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岩田行雄の憲法便り・日刊憲法新聞

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2020年 08月 19日

憲法便り#3565:第二次世界大戦期・リバイバルシリーズ⑦;「ナチスの憲法の完成(=ワイマール憲法の形骸化)」の過程:連載第2回(原注編)!

2020年8月19日(水)(憲法千話)

憲法便り#3565:第二次世界大戦期・リバイバルシリーズ⑦;「ナチスの憲法の完成(=ワイマール憲法の形骸化)」の過程:連載第2回(原注編)!

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【再録】

2020年6月16日(火)(憲法千話)
憲法便り#3380「ナチスの憲法の完成(=ワイマール憲法の形骸化)」の過程:連載第2回(原注編)!

《ナチスの憲法への原注》

(注1)ナチスは、1933年3月5日の総選挙に際して、テロルの行動に出、また政治集会・政治団体等の弾圧を行った。そして、2月27日夜のライヒ議会議事堂放火事件の翌朝に、本令が公布されたのである。したがって、本令は、「ライヒ議会炎上命令」(Reichstagsbrandverordnung)と呼ばれることがある。
 本令は、形式的にはヴァイマル憲法第48条第2項にもとづく大統領の非常措置であるが、実質的には、このような制定過程を反映した内容となっている。まず本令は、ヴァイマル憲法第48条第2項に掲げられた基本権の全部を停止している(§1)。そして、この停止は「当分の間」なされることとされていたが(同条)、本令は1945年まで効力を失うことはなかったのである。また本令§5は、刑法の定める刑罰に変更を加えている。さらに、ヴァイマル憲法第48条第5項は同条の措置に関する詳細を法律で定めることとしていたが、その法律の制定のないままに本令が発布されている。
 (岩田注)以上は、ナチス憲法の始まりの部分です。

(注2)本法は、憲法改正法律(Verfassungsaenderndes Gesetz:ヴァイマル憲法第76条)として制定されたものである。ナチスは、3月5日の総選挙に際して、暴力的干渉を行ったにもかかわらず、絶対多数を得られなかったため、憲法改正法律成立の要件(3分の2の出席、その3分の2の賛成)を充たすべく、さらに暴力・詐術等を用い、本法を成立させた。
 本法は、「授権法」(Ermaechtigungsgesete)と称されるが、その内容に即して、「全権授権法」とか「全権委任法」とか訳されている。それは、本法が、第1条において政府も法律を制定し得ることを定めて近代立憲主義を否定し、第2条において政府の法律が憲法に違反し得ることをこととしたからである。
 本法は、直接には、ライヒの立法について定めたヴァイマル憲法第68条乃至77条(同憲法第5章〔下記岩田注1参照のこと〕。ただし第71条を除く)を事実上廃止したこととなり、これ以降、議会による立法は(たとえば1935年9月15日の「ライヒ公民法」(Reichsbuergergesetz,RGB1.IS.1146)や本法の期限延長法(注(5)参照)のような)若干の例外を除いて、ほとんど政府による立法によって取って代られることとなった。しかし、実際には、本法第2条により、ヴァイマル憲法全体を葬り去ったものとなった。本法の内容からして、本法はナチス国家の「暫定的憲法」(Vorlaeufige Verfassung)と呼ばれることがある。なお、注(3)参照)
 また本法は、限時法とされていたが(第5条)、結局、1945年まで効力を有し続けたのである。本法のその後の経緯については、後注(5)参照
注3)本条第2項のうち、「ライヒ参議院それ自体を対象としない限り」との背いる制定法律の限界を定めた文言は、1934年2月14日の「ライヒ参議院の廃止に関する法律」(本書171頁)によって、意味を失った。また本条に定められたその他の限界(ライヒ議会の制度および大統領の権利)は、1934年1月30日の「ライヒの改造に関する法律」(本書170頁)第4条によりその意味を失うにいたった。

注4)本条によりヴァイマル憲法第45条第3項は変更された。

注5)本法はその後、1937年1月30日の議会による改正法(RGB1.1937 I S.105)により第1回の期限延長がなされた。これによると、

 「ライヒ議会は全員一致して次の法律を議決し、ここにこれを公布する。

1箇条のみ

(1)1933年3月24日の民族とライヒの危機除去のための法律(RGB1.1937 I S.141)の有効期限は、1941年4月1日まで、これを延長する。

(2)1934年1月30日のライヒ改造法(RGB1.1937 I S.75)は、〔これによって〕変更されるものではない。」

   とあり、「総統でありライヒ総理大臣たるアードルフ・ヒトラー」の署名がある。

    続いて1939年1月30日にもライヒ議会による同趣旨の改正がなされ(RGB1.1937 I S.95)、これによって本法はさらに1943年5月10日まで効力が延長された。

