2023年1月13日(金)(憲法千話)
憲法便り#6861:第55代内閣総理大臣を始め、ジャーナリスト、教育者としても様々な職務を歴任した石橋湛山著『私の秋田感』―『秋田縣の観光と産業』一九五二(昭和二七年)」を紹介します。
一般財団法人 石橋湛山記念財団が、2013年(平成25年)4月に刊行した『自由思想』第129号に、随筆家川越良明氏が書いた「石橋湛山が愛した横手――ゆかりの「出羽印刷」に案内標識」という随筆が3頁(28-30頁)に掲載されている。短文だが、中味が凝縮された写真入りの文章である。そして、文章のあとに、〈再録〉として、石橋湛山著『私の秋田感』―『秋田縣の観光と産業』一九五二(昭和二七年)」が紹介されている。その全文は以下の通り。なお、この文章は、私が憲法研究の師と仰ぐ元国立国会図書館憲政資料室職員の堀内寛雄さんから表紙のコピーと共に頂いたものであることを付言しておきたい。
「昭和二十年四月、当時主宰していた東洋経済新報が、東京の激しい空襲で、なんとも発行が困難になったので、編集局と工場の一部を横手に疎開し、ここで発行を継続することにした。そして私も、その指揮のため、家族と共に横手に移り、この地で比較的のびやかな生活をさせてもらった。時間からいえば、ほんの僅かな間であったが、時が時とて、横手は私の終生忘れがたい土地である。
私はそれまで秋田県を、まんざら知らないのではなかった。秋田市にも横手市(そのころは町)にも経済倶楽部というものがあってその関係で、二度か、三度これらの地の御厄介になった。私は雪の最中、横手でカマクラという変ったお祭りも見た。また夏の盛りに旅行して、何と秋田は暑いところだと感じたこともあった。
だが、私は、昭和二十年の約四箇月の疎開で、すっかり秋田が好きになった。あの天井の一部を二階まで突き抜いた横手の特殊の家造りも、おもしろく感じた。五月ともなり、山に雪が消えれば、私には一々名もおぼえられない数々のいわゆる山菜が現われて来る。これらは、いずれも野菜の王であろう。その外、ショツル鍋、芋ッ子汁、デクの坊、キリタンポ等々、いづれも秋田ならでは味わいえない野趣豊かな食物である。
私は横手で岡本新内を発見した。というても前からこの曲が全然東京方面に紹介されていなかったのではないが、広くは、だれも知らなかった。だが、私はこれを、はなはだおもしろいものだと思った。戦時中とて横手疎開中はしばしばこれを聞く機会もなかったが、終戦後横手を引き上げる際には、思い切って大いに歌い、かつ踊ってもらった。これが機縁で、今は石田博英代議士が熱心な後援者となり、折々「ちよっ平ねさん」をはじめ一行を招いて東京で岡本新内の会を催している。自由党の益谷長老は、中でも大の岡本新礼賛者で、日本民謡の最高峰にあるものだと口を極めて称揚している。
秋田の思い出を書けば突きないが、しかし何より、かんより、うれしいところは、その人情の厚いことである。もとより、いずれの地にも善人ばかりは、そろっていない。秋田にも、いろいろの人があろう。だが私の知っている限り、秋田の人は正直で、親切で、また勤勉だ。戦時中、東京から地方に疎開したものの中には、ずいぶん、いやな目にあった人も多いようだが、私ども東洋経済新報社のものは、今日なお引きつづいて、いずれも横手は良いところであったと感謝している。これは横手で接触したあらゆる人々が、全く温い気持でわれわれを過ごしてくれたからである。秋田名物は、この人情をもって第一に推す。これが私の秋田感である。」
【私の感想:本物の一流の人士は、知性も、感性も、極めて勝れていると、つくづく思います】