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2019年12月16日(月)付『しんぶん赤旗』日刊紙3面より引用。
(栗原千鶴)
「アイゴー」。母親の嘆きが聞こえてきそうな彫刻でした。
目隠しをされ、後ろで手を縛られ処刑場の向かう朝鮮の青年の足に、民族衣装のチマチョゴリを着てすがりつく母、おびえた表情で青年に殴りかかろうとする日本兵―。
制作した彫刻家の金城実さんが、彫像の前で語り始めました。
説く努力をする(中見出し)
「朝鮮で『恨』は、『恨み』や『復讐』という意味ではない。日本語の『恨み』は憎しみ、裏切りなどの感情だが、『恨』は恨み向かうのではなく、歴史的な不当な仕打ち、不正議に対して、人々が奥深くのみ込んで、それを努力をするという意味が込められている。『恨』は哲学だ。」
同碑の建立を提唱した一人、姜仁昌(カン・インチャン)=故人=も被害者です。「恨」を晴らしたいと1991年、「慰安婦」被害者らとともに日本政府を相手どった「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」の原告となり、政府の責任を追及しました。
同碑の建立を提唱した一人、姜仁昌(カン・インチャン)=故人=も被害者です。「恨」を晴らしたいと1991年、「慰安婦」被害者らとともに日本政府を相手どった「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」の原告となり、政府の責任を追及しました。
訴状などによると、姜さんは44年6月、居住していた慶尚北道・英陽郡の警察署に連れていかれ、日本人の署長から「大邱で滑走路を建設する、3カ月で帰す」と説明されました。大邱で1週間訓練を受け、陸軍の特設水上勤務隊(水勤隊)に編成されました。
市民団体の調査によると、水勤隊は慶尚北道の青年約2800人が軍属として所属し、おもに沖縄本島や宮古島、慶良間諸島、石垣島に派遣されたことが分かっています。姜さんの部隊は、同年7月ごろ那覇に到着。船から弾薬や食料などの荷降ろしなど1日10時間働き、食事は粗末なものしか与えられませんでした。
43年の1月ごろ陸軍は、沖縄本島に上陸しようとする米軍を背後から攻撃するとして、特攻艦の運搬作業のため姜さんの部隊を慶良間諸島・阿嘉島に移動させます。しかし、米軍はまず3月26日に慶良間諸島を攻撃。その後、姜さんらは日本兵の目を盗み米軍の捕虜になります。翌年、解放され、帰国しました。
阿嘉島で姜さんは、食料を盗んだとされた朝鮮人の仲間12人が目の前で日本兵に銃殺され、その遺体を埋めさせられました。97年には現場を訪れましたが、遺骨を見つけ出すことはできませんでした。
姜さんは、日本政府から消息も知らされず、遺骨も戻ってこない遺族たちから、「遺骨でもあれば祭事(法事)もできるのに」と言われ、99年に日韓の市民運動と協力し、」英陽に「恨之碑」を建てました。その対となるのが、2006年に沖縄の人々とともに建立した読谷村の「恨之碑」です。
同年5月の除幕式に来日した姜さんは、「韓日が手を携えて、二度とこのような戦争の悲惨を起こしてはならない」と訴えました。また「日本政府は頭を下げて謝るべきだ」とも語っていました。しかし、その姿を見ることなく12年、91歳で亡くなりました。
「沖縄恨之碑の会」の共同代表で作家の安里英子さんは、碑文にこう記しました。
苦難を語り継ぐ
「あなたたちの辿った苦難を語り継ぎ、地球上から戦争と軍隊を根絶すること、この地に果てた兄妹の魂にわたしたちは誓う」
同会は16年、姜さんの証言集を一冊の本にまとめました。会の運営はカンパで行い、碑を守りながら被害の調査や機関紙の発行など活動を続けています。
会員の沖本富貴子さんは、「そもそも沖縄に朝鮮人が何人動員されたのか、だれが亡くなったのかなど、いまも明らかになっていません」と指摘します。
軍の資料や市民団体の調査によって、海軍飛行場建設の現場に労務動員された朝鮮人がいたことや、小さな島々も含め沖縄には145カ所の「慰安所」があり、沖縄の女性とともに朝鮮人の女性が性奴隷とされていたことが分かっています。しかし日本政府は被害の実態調査も、遺骨収集にも消極的です。
安里さんはいいます。
「こうした被害者をつくりだしたのは日本政府です。被害者や遺族の痛みを和らげる責任があります。日本政府は、遺族や被害者へ誠意を見せ、積極的に行動すべきです」
名文です。
入力していて、何度も涙を流しました。
そして、日本政府、安倍政権の無責任さに、怒りを覚えました。
この事実を一人でも多くの人に読んでいただきたいと思います。