2022年4月15日(金)(憲法千話)
憲法便り#6476:いずみたくさんの没後30年;「みんなで歌える日本の歌を」! 出会いから生まれた1万5000曲!
2022年4月15日(金)付『しんぶん赤旗』日刊紙第10面(文化の話題)を引用しました。
右端は、永六輔さん。
左端でタバコを吸っているいずみたくさん。
いずみたく没後30年
土屋友紀子
「見上げてごらん夜の星を」「手のひらを太陽に」や「夜明けのスキャット」で知られる作曲家いずみたく。コマーシャルソング「チョコレートは明治」(作詞も)、「いい湯だな」からアニメの主題歌「ゲゲゲの鬼太郎」まで、枠にとらわれない彼の音楽は彼の没後30年たった今でも世代を超えて息づいている。
いずみたくが1977年に創立したいずみたくフォーリーズ(現在ミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ)に、私が制作者として入団したのは1993年のこと。作曲家として知られるいずみたくが最初から音楽を志したわけでなく、人生における数々の出会いから楽曲が生れ、その影には言葉で言いつくせないほどのドラマがあった。
新たな希望与えた芝居(中見出し)
彼が生れたのは1930年、東京の下町。父は歌舞伎、母は宝塚歌劇好きで幼少期から芝居が身近だった。戦時中だった青年時代、国のために命を捧げようと陸軍幼年学校に志願した矢先、日本は敗戦を迎えた。戦争で抱えた青年のやるせなさ…。彼に新たな希望を与えたのは芝居だった。
戦後すぐに演劇、映画などを志す若者が集まった鎌倉アカデミアへ入学。更に舞台芸術学院へ進学し、全国巡演実習でアコーディオン奏者を急きょ務めたことが歌と出会うきっかけとなる。そのアコーディオン演奏は、初日まで10日間の練習で人に聴かせるまでに仕上げたそうだ。卒業後もアコーディオン演奏を続ける中で、その時に歌っていたほとんどがアメリカのフォスターの曲やロシア民謡だということに疑問を持ち、「みんなで歌い合唱できる日本の歌を創ろう」と考えた。
22歳、うたごえ運動に加わり、日中は化粧品会社のトラックの運転手として働きながら中央合唱団で活動し始めた。独学で作曲に励み、その数は100曲以上に上る。その歌を大勢の人たちが大声で歌ってくれることが幸せでたまらなかったそうだ。
ある日、いつものように職場の昼休みにアコーディオン演奏で労働歌を同僚に指導していた。そんな彼に興味を持ったのが永六輔さんで、野坂昭如さんも所属する作曲家の三木鶏郎の事務所・冗談工房のメンバーだった。27歳で朝日放送ホームソング賞受賞を機に、鶏郎さんから声がかかり冗談工房へ。永さん、野坂さんと組んで数々のヒットを生み出す。
帰路の観客(が)口すさむ姿(中見出し)
プロの音楽家として歩み始めた30歳を過ぎた頃、永さんからの誘いで、ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」(1960年初演)を手がけた。欧米にならってミュージカル製作を始めた大阪新音(当時の大阪労音)の企画だった。不安のまま初日を迎えたものの終演後の帰路で観客がメロディーを口ずさむ姿を見て、ミュージカルで生きて行こうと決意したという。以来60年以上歌い続けられているこの歌が、ミュージカルのテーマ曲であったことはあまり知られていない。
一番弟子の今陽子さんは、いずみの音楽を愛してやまない一人。「シンプルなメロディーの美しさとアレンジによっていかようにも変化できる」と、いずみが手がけた彼女のヒットソング「恋の季節」をアレンジし歌い続けている。
尾藤イサオさんは、いずみのミュージカル「夜明けのうた」(1964年初演)という舞台でミュージカルと出会った。そのテーマ曲はミュージカルの初演前に岸洋子の歌ですでにヒットしていた。尾藤さんは「稽古が終わった後、いずみさんと飲みながらいろんなことを話していたあの時間がとても楽しかった」と話してくれたことがある。
人気トーク番組「徹子の部屋」(テレビ朝日系、1976年~)のテーマ曲もいずみが手がけた。黒柳徹子さんと島田祐子さんによるミュージカル「二重唱」(1976年初演)のなかの1曲で、「あの曲を使ったら」というアドバイスで採用されたと聞いている。いずみたくが生涯作曲した数は1万5000曲、手がけたミュージカルは124本。スタッフや俳優の育成にも力を注ぎ、日本のミュージカルを根底から支えた。何に対してもまっすぐに情熱を傾けたひと、いずみたく。すてきな出会いで生れた彼の音楽を未来に紡ぐために歌い続けたい。
(つちや・ゆきこ ミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ プロデューサー)