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岩田行雄の憲法便り・日刊憲法新聞

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2022年 12月 18日

憲法便り#6820:「憲法便り#6818:守山義雄文集より「ベルリン特派員時代」【連載第21回】~【連載第49回】(最終回)までの一覧リストを紹介します!」への解説!

2022年12月18日(日)(憲法千話)

憲法便り#6820:「憲法便り#6818:守山義雄文集より「ベルリン特派員時代」【連載第21回】~【連載第49回】(最終回)までの一覧リストを紹介します!」への解説!

 守山義雄文集の入力作業を始めてから、なかなか他の記事を書く体力的な余裕がない。特に、最近裁判所による憲法判断が報じられていることに関して、正確に述べなけらばならないので、新聞やコピーを積み重ねたままになっているので、忸怩たるおもいがある。しかしながら、この状態はまだ続くので、今までの研究の蓄積をもとに、解説をしておきたい。

 ただし、解説文の中に含めようと思った史料2点は、20万字の制限により、再録の形をとり、別項を設けた。

 ひとつは、「憲法便り#6821:外務省編纂『終戦史録』の「太平洋戦争日暦」に基づく1945年1月から8月15日までの、米軍機による日本本土への爆撃の記録」。

 もうひとつは、「憲法便り#6822:憲法便り#203(2013年8月15日付):「六巨頭会談(最高戦争指導会議)」の無責任な論議の実態!」を再録します。」である。


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2022年12月17日(土)(憲法千話)

憲法便り#6818:守山義雄文集より「ベルリン特派員時代」【連載第21回】~【連載第49回】(最終回)までの一覧リストを紹介します!

時あたかも、日本では岸田内閣による憲法違反、国家無視の大軍拡が閣議決定されている。ヒットラーでさえ形式的には、ドイツ国会で方針演説を国家ラジオで放送し、代議員の賛同そして国民の支持を得ていることを見れば、岸田内閣はヒットラー以下の独裁政治と言える。

私はこの間、守山義雄文集の「ベルリン特派員時代」をじっくりと読み込む作業をしてきた。歴史的事実最前線に身を置いて、中立国日本の新聞記者として発信して来た彼の記事は、第一級の史料である。日独伊三国同盟が締結された時点から、当然のことながら、彼の記事は「ペンの兵士」としての制約がある。そして精神的、心理的にも変化が現れている。このことについては、彼自身が、敗戦後に書いた『ヒットラー来たり、ヒットラー去る』の中で自ら叙述している。

アメリカは、大日本帝国が宣戦布告なき真珠湾攻撃を行う以前は、すでに示したように、中立的な立場を維持し、ヨーロッパに特使を派遣し、和平への仲介役を果たそうとする動きも見せていた。

だが、真珠湾攻撃を受けて以降は、俄然立場が変わった。大日本帝国の戦争指導者たちは、アメリカに先制の一太刀を浴びせれば、『腰を抜かして、立ち上がって来ない』という、読みをしていた。だが、そんな身勝手な理屈は通用する筈はなかった。虎の尾を踏んだのである。

時代劇流に言えば、「不意打ちとは卑怯なり」ということになるが、ことは戦争である。中国大陸で補給線が延びて苦労している上に、太平洋地域に戦線を拡大したために、大本営発表とは裏腹に、やがて、「転進」につぐ「転進」を、言葉の言い換えでごまかしているが、「退却」につぐ「退却」を重ね、ついには「本土決戦」を言い始めた。

岸田内閣も、「敵基地攻撃能力」を「敵基地反撃能力」と言葉の言い換えをして国民を騙そうとしているが、そんなことはいつまでも通用しない。

だが、12月8日の各紙の社説の記事を比較して紹介したことで分かるように、すでに政府に対する「忖度」、報道自粛が目に余るようになってきている。これは、報道の自殺行為である。

