2020年3月11日(水)(憲法千話)
憲法便り3124:リバイバル・シリーズ:『憲法便り#809:【わが家族の戦争体験】東京大空襲の記憶』
昨日、3月10日に再録したいと思っていたが、見つからなかった。
今日、ようやく見つけることが出来たので、一日遅れになったが、再録する。
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2015年5月28日(木)(憲法千話)
201年5月29日加筆
憲法便り#809:【わが家族の戦争体験】
昭和20年3月9日から10日にかけての東京大空襲の時、私たちは葛飾区渋江町に住んでいたので、荒川放水路のおかげで難を逃れた。
私は昭和17年9月2日生まれ、当時2歳半なので、その夜の記憶はないが、4歳年上の姉純子は、向島方面が真っ赤に焼けていて、一晩中、四つ木橋を渡って、多くの人たちが逃れてきたのを思えている。幸い生き延びることが出来た人たちは、渋江小学校の校舎に泊まっていたという。
その後、すぐに母方の親戚を頼って、福島県の小高に疎開した。姉の記憶では、母、二番目の姉、兄、純子、そして私が親戚のお世話になった。
小高でお世話になったところが狭かったため、しばらくして小名浜に移った。
だが、移転したことは、かえって、危険な場所に身を置くことになることを私たち家族は、知らなかっら。
軍事施設である通信塔がある小名浜へは、夜間に艦砲射撃があった。水平線の向こうから、45°くらいの角度で連続的に弾道が描かれた。私の視界の左側には、海岸の松ノ木の枝が、影絵のように浮かび上がった。
私が見た光景は、まるで、モノクロのアメリカ映画の一場面のように、脳裏に焼き付いている。
でも、小学校二年の時から、お小遣いを貯めては、一人で洋画を観に行っていた私は、それが現実に起こったことなのか、アメリカ映画の記憶なのか、長い間、疑問を抱いていた。
十年ほど前に、私よりもひとまわりほど年上の、小名浜出身の方に私の記憶を話すと、それは彼女の記憶と全く一致していた。それほど、強烈な印象なのである。
8月9日には、大規模な空襲があった。
その日のことを、私は『世論と新聞報道が平和憲法を誕生させた!』の「はじめに」の中に次のように書いている。
「私は、東京大空襲の直後に家族と共に福島に縁故疎開をし、一九四五年八月九日に、小名浜で米軍の焼夷弾の爆撃を受けた。命だけは助かったが、家も持ち物もすべて焼かれたという体験をしている。三歳の誕生日を迎える直前のことであったが、靑空と、藁ぶき屋根が燃えさかるオレンジ色の炎を、はっきりと記憶している。
その日、母が焼け跡で、米を入れてあったブリキの一斗缶の中を見て「みんな炭になっちゃった」とポツリと言って佇んでいたことを、小学一年だった姉はよく覚えている。その後、私たち家族は、アニメ映画『火垂るの墓』で描かれたような川辺の「岩屋」で暮らし、親戚や土地の人たちに助けられて生き永らえた。敗戦の年の十二月に東京に戻ると、皮肉なことに、疎開前に住んでいた借家は、焼けずに残っていた。私たち家族も戦争に翻弄されたが、幸いにして命を落とした者はなかった。」
父は東京に残っていたが、何をしていたのかは、聞いたこともないので、わからない。
私よりも13歳年上の長姉光子は、東京に残り、女子挺身隊として駆り出されていた。
勤務先は、航空廠の中島飛行機で、落下傘作りをしていた。
ある日のこと、京成電車にのって帰る途中、長時間労働で疲れた姉は、寝込んでしまった。
ハッとして、目を覚ますと、駅の名前が「たまばし」となっている。
知らない駅名だ。
どこまで来てしまったんだろうと、一瞬うろたえたが、落ち着いてみると、それは「しばまた(柴又)」が、右から左に書かれていたことが判った。
あの寅さんの映画で有名になった「しばまた」だが、当時は、地味な駅だった。
妹は、昭和21年生まれなので、戦争体験はない。
今、微かな記憶でも、直接体験を語れるのは、純子と私だけになってしまった。
私たちの家族は、幸いにして、戦死も、戦病死した者もいない。
だが、この戦争で多くの人たちが亡くなっている。
私の小学校時代の同級生N君は父が戦死して、長い間、親類の家に同居していた。早稲田大学時代の同級生I君は、彼が生まれる前に父が戦死したため、父に抱かれたことがない。
この友人たちの母親は「女手ひとつ」で子供を守り、育てた。
私がおはぎを買いに行く伊勢屋のご主人は、東京大空襲の際に、二歳年上の兄と逃げたが、兄は生死不明のまま現在に至っている。私の周辺には、この他にも辛い戦争体験を持つ人たちが数多くいる。
戦争は理不尽であること、戦争には絶対反対であることを、言い続けなければならないと思っている。
今日、午後六時半からの国会前集会に少しだけでも参加するつもりでいる。