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岩田行雄の憲法便り・日刊憲法新聞

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2020年 01月 16日

憲法便り#2974:中東戦争の危機が迫るいま、ぜひ読んで頂きたい『憲法便り』の「#804(2015年5月)」と「#2018(2017年5月)」を再録します!ソプラノ歌手市川恵美さんのお話です!

2020年1月16日(木)(憲法千話)

憲法便り#2974:中東戦争の危機が迫るいま、ぜひ読んで頂きたい『憲法便り』の「#804(2015年5月)」と「#2018(2017年5月)」を再録します!ソプラノ歌手市川恵美さんのお話です!

2015年5月27日(水)(憲法千話)
2015年5月29日(金)加筆:下線部分および『さとうきび畑』歌詞

憲法便り#804:ソプラノ歌手・市川恵美さんがコンサートで語ったご家族の戦争体験(5月29日補訂版)

昨日の『憲法便り#803』の中で少しふれましたが、『カント・アマービレ』Vol.8の中で語られた、市川恵美さんのご家族の戦争体験を紹介します。

2015年4月17日付の『憲法便り』では、次のように紹介していました。

昨年の8月1日に「フォークジャンボりー」に初参加で、「さとうきび畑」をフルバージョン(全11番)を歌って好評を博した市川恵美さん(ソプラノ)。
今回は、ご自分の名曲コンサートで、プログラムに初めて「さとうきび畑」を加えました。
実は、昨年のフォークジャンボリーの前日、喉が少し痛かったのですが、責任感から、練習をしたところ、
当日朝、殆ど声が出ない状態になってしまいました。
朝、電話を受けた私は、出演中止を勧めたのですが、出番が午後7時半頃なので、4時半に音合わせと、立ち位置の確認だけを済ませて、出番までホテルで体を休めて、出演をして下さいました。
ピアノ伴奏は、市川さんと長いお付き合いのある滝澤愛子さんで、とても息があっている。
進行役の私は、舞台の脇で、涙を拭きながら聞いていましたが、会場の皆さんも多くの方が、あるいは目頭を押さえ、あるいは、すすり泣きながら、聞いていました。
沖縄の闘いへの連帯、平和への願いを込めた美しい歌声の感動がよみがえります。
5月26日が楽しみです。
憲法便り#2974:中東戦争の危機が迫るいま、ぜひ読んで頂きたい『憲法便り』の「#804(2015年5月)」と「#2018(2017年5月)」を再録します!ソプラノ歌手市川恵美さんのお話です!_c0295254_207456.jpg

昨日、このプラグラムの4曲目、「さとうきび畑」を歌う前のトークで、恵美さんは、誰も予想しなかったご家族の戦争体験を話し始めた。
コンサートには、音楽を楽しむためにいろいろな方がお見えになるので、政治的な話には、踏み込んだことはなかった。
今回も、当初は、いつも通りのつもりでいた。

しかし、今年は戦後70年ということで様々な事が語られている。
戦争により、つらい体験をして戦後を生き抜いてきた母親が、この3月に93歳で世を去った。
いくつもの思いが去来する中で、恵美さんは、「さとうきび畑」という歌に寄せる思いを語った。

皆さんは、『さとうきび畑』という歌をお聞きになったことがあると思いますが、長い歌なので、なかないフルバージョンでお聞きななることはないと思います。そして、歌う機会もありません。
そこで、今日は、さとうきび畑をフルバージョンで聞いて頂くことにしました。
『さとうきび畑』を歌うことにしたのは、私に、次のような思いがあるからです。


父は、昭和19年に軍に召集され、山西省に派兵されました。その時、母の胎内には長兄の生命(いのち)が宿っていました。昭和20年8月に戦争は終わった筈なのに、父が所属する部隊は、中国国民党・蒋介石の軍隊と共に、中国共産党軍と闘うよう命じられました。敗戦後、何年間にもわたって、戦争を続けていた日本軍がいたことは、ほとんど知られていません。その後、日本軍は捕えられ、抑留されました。父が帰国できたのは、昭和29年、長兄は四年生になっていました。
この中国での出来事を扱った『蟻の兵隊』という映画が完成した時に、父の直属の部下であった方が「是非、見て頂きたい」と訪ねて見えたが、その2年前(平成15年)に父は他界しておりました(享年86歳)。今の平和な日本は、多くの方々の犠牲の上に成り立っています。」