大日本帝国は、第二次世界大戦の末期、すでにイタリア、ドイツが降伏、敗北した後にも、強がりを言っていた政府の代弁をして、次のように報じている。

私は、『憲法便り#791』に、「三大新聞は「ポツダム宣言」をどのように報道したか? 社会の「公器」が「凶器」となった時!」と題して、次のように述べている。

「新聞は、社会の公器」と言われる。

だが、新聞が権力に屈し、権力におもねたとき、「公器」は、「凶器」へと変貌する。

そして、「狂気」の時代を迎える。

第二次世界大戦の末期、「ポツダム宣言」を報じた、朝日、毎日、読売の3紙は、まさに「凶器」であった。

昭和20年五月の時点で、「ポツダム宣言」を受諾する、責任感と判断力と「勇気」があれば、広島、長崎、そしてその他の多くの悲劇は、回避されていた。

いま、戦争法案をゴリ押しする安倍首相と、自民・公明両党は、まさに当時の亡霊の生き返りである。

新聞が、再び「凶器」となる愚は、繰り返してはならない。

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岩田行雄編・著『平和憲法誕生の真実』(2008年)より

昭和二十年七月二十八日付けの『読売報知』『朝日新聞』『毎日新聞』を見ると、左記の見出しで各紙とも複数の記事を掲載し、国民を鼓舞している。
以下に見る通り、三紙のうち二紙が「笑止(しょうし)」の見出しを使い、笑いとばす態度をとり、無謀な戦争続行に国民を導く手助けをしている。その結果、「本土決戦において米軍を徹底的に殲滅」するどころか、日本の全国各地が空爆により、壊滅的な打撃を受けることとなった。

【見出し】

『読売報知』
「笑止、対日降伏条件
トルーマン、チャーチル、蒋連盟
ポツダムより放送す」
「国内、対日両天秤
老獪な謀略
敵宣言の意図するもの」
「戦争完遂に邁進
帝国政府問題とせず」
「戦争は国民がする
力の結集急げ
南日政(大日本政治会)総裁
記者団と語る」

『朝日新聞』
「米英重慶、日本降伏の
最後条件を声明
三国共同の謀略放送」
「政府は黙殺」
「多分に宣伝と対日威嚇」

『毎日新聞』
「笑止!米英蒋共同宣言
自惚れを撃砕せん
聖戦を飽くまで完遂」
「白昼夢・錯覚を露呈」
「政戦一致は鉄則
戦力国民の自奮に
南総裁、所信を披瀝」

【記事の実例】
『毎日新聞』昭和二十年七月二十八日より

【見出し】
「笑止!米英蒋共同宣言
自惚れを撃砕せん
聖戦を飽くまで完遂」

【記事】
「廿七日の定例閣議は午後二時より首相官邸に開催、鈴木首相ほか各閣僚出席、東郷外相よりトルーマン、チャーチル、蒋介石によって廿七日早朝(日本時間)宣言された三国共同宣言について詳細に報告し、午後五時散会した」
「トルーマン、チャーチル、蒋介石による三国共同宣言は笑止にも帝国に対し軍隊の武装解除或は軍需産業の全廃、皇土の割譲等不遜極まるものである、わが国の大東亜戦争遂行の真目的は飽くまでも帝国の自存自衛及び大東亜民族の米英よりの解放にあり、この神聖なる戦争目的は世界人類斉しく認むるところである、米英の戦争目的に対比し天地の相違がある、最近の戦況にうのぼれを来し、わが戦力を過小評価するに至った米国は戦争の終結近しと独断、かくて今回の許すべからざる三国共同宣言をなしたものと想像される、しかし戦局の今後はわが方に絶対の自信をもつ本土決戦において米軍を徹底的に殲滅し得るとは軍当局並に政府が屡々(るる)その確信を披瀝してゐるところである、国民もそれに対し絶対の信頼を寄せ戦争の完遂に全力を傾注してゐるのである、ここにおいてわが方としてかかるうぬぼれに基く三国共同宣言に対しては一顧も与えることなくひたすら大東亜戦争の神聖なる目的に徹し飽くまでも彼等の戦意を放棄せしめるまでは戦ひ抜き頑張り抜くだけである、政府またかかる方針であることは勿論である」

日独伊三国軍事同盟を締結していたイタリアはすでに一九四三年九月八日に無条件降伏しており、ドイツも一九四五年五月七日に無条件降伏した。この時点で、アメリカのトルーマン大統領が日本に無条件降伏を勧告した。しかしながら、日本政府は五月九日に「戦争遂行決意不変」を声明し、戦争を続行していた。
ポツダム宣言が発表された時点で日本政府が取った態度と、「勇ましい」報道が如何にばかげたものであり、救い難い強がりであったか。それを証明するため、敢えて頁数をさいて、外務省編纂『終戦史録』の「太平洋戦争日暦」に基づいて示しておこう。
米軍機による日本本土への爆撃は、すでに一九四四年六月十六日に北九州空襲以来断続的に行なわれていたが、ここでは一九四五年に一月から敗戦を迎える八月までのみを列挙する

