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岩田行雄の憲法便り・日刊憲法新聞

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2020年 09月 14日

憲法便り#3619:自民党総裁選の公開討論において、3候補がいずれも「国の形」に言及していることは、非常に危険である!

2020年9月14日(月)(憲法千話)
憲法便り#3619:自民党総裁選の公開討論において、3候補がいずれも「国の形」に言及していることは、非常に危険である!

「国」、「国家」を論じている本質は、平和憲法を変えることを意味している。
日本国憲法 「第四章 国会」は次にように定めている。
 第四十一条 国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。
しかし、呪文のような「国」、「国家」、「国の形」という言葉によって、 国会での民主的な論議を形骸化し、国民全体を一定方向に走らせる危険がある。
この論議を見ていると、新たな戦前が始まったと感じる。
わたしが真っ先に思い出すのは、戦前の「六巨頭会談(最高戦争指導会議)」である。
この危険な状況を打破するため、以下に、『憲法便り#203』を再録する。

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【再録】
2013年8月15日(憲法千話)
憲法便り#203:「六巨頭会談(最高戦争指導会議)」の無責任な論議の実態!
ドイツは、1945年5月7日に無条件降伏しました。
翌5月8日にはトルーマン大統領が日本に対して降伏勧告を行っています。
5月9日、これに対して、日本政府は「戦争遂行決意不変」の声明を発します。
しかし、その一方で、日本は新たな動きをします。

5月11日、極秘裡に「六巨頭会談(最高戦争指導会議)」を開催します。
この会談の内容は、対ソ交渉方針の討議で、12日、そして14日にも続けて行われます。
六巨頭とは、鈴木首相、東郷外相、米内海相、阿南陸相、梅津参謀総長、及川軍令部総長〔五月末から豊田大将に替る〕の6人です。
日本国民の命運は彼らの判断にかかっていましたが、すでに見たように、彼らは当時日本がおかれていた客観的状況を真正面から捉えようとはせず、主観的願望によって、国民に大きな犠牲を強い続けました。
彼らの論議の内容を検証するために、外務省編纂『終戦史録』の第二十四篇を引用しておきます。

