2021年8月14日(土)(憲法千話)
憲法便り#5433:【シリーズ・わたしの8月15日:その1】『しんぶん赤旗』が募集していた「証言・戦争」への投稿の要旨;プロフィールへの補足!1945年3月10日未明の東京大空襲、その直後の福島県への縁故疎開、敗戦直後の経験!
証言・戦争への投稿の要旨
同封資料
岩田行雄編著『検証・憲法第九条の誕生』(増補・改訂第六版)(2017年刊)
「憲法書出版活動の歩み」(すべて自費出版)
「行動する研究者・岩田行雄のプロフィール」(15-19世紀ロシアの書籍文化史研究、日本国憲法制定期の資料研究)
プロフィールへの補足
1945年3月10日未明の東京大空襲の時、墨田区向島の対岸、葛飾区四ッ木に住んでいた。その夜、家を失った墨田区向島の人々が一晩中、木製の四ッ木橋を葛飾側に渡って来て、渋江小学校に仮の宿を取ったが、それは敗戦後まで長期化した。
東京大空襲の直後、母方の親戚を頼って、母、姉2人、兄1人と共に福島県小高に疎開。より広い「離れ」を用意してくれたので、さらに、小名浜に移転。だがその結果、
7月17日夜、水平線の向こうからの米軍による小名浜への艦砲射撃。映画の1シーンのように憶えている。当時小名浜にお住まいだった方から、わたしの記憶が正確であることの証言を得ている。
8月9日、米軍機の焼夷弾爆撃を受け、「離れ」と「母屋」がともに全焼。
そのため、川沿いの「岩屋」で暮らす。姉の話ではアニメ映画『火垂るの墓』の場面を彷彿とさせる場所だったが、親戚からの食料の援助で生き延びることができた。
8月15日敗戦。姉の話では玉音放送があるというので、母が、ラジオの前に子どもたちを直立させ、一列に並べて聞かせたとのこと。敗戦を知らされた母の目に涙は無く、怒りの表情だったという。
9月2日、行雄3歳の誕生日。
12月、葛飾に戻る。皮肉なことに、以前住んでいた借家は、無事だった。京成電車の土手下にある、長屋住まい。京成電車の土手に入れないように古い枕木の柵があったが、すべて燃料に使われてしまい、土手は、子どもたちの遊び場となっていた。