2022年12月22日(木)(憲法千話)
憲法便り#6829:守山義雄文集より「ベルリン特派員時代」【連載第29回】「アントワープ」(昭和十五年五月二十二日発:アントワープにて)
二十三日午前七時アーヘンを出発再びベルギー戦線に入りドイツ軍の占領下におかれたこの国第一の良港アントワープを視察し、更にオランダを五日間で攻略後、ベルギーに転戦して聯合軍を急追中のドイツ最右翼軍団の総司令官ゲオルク・クックヘラー大将に会見した。
午前十時半アントワープの町に到着した。この町はもともと要塞で囲まれ武装された海港として有名である。しかし戦争は南下したドイツ軍が近郊の二個の要塞を去る十七日爆撃したのみで、翌十八日にはこの町の市長が降伏を申出で十九世紀からの習慣にしたがって市長の鍵をドイツ軍に渡した。まづこの方面のドイツ軍団司令官クックヘラー大将を訪問した。皮肉にもアントワープの植民大学の立派な建物はこの司令本部に充てられてゐる。将軍はポーランド戦争当時東プロシャの軍隊を引ゐてポーランド回廊、ワルソー両方面に進撃した人で、果敢かつ確実なる戦略をもったドイツ陸軍の典型的な武将といはれる。見るからに武人らしいこの五十八歳の将軍は聯合軍総帥ウエーガンの写真の飾ってある部屋に坐ってアントワープ占領の事情や現在の戦況につき語った。
それによるとこの方面のドイツ軍はガンを中心とするシェルド河の線まで前進し手をり、二十三日からガンの攻撃に全力を挙げてゐる。作戦は予定以上のスピードで進んでをり、同地にドイツ軍が入城するのも目前に迫ってゐるやうである。この大学街をできるだけ破壊したくないため苦心してゐることであった。
なほ西部ベルギーでドイツ軍に包囲されてゐる英仏ベルギー聯合軍は合計二十五師団六十万の兵力であることをこゝで聴いた。アントワープ街を一巡する。戦争が町の中心で行はれ、かつ聯合軍が撤退に際し徹底的に町の港湾施設を爆破し、市内の一部にはいまだに電燈がつかぬなどのため、市民の眼の色にはまだ不安な陰影が残ってゐる。店は半ば閉ざされ、洋品店の前には大きな籠を抱へた女達が列を作って順番を待ってゐる。
物価はベルギー政府が決めた引上げ停止令をドイツ軍もそのまゝ踏襲してゐるので、殆ど戦前のまゝである。諦めきった市民は、従来のドイツマーク(マルク)の換算率からいふと恐ろしく歩の悪いドイツ軍の軍票を別に不思議な顔もせずに受取ってゐる。目抜き通の一流食堂は、ドイツ軍の将校や兵隊で一杯だ。ベルギーの民衆はカフェの軒端に椅子をならべうまいコーヒーを飲みながら議論をしてゐる。
流石に貿易商人の町だけあってすべて算盤づくの議論が多いらしい。また自国政府の処置を批難するものあり、イギリスに対する不満もあるやうだ。議論に疲れると彼らは大通りを整然と行進するドイツ兵の長蛇の列をぼんやり眺めるのだ。市の中央の公園は花園まで掘り返され塹壕が作られてゐる。その傍にベルギーの捕虜が三、四百名ほどドイツ軍の暗い灰色のトラック十数台に乗せられて休憩してゐる。それを市民は不安さうな顔で取り巻いて眺めてゐる風景は哀れであるととものおかしくもあった。捕虜のなかに父や弟がいないかと探し求める不安な人々の眼差しは理解できるが、肝腎の捕虜はすこぶるシャアシャアしたもので当然といはぬばかりの顔でドイツ軍のトラックに乗ってゐる。中にはニコニコしてまはりの同胞に向ひ『誰か煙草をもってないかね』と催促してゐるのもある。それをドイツの監視兵は笑って見てゐる。監視兵といっても敵兵の二十分の一の兵力だが、それでも敵はおとなしく監視されてゐる。ドイツ本国へ連れて行かれるらしいが旅行ができて誂へ向きだくらゐに思ってゐるのだらう。日本人には理解できぬ風景である。戦争がまるで生活の中に立てこんでゐる風景である。
日本領事館に立寄って見た。森山領事以下は御真影を奉じて在留邦人とともにすでにブラッセルに引揚げたことを知ってゐたが、念のために扉を叩いて見ると、玄関番のベルギー人の婆さんが出てきて『皆さんが引揚げてからのちは何ごとも異常ありません』といふ。領事館の正面に掲げられた大日章旗を暫く見上げながらこゝを立去った。
ついで港湾を一周する。シェルド河を潜る長さ二キロの海底トンネル、および同河口に架けられた大鉄橋もベルギー兵のために爆破されて使用不可能。ドイツ工兵隊の手で鉄舟を並べた長さ四百メートルの仮橋がつくられ、これを渡ってオランダよりの増援部隊が続々アントワープ市内に入り込みつゝあった。この架橋作業に当った工兵隊長は作業と設計の苦心を次のごとく語った。
すなはち干満の差五メートル八十もあるために両岸に於て関節式に架橋せねばならず、かつ流れの激しい水流と水圧のために長大な木橋を維持するアンカーの方法に非常な苦心が払はれた。これが完成までの作業時間僅か四十時間。
われわれはついでアントワープ飛行場を訪れた。こゝはすでにドイツ軍の軍用飛行場と化してをり、銀色に塗られた見るからに精悍なメッサーシュミット一〇九型戦闘機の基地になってゐる。こゝの隊長はヘルマン・ハンドリック少佐、オリンピック五種競技に優勝したスポーツマンだ。少佐はメッサーシュミット一〇九型のことを「僕の小鳥」と呼びながら、
『僕の小鳥は戦闘機としてはやっぱり世界一だ。速力において性能において空中戦に適応の点において世界中捜してもこれの右に出るものはない。こゝ八日間ばかり敵のスピリット・ファイヤー、ハリケーンにもお眼にかかれないが、多分イギリス空軍は本土危なしと見て、その防衛のために家を留守にできないのであらう。しかたがないので戦闘機としては元来の任務ではないのだが、このごろでは地上に敵を捜しては機関銃掃射で友軍に協力してゐますよ。単座のこの戦闘機の武装は機関銃四梃、機関砲一門。なにこの戦争は長続きしないよ。だって僕の愛機で飛べば、こゝからロンドンまで三十分もかゝらないんだから。またオリンピックに出たいですなぁ……』
適度にユーモアをもち合せた少佐は、自分の部隊の飛行機の胴体にチェンバレンを皮肉ったつもりでシルクハットの胴体絵を描いてゐる。彼の命令一下われわれの目前でメッサーシュミット一〇九型五台が、編隊のまゝ空に舞ひ上がり西南の方向に向ってみるみるうちに消えて行った。素晴らしく足の速い飛行機だ。日本の空でみなれてゐる飛行機の三倍ぐらゐのスピードと思へばよい。
*次回は、【連載第30回】「ナチスと宗教」(昭和十五年五月二十五日発:ベルリンにて)