2020年8月31日(月)(憲法千話)
憲法便り#3586:「証言・戦争 国立図書館も軍に協力 略奪本を所蔵・特高の捜査にも」*元国立図書館員・山崎元さん(91歳)の証言!
【見出し】
「証言・戦争 国立図書館も軍に協力 略奪本を所蔵・特高の捜査にも」
【記事】
戦前の公立図書館は、戦争協力を余儀なくされた…。国内唯一の国立図書館だった帝国図書館=東京・上野では、日本軍が占領した中国はじめアジア各国から略奪した10万点以上の出版物や情報資料などが運び込まれ、また特別特高警察(特高)による閲覧者の思想調査に協力していました。
東京都杉並区の山崎元さん(91歳)は、旧小石川区(現文京区)で明治から続くウナギ屋だった実家が閉業したため、小学校卒業と同時に家計をささえなくてはいけませんでした。
夜間中学校に通いながら中学校の理科実験助手として働いていましたが、図書館職員の募集案内を見て現職。1944年8月、当時14歳で帝国図書館に採用されました。
「立場は役人の一番下っ端の“雇い”で日給は80銭だったけど、もともと本が好きで当時約100万冊を所蔵する帝国図書館の仕事に魅力を感じた」
館内は、書庫の窓が割れても電球が切れても修理されないまま。暗くて雨風が入り込むため湿気が高く、本はカビだらけでした。働く多くは少年少女で、食べ物がない苦しい生活も相まってか結核で倒れる人も少なくなく、亡くなった仲間もいました。
“開かずの間”(中見出し)
戦時中でも図書館利用者は1日に300人ほどいました。閲覧室は男女で仕切られ、収容できる広さは男性は約300人に対し女性は60人ほど。食堂の利用も男女別でした。
山崎さんの主な仕事は、閲覧者への本の提供や空襲から本を守るための疎開準備などでした。すでに奈良時代からの貴重な本は長野県の刑務所や学校に疎開。さらに1冊でも多く、と隣の国立博物館の表慶館の地下室に移送しました。
帝国図書館の一室“開かずの間”には日本軍がアジア諸国から略奪した本が所蔵され職員も入れません。
「秘密裏に運び込まれた本は約10万冊。中国をはじめ香港やインドネシア、シンガポール、フィリピンなどの本もあった。現地の言葉で書かれた地誌や歴史に関する本が多く、資源獲得の戦争目的から相手国の実情を知るためだったのではないか」と山崎さん。
戦後、GHQ(連合国軍総司令部)から本の返還が命ぜられました。しかし東南アジア諸国の本は現地には返還されず、オランダやイギリスなど当時、植民地支配していた国に送られました。
特高が週に1回、図書館に来て閲覧者の入館書チェックをしていました。入館書は図書館を利用する際に書く書類で、名前や住所の他に閲覧する本を記載しました。特高は応接室に陣取って、1週間分の何千枚もの書類を一枚一枚点検し、読んだ本のタイトルだけで閲覧者の思想傾向を調べていたのです。
帝国図書館は戦時中一日も休むことなく、1945年3月10日未明に発生した東京大空襲の日も開館しました。朝、出勤した山崎さんは上野公園にたくさんの遺体がトラックで次々に運び込まれていた光景を目にしました。
黒こげになった死体もありましたが、多くは軍服姿の男性やモンペをはいた女性など、酸欠や熱風が原因で死んだのか血の気は失っているものの、まるで寝ているかのように横たわり、ずらりと並んでいました。
遺体はどんどん増えました。昼休みにもう一度様子を見に行くと、お母さんと子どもに遺体の傍らに朝はなかった人形が置いてあるのに気づきました。
「どっと悲しみが湧いてきて涙がとまらなかった。今でも生身の遺体や誰かが置いた人形の姿、供えた人の気持ち、死ぬまで忘れられないし、忘れちゃいけない」
軍国少年だった山崎さん。戦後の平和と民主主義を求め心の原点になりました。
平和史築こう(中見出し)
戦後、山崎さんは引き続き国立国会図書館員として1991年まで勤務しました。「戦後の図書館は、文化を通じて平和と民主主義に貢献し真理探究の道をみんなで歩んでいこうという機運に満ちあふれていた」
戦争を知らない世代に山崎さんはこう思いを込めます。「歴史を継承するだけでなく、新しい世代の人がどんどん新発見や発掘を含めて挑戦し、戦争史を学んでゆるがぬ平和史をつくってほしい」(原千卓)