったと思います。

日暮里(にっぽり)から汽車で・・・

貴方のことは、いつもお母さんがしっかりとおぶっていました。

日暮里駅は、人でいっぱいで、乗ることが大変でした。お父さんが、座席に座っている人に、私のことを、「お願いします」と開いている窓から押し込んでくれて乗車。

福島の小高の駅のすぐそばで、兄さん、洋子姉さん、貴方、私、お母さんの5人、六畳一間での暮らしが始まりました。光子姉さんは航空廠へ行っていたので、東京に残っていました。

窮屈な日々だったことを思い出します。でも、貸して下さった籠(かご)屋さん方々には、感謝しなくてはいけませんね。

その後、小名浜の親戚の家に移りました。

太平洋と川と丘というのか、田んぼが広がっていて、すてきな「離れ」を借りて過ごすことが出来ました。

でも、八月九日、静かな村の私達の家に焼夷弾が落とされました。私達が住んでいた「離れ」と、本家の二軒だけが焼けました。

おじさんたちが、必死で着る物ほかを、家から出してくれようとしましたが、火のまわりが早く、すべてを失いました。

一斗缶(いっとかん)に一杯にあったお米が上まで墨のように真っ黒、貴方をおぶって、黒くなったお米を手のひらにのせ、じっと見ていたお母さんが今も忘れられません。

その後、川のそばの岩屋を貸して下さる人がいて、そこで生活、8月15日終戦をむかえました。

玉音放送 ―― 「皆、並びなさい」と、ラジオの前でお母さんが・・・

涙を流すこともなく、怒ったような顔をしていました。

いつもりんとしていて、立派な人でした。

その後、山岸さんというお宅の離れをお借りすることができ、ありがたいことでした。

12月の雪の降る中、お母さんは片手に傘、片手に少し荷物を・・・

貴方をしっかりとおぶって・・・私はとなりで歩いていました。

人通りもなく、今思うと小説の中のシーンのようです。

東京で着いたところが、京成電車の線路の土手(どて)下の家でした。

私達、両親に守られていたのですね。

登美子さん、行雄さん、ありがとうございました。

桜もすぐですね。

ではまた。」

2018年3月15日



by kenpou-dayori | 2018-03-17 20:11 | 戦争体験・戦跡・慰霊碑


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