    そして最後に、この期限が切れる1943年5月10日当日には、「政府立法に関する総統の布告」(Erla ß des Führers über die Regierungsgesetzgebung)として、次のような布告文が出された(RGB1. I 295)。その文言は次のとおり。

   「1933年3月24日の法律(……)が形式上は1943年5月10日に期限切れになることに鑑み、私は次のように決定する。

    ライヒ政府は、1933年3月24日の法律によって委任された権限を、今後も引き続き行使する。

    私は、ライヒ政府のこれらの権限についての大ドイツ・ライヒ議会による確認を得ることを保留する。」


〔岩田注1〕ヴァイマル憲法第5章の構成は次の通り。(条文は省略)
  第5章 ライヒの立法
   第68条〔法律案の提出〕
   第69条〔ライヒ政府の法律案提出〕
   第70条〔法律の認証、公布〕
   第71条〔ライヒ法律の発効〕
   第72条〔公布の延期〕
   第73条〔国民投票〕
   第74条〔ライヒ参議院の異議権〕
   第75条〔国民投票による無効〕
   第76条〔憲法改正の方法〕
   第77条〔ライヒ法律執行のための行政規則〕

注6)本法は、第一均制化法と称されるっもので、内容的には、民族および国家の危難を除去するための法律(全権授権法)の趣旨をラントの及ぼしたものである。なお、本法はヴァイマル憲法(第6条から第19条までを参照)のライヒとラントの関係を変更するものである。

注7)§1第2項は、のちに1935年1月30日の「ライヒ総督法」(本書160頁注(11)参照)の第6条および第10条により変更された。

注8§2および§3は、のちに「ライヒ改造法」(本書170頁)により廃止された。

注9)この節の規定は、のちに「ライヒ改造法」(本書170頁)第1条によって実質上廃止された。以下では§4および§8~§11のみを訳出した。

注10)ここにいう「市議会」(Bürgerchaft)はハンザ同盟都市の議会のことである。

注11)本法は、第二均制化法と称されるものであるが、内容的にみて「ライヒ総督法」と呼ばれる。本法も上の「第一均制化法律」と同様に、ヴァイマル憲法の第5条以下を変更するものである。なお本法はその後、1933年425日以下、合計3回の修正(これらはいずれも政府制定の法律であり、ここでは最終段階の改正後の条文を掲げた)を経て、1935年1月30日制定の12ヶ条からなる「ライヒ総督法」(RGB1.1935 I S.65)という名称の新たな法律によって廃止された(とくに同法第11条参照)。

注12)本書157頁。

注13)§1第2項は、1933年5月26日の第二改正法律(RGB1.IS.293)で挿入されたものであり、この改正によって、元来の第2項が第3項に、また第3項が第4項に繰り下がった。

注14)§3第1項は、1933年10月14日の第3回改正法律(RGB1.IS.736)で修正されたもので、元来の規定には、「ライヒ総督は、ラント議会の一会期の期間について任命される」という第1文があり、上記第1項はその第2文であった。

注15)§5第1項は1933年4月26日の第1回改正法律(RGB1.IS.225)によって変更されたもので、元来の規定は次のような文言であった。

    「プロイセンにおいては、ライヒ総理大臣が§1に掲げる権利を行使する。ライヒと総理大臣は、§1第1項3号から第5号までに掲げる権利をラント政府に委任することができる。」

注16)本法は、官吏制度のナチス的な均制化を図ったものである。この法律は、ナチス政権の本格的な反ユダヤ人・反マルクス主義政策立法であり、本法(とくに§3)によって数多くのユダヤ人学者(法学者では、たとえば、ハンス・ケルゼン、フーゴ・ジンツハイマー、ヘルマン・カントーロヴィッチ、ゲルハルト・ライプホルツなど)が大学教授としての地位を逐われた。本法はその後、1933年から1934年にかけて合計6回の改正がなされている。以下では最終段階での文言の部分訳とし、改正条項も、訳出した部分ないし重要と思われる点についてのみ注記する。なおヴァイマル憲法109条第2項を参照。

注17)§2は、1933年9月22日の第3回改正法律(RGB1.IS.655)で第3項が変更され、さらに第5項が付加された(内容は略)。

注18)§2aは1933年7月20日の第2回改正法律(RGB1.IS.518)により挿入されたもの(§7第2項も参照)。また1933年9月22日の第3回改正法律(RGB1.IS.655)で、第3項(内容は略)も変更されている。

注19)§3第2項第2文以下は、1933年9月22日の第3回改正法律(RGB1.IS.655)で変更されたもので、元来の規定では「その他の例外は、ライヒ内務大臣が管轄の専門大臣と協力して、またラントの最高官庁が外国にいる官吏について、これを認めることができる」という文言であった。

