憲法便り#3538:『被爆遺構―「語らぬ語り部」継ぐ人々;長崎』を紹介します!
2020年8月9日(日)付『しんぶん赤旗』日刊紙第3面を引用しました。
山王神社の二の鳥居。
強烈な爆風で片側の柱が倒壊、
笠石(かさいし)もねじ曲がりました。
柱に刻まれた奉納者の文字も熱線で溶け、
詠めません。
↓ 山王神社境内の被爆クスノキと舩本勝之助宮司。
↓ 高さ20㍍、幹回り8㍍の巨木は爆風に耐え、
↓ 町の復興のシンボルとなりました。
↓ ↓

←爆心地と遺構の位置(上から順)三菱兵器住吉トンネル工場、
浦上天主堂、爆心地(黒地に白抜き)、浦上天主堂遺壁、旧城山国民学校校舎、旧長崎医科大門柱、山王神社(二の鳥居、被爆クスノキ)
←浦上天主堂胃壁と内田武志さん。1958年に天主堂が解体された際、南側の側壁の一部が爆心地公園内に移設されました。焼け焦げた赤レンガが原爆の恐ろしさを現代に伝えます。

←浦上天主堂の旧鐘楼(手前)。当時、東洋一と呼ばれた教会は、原爆で倒壊し炎上。川の土手に落下した鐘楼の一つが、そのまま保存されています。建物にいた神父・信徒24人が亡くなりました。
(右)旧城山国民学校校舎。当時、教職員31人のうち28人、児童1500人のうち1400人が亡くなったと推定されています。1984年の新校舎建設で取り壊される予定でしたが、市民の運動で保存が実現しました。
(左)旧長崎医科大学(現長崎大学医学部)門柱。重さ約7トンの石造が、爆風でずれ、浮き上がりました。学生と大学関係者の死者は895人にのぼります。
二の鳥居と山王神社境内の被爆クスノキと舩本勝之助宮司の写真の下に
もう一点「加害示す」のタイトルで、小さな写真が掲載されています。
そこには、次の重要な説明が書かれています。
「三菱兵器住吉トンネル工場跡を点検する長崎市被爆継承課の人たち。
当時、トンネルでは魚雷が製作され、掘削には約1000人の朝鮮人
労働者が従事。被爆後は避難所として使われました。保存の声の高まりで
2010年に内部が見学できるよう整備されました。」
2020年8月9日(日)付『しんぶん赤旗』日刊紙第3面を引用しました。
【見出し】
被爆遺構―「語らぬ語り部」継ぐ人々;長崎
【記事】
一本足になった山王神社の「二の鳥居」や大きく傾いた旧長崎医科大学門柱…。75年前の今日、長崎市に投下された原爆の熱線と爆風のすさまじさを物語る以降の数々は、平和を願う市民が守り、受け継いできたものでした。 (写真・記事 佐藤研二)
爆心地から約800メートルの至近距離で被爆した山王神社(坂本町)。当時、秒速200メートルもの爆風で、「二の鳥居」の北側の柱は倒壊し、境内に並ぶ2本のクスノキも幹から裂けて黒焦げとなりました。
「なんとか枯れずに、このままでいてほしい」。宮司の舩本勝之助さん(78)は静かに巨木を見上げます。
町内で世帯全員が無事だったのは、舩本さん一家だけでした。「当時私は3歳。たまたま防空壕に残っていて助かりました」。戦後、舩本は二の鳥居とともに、よみがえったクスノキを「人々に希望を与える」象徴として、守り続けました。
樹齢600年の老木を維持するためにかかる多額の治療費は、地域住民が「守る会」をつくって募金集めに奔走。長崎出身で被爆2世の歌手・福山雅治さんもファンに保存を訴え、2018年に長崎市は被爆樹木の保存費にあてる「クスノキ募金」を設立しました。
舩本さんは「私はクスノキや鳥居を『語らない語り部』と言っています。原爆の恐ろしさを、見る人それぞれが自由に感じ取ってほし」と言います。
都市開発や遺構の劣化が進むなか、市は1990年代に137の建物や樹木を被爆遺構の指定。2016年には二の鳥居はじめ浦上天主堂旧鐘楼、旧長崎医科大学門柱、旧城山国民学校校舎が国の史跡に指定されました。
市内の遺構や原爆資料館で15年間ガイドを務めてきた内田武志さん(75)は「国や自治体の支援は大事ですが、市民の『残したい』という思いや運動は欠かせません」と保存の歴史を振り返ります。
浦上天主堂は原爆ドームと肩を並べる遺構として、市民や議会あげた保存運動が進められましたが、1958年に建物は解体。一方、旧城山国民学校校舎は保護者や地域住民らの運動が実り、99年には児童の発案で被爆校舎が平和祈念館として保存・公開されています。
「長崎には、多くの朝鮮人や中国人が犠牲となった長崎刑務所浦上刑務支所跡や三菱兵器住吉トンネル工事跡など“加害”の歴史を示す遺構もあります。それぞれに刻まれた物語を、ぜひ見て、感じてほしいですね」