 この「太平洋戦争日暦」がすべてを物語っている。

この大日本帝国最高戦争指導部の判断、そしてこれに追随した日本のマスコミの果した役割が、日本国民の生命、財産にどれほどの被害を与えたか、その反省に立たなければならない。

敗戦後、朝日新聞は、昭和20年10月24日(火)付朝刊第一面に次の記事を掲載していた。

〔朝日新聞革新〕「戰爭責任明確化、民主主義実現、社長・會長以下重役總辞職」

さらに「社説」では「新聞の戦争責任清算」とある。

現在の『朝日新聞』の記事の有りようは、この反省を全く踏まえていない。

私が「マスコミの危機」という根拠は、以上の諸点にある。

これらの諸点を踏まえて、以下のドイツの状況を、是非比較し欲しい。

【連載第21回】「北欧進出の軍事的成果」(昭和十五年四月十日発:ベルリン発);ドイツの大攻勢始まる!

【連載第22回】「電撃作戦(国際電話)」(昭和十五年五月11日発:ベルリン発)

【連載第23回】「西部戦線、初の従軍」(昭和十五年五月十九日発:アーヘンにて)

【連載第24回】「ベルギー戦線視察記」(昭和十五年五月二十一日発:サントロン(ベルギー)にて)

【連載第25回】「ブラッセルに入る」(昭和十五年五月二十一日発:ブラッセルにて)

【連載第26回】「ライヘナウ大将会見記」(昭和十五年五月二十二日発:ベルギー戦線ドイツ軍総司令部より発信)

【連載第27回】「シェルド河の渡河戦」(昭和十五年五月二十二日発:ベルギー戦線シェルド河畔オウドナルドにて)

【連載第28回】「オイペンを見る」(昭和十五年五月二十二日発:オイペンにて)

【連載第29回】「アントワープ」(昭和十五年五月二十二日発:アントワープにて)

【連載第30回】「ナチスと宗教」(昭和十五年五月二十五日発:ベルリンにて)

【連載第31回】「西部戦線第二回従軍」(昭和十五年六月十三日発:アーヘンにて「西部戦線第二回従軍第一報」)

【連載第32回】「陣中のヒ総統」(昭和十五年六月十三日発:ブラッセルにて、ベルリン経由十六日着電)

【連載第33回】「パリ入城記」(昭和十五年六月十四日記:パリ入城従軍記第一報)

【連載第34回】「凱旋門下の分列式」(昭和十五年六月十六日発(ベルリン経由):パリにて)

【連載第35回】「コンピエーニュ」(昭和十五年六月二十一日午後六時(日本時刻22日午前二時)発:コンピエーニュにて)

【連載第36回】「ドイツの対ソ宣戦(国際電話)」(昭和十六年六月二十三日:ベルリンにて)

【連載第37回】「独ソ戦線従軍」(昭和十六年七月十八日発:ヴィルナ(ヴィリニウス)にて)

【連載第38回】「三国条約一周年」(昭和十六年九月二十六日発:ベルリンにて)

【連載第39回】「ケルチ戦線視察記」(昭和十六年九月二十七日発:クリミヤ半島ケルチにて)

【連載第40回】「ハリコフ戦線従軍記」(昭和十七年五月三十一日発:ウクライナのハリコフにて)

【連載第41回】「スターリングラード」(昭和十八年二月二日発:ベルリン)

【連載第42回】「ドイツの銃後」(昭和十八年二月八日発:ベルリン)

【連載第43回】「白旗をもたぬ赤旗のソ連軍」(原注:掲載月日不明:ベルリンにて)

【連載第44回】「ベルリン支局被爆」(昭和十九年六月二十一日発:ベルリン特電、原注;掲載月日不明)

【連載第45回】「独全軍秋季総攻勢始る」(昭和十九年十月十日電話:ベルリン発)

【連載第46回】「新しきヴェルダン」(昭和十九年十二月十四日発:ベルリン)

【連載第47回】「クリミヤ会談」(昭和二十年二月十四日発:ベルリン)

【連載第48回】「決戦ドイツの実相」(昭和二十年二月二十一日発:ベルリン)

【連載第49回】「ベルリン脱出第一報」(昭和二十年六月五発:ベルリン)

*「ヒットラー来り、ヒットラー去る」に続く。



by kenpou-dayori | 2022-12-18 19:55 | 守山義雄ベルリン特派員時代


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