注20)§4第2項は、1933年9月22日の第3回改正法律(RGB1.IS.655)で付加されたもので、元来の規程にはなかった規定である。

注21)§6の元来の規程は単に、「行政の簡素化のために、官吏は、その者がまだ職務能力がないわけではない場合であっても、これを退職させることができる。官吏がこの理由によって退職せしめられるときは、その地位は、これを再び有することは許されない」という文言であったが、1933年6月23日の第1回改正法律(RGB1.IS.389)で追加・変更なされて、これが第1項となり、さらに新たな第2項(内容は略)が追加された。

注22)§7第1項は、1933年9月22日の第3回改正法律(RGB1.IS.655)で変更されたもので、元来は、「官職よりの免職、他の官職への転任および退官は、ライヒもしくはラントの最高官庁により宣告され、その宣告は最終のものとして、訴訟手続きを排除される。」という文言であった。

注23)§7第2項は、1933年6月23日の第1回改正法律(RGB1.IS.389)、1933年7月20日の第2回改正法律(RGB1.IS.518)、1933年9月22日の第3回改正法律(RGB1.IS.655)、134322日の第4回改正法律(RGB1.IS.203)および1934年9月26日の第6回改正法律(RGB1.IS.845)の各改正法律で変更されたもので、元来の文言は、「§2から§6までの規程による処分は、遅くとも1933年9月30日までに、これを送達しなければならない。この期間は、管轄のライヒまたはラントの最高官庁が、その管理の下で本法の措置が遂行された旨を宣言するときは、ライヒ内務大臣との協議により、これを短縮することができる」であった。第2項第2文(「ある官吏について」以下)は第3回改正で挿入されたものであり、また第3項は第4回改正で付加されたもの(その後さらに第6回改正で変更された)である。なお第1文は上記各改正ごとに変更されているが、そのうち「新たなドイツ官吏法の施行までに」の文言は第6回改正によるものである。

注24)§7aは1934年7月11日の第5回法律改正(RGB1.IS.604)で挿入されたもの(内容は略)。

注25)訳出した§9から§13までの規定のうち、「退職処分を受けた官吏への年金支給のための勤務年数の計算方式」等に関する§9第5項および§10第1項の規定は、第3回法律改正(RGB1.IS.655)で、また「1918年11月9日以降の任命された国務大臣」の給与に関する§12第1項および第4項の規定については、その後、1933年6月23日の第1回改正法律(RGB1.IS.389)で、それぞれ変更された(いずれも内容は略)。

注26)§14第1項末文の年月日は1933年9月22日の第3回改正法律(RGB1.IS.655)および134322日の第4回改正法律(RGB1.IS.203)で変更されたもので、元来の規定では「1933年12月31日」となっていた。

注27)この法律はヴァイマル憲法第73条から第76条までの規定する国民投票を変更するものである。

注28)いわゆる「授権法」あるいは「全権委任法」(下記の二番目の法律)のこと。

注29)ヒトラーは、全権授権法制定後、6月22日に社会民主党を禁止したが、本法でもって一党独裁制を確立しようとしたのである。

注30)基本法第21条(本書218頁)参照。

注31)本法は、党と国家の二元性を除去し、両者の一元化をはかったものである。

注32)§2は1934年7月3日の改正法律(RGB1.1934 I S.529)で変更されたもので、当初の規定では、「党および突撃隊のポストと官公庁との緊密な協働を保障するために、総統の代理人および突撃隊幕僚長は、ライヒ政府の構成員となる」という文言であった。

注33)すでに前掲の第一均制化法によってラント政府がラント法律制定権を有することとされ、また第二均制化法によって実質的に連邦制が崩されていたが、本法は、ラント議会を廃止し(第1条)、ラント高権を奪い(第2条第1項)、ラント政府のライヒ政府への従属を定めた(第2条第2項)。この法律によって、ヴァイマル憲法の連邦制的な国家構造(第5条から第19条まで)が廃止された。

注34)本条による命令は、1934年2月2日(第一命令、1月30日発効)および同年11月27日(第二命令)に制定されている。

注35)本法は、ライヒ参議院(ヴァイマル憲法第一編第4章、第60条から第67条まで)を明文で廃止したものであり、全権授権法にも抵触するものである。

注36)この法律は正式には「ドイツ・ライヒ国家元首に関する法律」といい、ヴァイマル憲法第1編第3章(第41条から第59条まで)を変更するものであり、これにより「ライヒ大統領」の名称および権限は、「ライヒ総理大臣」たる総統ヒトラーによって取って代られることとなった。

注37)大統領ヒンデンブルクは、1934年8月2日逝去。



by kenpou-dayori | 2020-08-19 20:19 | 第二次世界大戦期・リバイバルシリーズ


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