外務省編纂『終戦史録』「第二十四篇 最高戰爭指導會議構成員會議の成立」より

「四月五日、小礒内閣退陣の日、ソ連が突如、日ソ中立條約を廢棄する旨を豫告してきたことは、すでに第十八篇に記してきた通りであるが、このことは、日本の政府をはじめ各方面に非常なる衝撃を與え、ソ連のその後の動向に關して、一層の關心を深からしめた。
 東郷外相は、四月九日、鈴木内閣に外相として入閣したのであるが、これより先すでに同外相は、もち論、ヤルタ密約の存在は知らなかったけれども、テヘラン會談、ヤルタ會談その他米英ソ三國首脳部の屢次の會談が進められてきた現在、これら三國間には、對日戰果の分割についても、何らか話合いが進められておるものと見るべきであるとしていた。なおまたソ連の對日動向の推移について見ても、特に、昭和十九年十一月にいたり、スターリン首相が日本を侵略國であると呼んだこと、三月末頃よりソ連は東方兵力の増強を行つていること、それからまた、ソ連は今次中立條約廢棄通告文において、日本が、ソ連の敵國である獨逸を援助し、かつソ連の同盟國である米英と戰爭していることを理由としてうたつていること、即ち日本を準敵國であるとしていること、これらを見ても、ソ連の對日態度は頗る警戒すべきものがあるとしていた。
 ところが、東郷外相の就任後間もなく、河邊參謀次長等は、外相を訪問し、ソ連の參戰防止方について、外相の積極的活動を懇請した。なお小澤軍令部次長もこれに引き續き、同樣の申出をなした。
更に梅津參謀總長も、河邊次長と同樣の申出をなし、なお同總長は、在ソ佐藤大使の活動振りに言及し、同大使の更迭方につき、外相の措置を促した。その他、重臣の一部よりも、對ソ施策の積極化を外相に促すものがあつた。外相は、これら陸海軍首脳部の申出に對しては、ソ連は、最早米英とくんで對日戰果の分割を約している虞があるので、右樣工作は、すでに手遅れであると警告してきた。併しこれら陸海軍の外相への要請は、繰返しなされたのであつた。
 一方、沖縄戰局は全く絶望となり、更には獨逸の崩壊を見るにいたり、外相は愈々この機會に、なお國力のあるうちに終戰工作に着手すべきであると決意した。そこでその端緖として、右陸海軍の對ソ要請を採り上げることにし、その間外相は對ソ問題について首脳者間に話合いを進めるうちに、これら首脳者間に終戰に關する機運を醸成しようと計つたのである。元來、東郷外相は、東條(ママ)内閣時代の經驗に徴し、幹事等を交えた會議は、幹事が討論の主體をなし、とかく話が固くなり、また強硬論に傾き、さらに幹事等を通じて機密が洩れることがあつたので、何とか幹事等を入れない首脳者のみの會議をもつことを考えていたのである。別に、この頃になつては、首脳者のみの會議を持ちたいという意向は、獨り東郷外相のみでなく、各構成員(六人)の間に自ら起つており、梅津、及川兩總長なども又兩次長と相談して居た模樣であつた。又この頃髙木陸軍少将、加瀬書記官はこれら首脳者のみの會議開催の促進方について、外相に意見具申するところがあつた、とそれぞれの手記に記している。
そこで外相は、先ず右の意向を梅津總長に謀つたところ、同總長は直ちにこれに賛成したので、同總長より阿南陸相に話を進めることを依頼し、一方外相は、鈴木首相、米内海相を説得して、ここにいわゆる六巨頭會談をもつことになつたのである。六巨頭とは、言うまでもなく、最高戦争指導会議の構成員である鈴木首相、東郷外相、米内海相、阿南陸相、梅津參謀總長、及川軍令部總長(その後五月末豊田大将に替る)の六人であつた。外相は、木戸内府にも右の趣旨を觀説し、了解を得ておいた。
 かくて構成員のみによる最初の會議は、五月十一日、十二日、十四日と三日間に亘つて開催された。そこでは先ず、ソ連の利用度如何が問題として採り上げられた。東郷外相は、對ソ施策は最早手遅れで、軍事的にも、經済的にも、殆ど利用しうる見込みはないと主張した。陸海軍側は仲々承服しなかつた。就中このとき米内海相は對ソ利用は見込があると主張し、外相との間に相當論議を交わしたと言われている。このとき、米内海相は、日本から軍艦を讓つて、交換に石油や飛行機を貰うことを主張したのに對し、東郷外相は今更そんなことは出來るものではないと反駁した。但し、米内海相のこの論は海相の眞意から出たのか、或いは一種の腹藝であつたのか、その點ははっきりしないが、海軍内部では眞劍にこの論を主張していた者があつた。……おそらく、鈴木内閣において、東郷外相と米内海相が議論をたたかわせたのは、このときが最初にして最後であろう。かくて鈴木首相が中間をとり、とも角ソ連の肚を探りつつ事を運んで見ようということで、結局次の三つの目的を以つて對ソ交渉を開始することに決定を見た。
(一)ソ連の參戰防止
(二)ソ連の好意的態度の誘致
(三)戰爭終結につきソ連をして有利なる仲介を爲さしめること
 そこで外相は、對ソ交渉を進めるには、ソ連は米英とくんで利益を得んとしていると思われるので、對ソ代償を考えておく必要があると説き、その代償としては、ソ連の欲するところのポーツマス條約および日ソ基本條約の廢棄、即ち日露戰爭以前の状態への復歸を承認する必要があろうから、それについて日本として大なる決意を必要とすること、但しこの場合にも朝鮮は我が方に留保し、南満洲を中立地帯となすべきであると説明した。これには他の構成員も賛成した。ただ右の決定で第三項の終戰に導くという大方針そのものには異議はなかつたが、それを實施する條件問題について、およびその前提となる戰局の見方について、ここで初めて東郷外相と阿南陸相との間に意見が對立した。阿南陸相は、日本軍は未だ廣大な敵地を占領している。これに反し、敵は日本の小島に足をかけて居るに過ぎないから、日本が敗けた形で終戰條件を考えることは反對だというのであつた。そこで米内海相が、第三項の實行は暫く伏せておこうと發言して、それに決定したのであつた。即ちとりあえず第一項、第二項の目的をもつて、對ソ工作をすすめることとし、第三項の實行は暫時留保しておくこととなつたのである。
 なお別に、この會議において、重慶或は中立国を通して對米工作を進める方法が檢討されたが、これらは結局無條件降伏を強いられるものとして採用しないことに決定された。
 またこのとき、この最高戰爭指導會議構成員による六巨頭會議の内容は一切嚴秘に付しておくことに意見が一致した。なお後にみるように、この會議は終戰の際迄續行され、戰爭終結問題を主とした眞劍な討議が行われたのである。
 右に見てきたように、本會議において、日本の終戰問題が政府・軍部の兩首脳者間に始めて本格的に討議されたことにおいて、本會議開催の日本終戰史上における意義は極めて大なり。」

国家の指導者には、持てる全ての情報を冷静且つ総合的に分析し、それに基く的確な判断を下す能力が求められる。いわんや、戦争という非常事態のさなかである。

六巨頭会談開催以前の時点で、すでに、三月九日の東京大空襲を受けており、それ以降は、日本本土は連日のように米軍機による大規模な空襲が続いていたのである。
このような状況にあったにも拘わらす、『終戦史録』に記されているのは、「ソ連頼み」、「あなた任せ」の論議である。
1944年11月7日、革命記念日の演説の中で、スターリンが「日本を侵略国と見做す」と言明しているにも拘わらず、「ソ連頼み」の和平交渉を論議していること自体、「荒唐無稽」とも言える、極めて無責任な論議と言わざるを得ない。

戦争「終結」について主体的な判断をしない、この無責任な態度は、そのまま、八月十四日の「御前会議」において、「御聖断」が「降る」ことを待って、「ポツダム」宣言受諾の結論を持つという受動的な思考に連なっている。
彼らが、この出口のない論議を繰返している間にも、時々刻々、日本各地は米軍の爆撃に曝され、多くの人命と財産が奪われ続けていたのである。
この歴史的事実に対する評価は、厳密に行われなければならない。

しかしながら、外務省が編纂した『終戦史録』は、第二十四篇で、先に示した通り、次の言葉で結んでいる。
「右に見てきたように、本會議において、日本の終戰問題が政府・軍部の兩首腦者間に始めて本格的に討議されたことにおいて、本會議開催の日本終戰史上における意義は極めて大なり。」
この文章自体も、認識の甘さを露呈しており、歴史的な事実から教訓を学び取り、誤りを繰返すまいとする、真摯な反省や緊張感は全くない。

この認識の甘さは、これまで「太平洋戦争日歴」に基づいて、ごく大まかに示してきた日本本土が受けていた爆撃の実情を見ただけでも明らかである。


by kenpou-dayori | 2020-09-14 08:16 | 安倍首相への抗議・反論・批判・疑惑追及


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