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岩田行雄の憲法便り・日刊憲法新聞

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2020年 08月 25日

憲法便り#3578:「証言・戦争 終戦後もソ連軍と交戦 不当に抑留 生きて帰らねば」;「寒さ・飢餓・チフスで次々死亡 重労働を強制 『ソ連、許しがたい存在』」!

2020年8月25日(火)(憲法千話)
憲法便り#3578:「証言・戦争 終戦後もソ連軍と交戦 不当に抑留 生きて帰らねば」;「寒さ・飢餓・チフスで次々死亡 重労働を強制 『ソ連、許しがたい存在』」!

2020年8月15日(土)付『しんぶん赤旗』第1面及び第10面を引用しました。

憲法便り#3578:「証言・戦争 終戦後もソ連軍と交戦 不当に抑留 生きて帰らねば」;「寒さ・飢餓・チフスで次々死亡 重労働を強制 『ソ連、許しがたい存在』」!_c0295254_18512428.jpg






































【見出し】
「反戦を信条に」「証言・戦争 終戦後もソ連軍と交戦 不当に抑留 生きて帰らねば」「写真説明=中国・黒河のアムール河畔で。対岸は捕虜収容所があったブラゴエシチエンスク=2012年6月25日(石井さん提供)」「寒さ・飢餓・チフスで次々死亡 重労働を強制 『ソ連、許しがたい存在』」東京・東久留米市在住の石井孫三郎さん(94歳)の証言です。
 零下40度。凍てつくアムール川。ぶるぶる足の震えが止まらず、足踏みを止められないほどの寒さ・・・。極寒の地シベリア。敗戦後、旧日本軍兵士は、当時のソ連から、この地に抑留され過酷な労働を強いられました。収容所では、栄養失調、寒さ、発疹チフスがまん延。一冬に半数近くが亡くなり、日本の土を踏むことが出来ませんでした。
 反戦を信条に(中見出し)
東京都東久留米市の石井孫三郎さん(94)は旧「満州」(中国東北部)で、ソ連軍と戦った体験を直接語れる数少ない存在です。「二度と戦争を繰り返してはならない」を自らの「信条」として生きてきました。
 石井さんは北海道小樽市生まれ。1942年、17歳で旧「満州」の製糖会社に就職。敗色濃厚だった1945年5月。ソ連との国境の町璦琿(アイグン)にあった、関東軍第6国境守備隊第612部隊に招集されました。軍隊生活は、軍事訓練とソ連軍戦車を落とす壕を掘る作業でした。

 1945年8月9日、ソ連軍が満州に侵攻。天皇が敗戦を宣言した翌日の16日、戦闘になりました。ピュン、ピュンと弾丸が飛び交う中、機関銃の弾運びが担当でした。ソ連軍戦闘機の機銃掃射が、パパパパーと砂ぼこりをあげるなか手も足も出ず、「タコツボ」(個人用の小さな塹壕)に避難。部隊には反撃する大砲もありませんでした。「生きた気持ちはしなかった」といいます。

21日、全員に集合がかかり、旅団長から初めて戦争が終わったことが告げられました。敗戦から1週間近く、戦闘状態のままでした。石井さんは「旅団長は停戦と言った。敗戦とはいわなかった。それを聞いて『死ななくて良かった。どうしても生きて国へ帰らなければ』という気持ちが湧いた。どの兵士も同じ心境でした。」と声に力が入ります。

武装解除され、ソ連軍に投降しました。辺りは日本兵や軍馬の死骸が散らばり、炎天下にものすごい死臭を放っていました。敵戦車に突っ込んだ兵士の死体が散乱していました。「私は戦争のむごたらしさを嫌というほど脳裏に焼き付けられました」と話します。

シベリア行き(中見出し)

ソ連兵は日本兵の腕をまくり上げ、腕時計を取り上げました。石井さんたち捕虜部隊は「マンドリン」(自動小銃)を持ったソ連兵に、隊列の前後左右を取り囲まれて北に向かい行進しました。

黒河の町を通り抜け、国境のアムール川(黒竜江)に到着。はしけで対岸のソ連領ブラゴエシチェンスクに渡りました。

ソ連軍による日本兵士のシベリア抑留は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証した、ポツダム宣言に反する不当なものでした。(遠藤寿人)(10面に続く)


第10面

憲法便り#3578:「証言・戦争 終戦後もソ連軍と交戦 不当に抑留 生きて帰らねば」;「寒さ・飢餓・チフスで次々死亡 重労働を強制 『ソ連、許しがたい存在』」!_c0295254_18533941.jpg























