2020年8月29日(土)(憲法千話)
憲法便り#3583:証言・戦争『特高の拷問から逃れて 「満州」引き揚げ船、生還2割」*岡山県倉敷市在住の朝倉彰子さん(79歳)の証言』!
2020年8月28日(金)付『しんぶん赤旗』を引用しました。
【見出し】
証言・戦争 特高の拷問から逃れて 「満州」引き揚げ船、生還2割」*岡山県倉敷市在住の朝倉彰子さん(79歳)の証言。
【記事】
「『ひたひた』、次第に近づく『ザクザク』という音は、特高警察の足音ではなかったか」。朝倉彰子さん(79)=岡山県倉敷市=は耳に残る記憶を思い起こします。
日本共産党員の父、山本鶴男さんと日本労働者協議会の活動家だった母、みづほさんは当時から戦争に反対し、治安維持法によって幾度も逮捕されました。母は両手を縛られ天井からつり下げられ、父は殴る、蹴るのうえ、そろばんの上に正座させられ、全部の指の間に鉛筆を挟んで手を締め付けられる拷問を受けました。
敗戦後も滞在(中見出し)
迫害を逃れ、一家は母の弟を頼って「満州」(中国東北部)に渡りました。1943年11月、父は叔父が経営する奉天のせっけん工場で働き、母は撫順(ぶじゅん)市郊外で中国人苦力(クーリー)を管理する仕事に就きました。朝倉さんは牧場の牛や馬、豚、アヒル、ロバ、ラバを眺め、大好きな牛乳を食事代わりに飲んで幸せな時を過ごしました。
1945年5月に父が召集され、残された母と7人の子どもで8月の敗戦を迎えました。
日本政府が「満州」の日本人を帰国させる措置を取らなかったため、朝倉さんたちは敗戦後も11カ月間、転居した撫順市にとどまりました。
一家が撫順市を出発し、列車に乗り込めたのは1946年7月。持ち物が制限される中、母は牧場の豚肉の干物をリュックに入れ、着物をほどいて持ち帰りが許されていた布団に仕立てました。列車は貨物用で屋根がなく、夏の日差しや雨にさらされる帰国の旅でした。
葫蘆(ころ)島からの乗船を待っていた錦州の収容所では、飢えや病気で多くの人が亡くなりました。大きな穴を掘り、遺体を投げ込む仕事に兄も参加させられました。朝倉さんにはこの収容所で忘れられない出来事があります。朝倉さんの隣で同じ年頃の姉妹が見守る中、母親が力尽きたことです。生きている間から体にウジがたかり、だんだんと死んでいきました。泣いていた姉妹がその後どうなったのかわかりません。
平和憲法守る(中見出し)
一家は収容所を出て葫蘆(ころ)島から病院船に乗りました。弟の高熱が続き、妹が栄養失調だったためです。一家は船底の遺体安置所近くに雑居し、運ばれる遺体がすぐそばを行ったり来たりしました。いったん安置し、しばらくすると甲板から海に捨てていたのです。朝倉さんは「その臭いが忘れられない」といいます。現在の福岡県博多港沖で2週間ほど停泊し、その間に多くの人が亡くなりました。定員1300人の船でしたが、上陸したときは2割ほどしか生きていませんでした。
母と子ども全員が生還し、翌年1月に父が抑留されていたシベリアから戻り家屋がそろっても、生活は厳しいものでした。家業の養鶏は採算が合わず、一家は鳥のエサの葉っぱの残りを炒めて食べました。布団にして持ち帰った着物も、縫い直して売りました。
父は戦後、党活動を再開します。朝倉さんは小学生の頃、警官から必死に逃げる夢をよく見たと言います。この体験があるため朝倉さんはいま「日本の戦争を止められなかったのは、反対した人を弾圧したから。二度と治安維持法の時代に戻してはいけない」と訴えています。「あの戦争を少しでも記憶している最後の世代として、平和憲法を守りぬきたい」(小梶花恵)