2022年4月18日(月)付『しんぶん赤旗』日刊紙第1面を引用しました。
風の音にさえおびえる母 日本へ避難のウクライナ難民
ロシアに隣接するウクライナ北東部のスミイ州ネドリハイリウからユリアさん(29)と母親(52)は、先月末、東京に住む兄(30)のもとに避難しました。今も恐怖を抱えながら国内に残る人びとのことを思うと罪悪感が残るというユリアさん。支援してくれた人たちへの感謝を伝えたいと、取材に応えてくれました。(小林圭子)
3月3日、自宅から15キロの距離に爆弾が落とされます。「強い地震のように屋根も揺れた。国境に近いため空襲警報が間に合わず、爆撃の後にサイレンがなっていた」
【戦争なんて・・・】(中見出し)
ロシア軍の攻撃開始以前から国境周辺には「“訓練”と称して10万人近くのロシア兵がいると聞いていた。ただ、誰も戦争になるなんて信じていなかった」。ユリアさんの住む町には軍事施設や空港もないため安全だと思っていました。
町にはロシアとキーウ(キエフ)を結ぶ道路があり、1日に数百台の戦車や軍の車が通っていたといいます。住民を脅かすための発砲音も頻繁に聞こえました。「戦車や戦闘機、爆撃などさまざまな音が常に聞こえ、母は強風の音さえも戦車だと思いおびえていた。外に出るのが怖かった」
【避難は危険を伴う】(中見出し)
銃を持ったロシアへいが店に入り、多くの場合お酒やたばこを略奪していたといいます。別の町に住む友人から「住人が地下に避難している家を占領したり、家から宝石やテレビを盗んだりしていたと聞いた」。
ユリアさんの両親は離婚し、家にはユリアさんと母だけ。女性2人の生活に不安を感じていました。
しかし、避難することも危険を伴います。「車に『子ども』の文字や赤十字のマークをつけても、ロシア軍は全く気にせず攻撃していた」(12面につづく)
【空襲警報の中をバス乗り継ぎ国境越え】
ロシア軍が攻撃を一時停止し避難ルートを設ける動きが始まっていた3月12日、ユリアさんと母は避難を決めます。バスで南下し6時間かけポルタフに到着。「走行中も空襲のサイレンが聞こえていたが、どうにもできずただ走り続けるしかなかった」。避難用のバスは行きに避難者を乗せ、帰りは支援物資を積み、さまざまな場所に届けているといいます。
ポルタワで1泊します。学校の教室などにマットレスが敷かれ多くの人が寝泊まりしていました。
翌日、友人のいる西部のコピチンツィまでバスで17時間。友人宅で6日間過ごしました。「西部でも1日に数回サイレンが鳴っていました。サイレンの音が耳に残り、ストレスでよく眠れなくなっていた」
【生活費に不安】(中見出し)
20日、ポーランド・ワルシャワに避難します。国境を超えるだけでも6時間、バスの移動で10時間かかりました。元同僚が支持者を探してくれ、その人のもとで1週間ほど過ごしました。「ワルシャワには多くの難民がいて住む場所を探すのはとても難しい。私たちは幸運だった。でも長い期間、無料で滞在するのは申し訳ない気がした」。心配していた兄の予備かけで、29日に日本へ来ました。
避難には多くの問題を抱えています。「地元にいれば自分たちで育てた野菜があるので、食料に困らない。洋服もある。避難すれば衣食住のために多くのお金がかかる」
ウクライナのIT関連の会社に勤めるユリアさん。現在もリモートで仕事をしています。ただ、日本に比べ安く、今後の生活費を心配します。「仕事をしていれば他のことを考える時間が減る」と、侵略が始まって以来ほぼ休みなく働いています。
現在は兄夫婦の部屋に住んでいます。お互い気を使う生活に、今後自分たちの部屋を探す予定です。
「母は、子どもに頼ることを気にしている。知人もおらず、言葉も通じない土地で、働けず子どもにお金を求めるのはつらいと思う」。母は英語と日本語の勉強を始めたといいます。
【支援者に感謝】(中見出し)
ウクライナに残る親戚や友人、同僚と毎日連絡を取っています。キーウに住む友人からは、近くのショッピングモールが攻撃を受け、爆風で自宅マンションの窓ガラスが割れたと連絡がありました。
返信が遅いと不安になります。「みんな恐怖の中にいて、『怖い』とメールが来てもどうしてあげたらいいか。違う話題で気持ちを落ち着かせるぐらいしかできない」
避難先で多くの支援を受けました。みんなとても親切で、食べ物や衣服、寝る場所も提供してくれて、とても感謝しています」。その言葉とともに、「ウクライナ人の勇気と強さを誇りに思います」-最後にそう語りました。
【岩田からのコメント:ウクライナと日本の生活感、とくに衣食住に関する考え方の違いを教えられました。お母さんの苦悩もよく判ります。声を上げ続け、支援の意思を表明し続けたいと、改めて思いました】