(1面の続き)

【見出し】

「寒さ・飢餓・チフスで次々死亡 重労働を強制 『ソ連、許しがたい存在』」

【本文の続き】

「俺もなんとか死なずにすんだ」・・・。石井孫三郎さん(94)は、捕虜収容所のあった対岸のロシア領を見ながら、しみじみ思いました。2012年6月、中国を旅行、シベリアへ移送される際、渡ったアムール川のほとり、黒河(こっか)を訪ねた時の感慨です。

 鉄条網が張り巡らされた、大きな2階建ての建物で、シベリアでの収容所生活が始まりました。収容された日本軍兵士らは約800人。板の間に毛布を敷いて着のみ着のままの雑魚寝でした。朝起きたら死んでいる人、脱走を試み殺された人もいました。

 重労働を強制(中見出し)

 朝暗いうちから夜遅くまで、ソ連兵監視のもと強制重労働に駆り出されました。中国側から川を渡って運ばれてくる、穀物の麻袋や燃料ドラム缶陸揚げ作業です。

 シベリアの冬は零下40度以下にもなります。敗戦時の夏服と防寒用の外套(がいとう)や帽子、靴だけで、北海道生まれの石井さんでも耐えるのは至難のわざでした。かつて住んでいた中国のハルピンは零下30度程度でした。それより寒い、立っていられない、まつ毛まで凍りつく寒さでした。

 食べ物は飯ごうのふたに、うすいアワのおかゆだけ。昼は硬い「レンガ」と呼ばれた黒パン1枚。おかずはなし。月に1回シャワーに入れましたが、シラミの攻撃に遭いました。

 ”鬼軍曹”だった班長が、敗戦を機に「おまえたち、絶対に死ぬな」とがらりと変わりました。何でも食べられるものを持ち帰ろうと班長が提案。作業中、手に入れたアワや高粱(こうりゃん)、大豆、コメなどを、上着やズボンのポケットに入れて持ち帰りました。

 抑留生活が始まって1カ月頃から死者が出始めました。1946年1月後半、収容所で発疹チフスが猛威を振いました。毎日、何人もの死者が出ました。石井さんもかかり、高熱に2週間ほどうなされ、意識もうろうとした状態でした。薬もなく、同僚からのおかゆで一命を取り留めました。チフスで頭が狂い、走ってバタッと倒れて死んだ人もいました。

 2月になると凍土が硬く埋葬用の穴を掘ることも不可能でした。収容所の馬小屋に凍りついた遺体がうずたかく積み上げられていました。ところが一夜にして死体の山がなくなりました。アムール川の氷を割って「水葬」したと聞きました。

 石井さんは1946年2月、中国に引き渡され何年も強制留用(りゅうよう)され、炭鉱で働かされました。その後1960年になって18年ぶりに帰国。和服姿のお母さんが神戸港に迎えに来てくれ、「石井孫三郎おりますか」と叫び再会。抱き合って喜んだことを鮮明に覚えています。

 石井さんは「生き延びた命をみんなのために役立てたい」との思いから日本共産党に入党。同郷のプロレタリア作家小林多喜二の生き方に影響を受けました。

 特派員として(中見出し)

 1967年、党本部から旧チョコスロバキアのプラハにあった『平和と社会主義の諸問題』誌の編集局に派遣されました。1968年、チェコ事件「プラハの春」が起きました。引き続き「赤旗」チェコ常駐特派員として取材活動を続けました。

 チェコ事件は、ソ連と東欧4カ国の軍隊がチェコの主権と独立をおかし侵入。政府・党の指導部を逮捕して、全土を占領した事件。日本共産党はソ連の大国主義に断固抗議、不当な干渉の即時中止と軍隊の即時撤退を要求しました。

 石井さんは、自主独立の党の立場で真実を伝える記事を堂々と書き続けました。「ソ連の内部資料によるとソ連はわが党の抗議への対策を、書記局会議で正式に決定していました。ソ連の言論弾圧で見張られ、一人で外を歩けない時もあった。にらまれてね。チェコの外務省新聞局から呼び出されて警告を受けたこともあったよ」と振り返り「ソ連は許しがたい存在」とゆっくりと重々しく言葉を吐きました。

 石井さんは訴えます。「いまでも戦争映画を見るのは嫌です。人殺しの映画も嫌です。いま戦争を放棄した日本国憲法9条を葬り去り、日本を戦争をする国にしようとする動きが、一段と強められていますが、絶対に許すことはできません」


































by kenpou-dayori | 2020-08-25 15:26 | 忘れてはならない事実の記録シリーズ


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