2022年10月6月(木)(憲法千話)
憲法便り#6717:堀内寛雄著『資料と人の縁―石橋湛山関係文献との関わり」を再録します!10月5日、アクセスが3件ありましたが、手違いで写真が欠落していましたので、写真付きで掲載しました。全文の文字起こしをしました!
昨10月6日は、11件のアクセスがありました!
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【再録】
2020年3月29日(日)(憲法千話)
憲法便り#3193:堀内寛雄著『資料と人の縁―石橋湛山関係文献との関わり」
わたしが、2004年以来、国立国会図書館憲政資料室に通って、大変お世話になり、
師と仰いでいる堀内寛雄さんから、『資料と人の縁―石橋湛山関係文献との関わり』と題する論考をお送りいただきました。
ご本人の諒承を得て、ここに紹介します。
1973年4月、私が甲府一高へ入学間もない時代に、同校のOBの石橋湛山が死去され、体育館に集合した在校生で黙祷した。当時の私の湛山に対する知識は、親中派の自民党長老として松村謙三等とともに、日中関係の改善に尽力した政治家というほどのものでしかなく、以後も引き際が立派だった反骨の政治家というイメージ位にとどまっていた。
1981年に早稲田大学政治経済学部より、国立国会図書館に入館後、複数の部署を経て、憲政資料室に配置された。そこで近代日本の政治家等の残した様々な資料を収集・整理・公開する仕事に従事する中で、偶然にも「石橋湛山関係文書」の整理・公開に関わる幸運に出会った。同文書は、1993年に湛山の長男湛一氏より寄贈を受けたもので、当時東洋経済新報社へ湛一氏をお訪ねして手続きを進めたことなどが思い出される。政治家・財界人等から湛山に宛てた書簡の他、調査動員本部関係、選挙演説原稿、戦後政治経済に関する提言、新党推進準備会・日本民主党関係、対中ソ関係資料などの書類、約1500点の資料は、マイクロフィルム(全33巻)撮影され憲政資料室で公開している。また2008年には、湛山の養父望月日謙(身延山久遠寺法主)や財界人等が湛山に宛てた書簡62点を古書店より購入し「同文書」2として公開した。そしてこれらの文書は、近年の湛山研究の進展に寄与してきた。
こうした中で、増田弘先生等の著作や湛山の論文集を読み始め、湛山の戦前期の思想の意義について、少しづつ理解が深まるようになった。そんな折、2007年5月に「山梨平和ミュージアム―石橋湛山記念館―」が地元にオープンすることを知り、開館の日の記念の集いに参加するとともに、浅川保先生に憲政資料室と「石橋湛山関係文書」の件をお話しした。その後、浅川先生が憲政資料室へ数度にわたり来室、資料を調査され、ミュージアムで2回にわたる「石橋湛山文書展」開催へと実を結んだ。
一方、憲政資料室では、敗戦後の日本占領時代における連合国側の公文書等についても、米国を中心に海外の諸機関が所蔵するものを、主にマイクロフィルムを収集し、「日本占領関係資料」として公開してきた。米国による日本各地の空襲の詳細な記録を含むUSSBS(米国戦略爆撃調査団)資料も米国国立公文書館から収集している。
元日航パイロットで、甲府空襲を記録する活動を続けてこられた諸星廣夫さん(私の父と甲府中学の同級生)は、同資料より甲府空襲に関わる部分を収集、分析され、その成果がミュージアム1階の展示やご本人の著書、ブックレット等にも反映されていることを知った。
これまで近現代史の資料に関わる仕事を通じて、多くの研究者をはじめ、資料所蔵者、マスコミ関係者等と接してきた経験は退職後も自分の糧となっている。特に「在野」の研究者との交流からは、資料を扱う中で生ずる歴史意識に対する緊張感が呼び起こされ、多大な刺激を受けてきた。現在「市民アーカイブ多摩」で市民運動等に関する資料整理を務めているのもその一つといえる。今後も資料と人の縁の循環は、途切れずに続いていきそうである。