この記事が不正確にならないようにするため、コンサートの翌日でお疲れのところへ、今日、二度にわたって電話をした。

お父さんは大正6年(1917)生まれ、お母さんは大正9年(1920)生まれ。
ふたりは、満州銀行で働いていて知り合い、結婚。
お父さんは、身体が弱く、徴兵検査では、不合格になっていた。この時、25歳。
だが、戦況が悪化して、不合格だった彼も召集された。
高学歴だったので、入隊後、少尉だった。
敗戦後は、生死不明の扱いを受け、『戦死公報』にも載ったという。
昭和29年に帰国。この時、昭和19年生まれの長兄は、小学校四年になっていた。
 お父さんは、部下を先に帰国させ、自分は後回しにしたという。
昭和30年、次兄誕生。しかし、食糧事情も悪く、病弱の為、15歳で夭逝。
お父さんが戦死、あるいは、お母さんが「戦死公報」を信じて再婚していたならば、恵美さんは、この世に生を受けていなかった。
池谷 薫著『蟻の兵隊 ― 日本兵2600人山西省残留の真相―』(新潮新書)の序章から、この事件の真相について概要を引用しておこう。
「1945(昭和20)年八月、ポツダム宣言を受諾した日本は連合国に対して無条件降伏した。これにより海外に派遣された帝国陸海軍の将兵たちは、すみやかに武装を解除され、家族の待つ祖国へ帰国することになった。しかし、中国山西省に駐屯していた北支那方面軍隷下の北支派遣軍第一軍の将兵2600人には、その喜びは無縁だった。
中国国民党系軍閥の部隊に編入された彼等は、戦後なおも三年八カ月にわたって中国共産党と戦い、550人余りが戦死した。生き残った将兵のうち700人以上が捕虜となり、長い抑留生活を強いられた。ようやく帰国することができたのは昭和30年前後になってからのことだった。
ところが、帰国した彼らを待ち受けていたのは逃亡兵の扱いだった。日本政府は、残留将兵たちが「自らの意思で残留し勝手に戦争をつづけた」とみなし、彼らが求める戦後補償を拒否しつづけたのである。(以下、略)

戦争の理不尽。安部首相の悪趣味で、繰り返してはならない。

なお、『カント・アマービレ』Vol.9は、11月25日(水
)の予定です
 


『さとうきび畑』

(作詞/作曲:寺島尚彦)


ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

今日も 見わたすかぎりに 緑の波が うねる

夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

むかし 海の向こうから いくさが やってきた

夏の ひざしの中で


ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

あの日 鉄の雨にうたれ 父は 死んでいった

夏の ひざしの中で


ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

そして 私の生れた日に いくさの 終わりがきた

夏の ひざしの中で


ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

風の音に とぎれて消える 母の 子守の歌

夏の ひざしの中で


ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

知らないはずの 父の手に だかれた夢を 見た

夏の ひざしの中で


ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

父の声を 探しながら たどる 畑の道

夏の ひざしの中で


ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

お父さんて 呼んでみたい お父さん どこにいるの

このまま 緑の波に おぼれてしまいそう

夏の ひざしの中で


ざわわ ざわわ ざわわ けれど さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

今日も 見わたすかぎりに 緑の波が うねる

夏の ひざしの中で


ざわわ ざわわ ざわわ 忘れられない 悲しみが

ざわわ ざわわ ざわわ 波のように 押し寄せる

風よ 悲しみの歌を 海に返してほしい

夏の ひざしの中で


ざわわ ざわわ ざわわ 風に 涙はかわいても

ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは 消えない


by kenpou-dayori | 2020-01-16 05:04 | お知らせ


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