2023年 10月 02日
2023年10月2日(月)(憲法千話) 憲法便り#7028:2023年9月23日の日本18世紀ロシア史研究会大会での報告要点報告要点を一気にお読み下さった小泉八雲研究者の関田かおるさんからのご指摘で、第2頁中ほどに赤字で示したが、報告要点で見方となっていた箇所は味方に訂正します。 2023年9月23日の日本18世紀ロシア史研究会大会での報告要点 『15世紀のヴェネツィア人が見た15世紀のロシア』 本稿は、株式会社文流が1995年8月1日に発行した『南欧文化‘95 16』に掲載されたものです。 刊行直後に文流から国立国会図書館に寄贈されていたのだが、「企業の宣伝のために刊行された出版物の内容は、研究のレベルの如何を問わず紹介の対象外とする」という同館の方針により、10年掛かりでまとめた研究は、長い間、陽の目を見ることはなかった。この研究を知っているのは、岩田本人以外には、『南欧文化‘95 16』に研究論文を執筆した他の3人、及び文流の『南欧文化‘95 16』編集者のみでした。 それだけに、今回発表の機会を得たことを、とても感謝しています。 9月23日の「日本18世紀ロシア史研究会大会への説明原稿」で、30万人の人々がどのようにして食糧を確保したかのかについて「播種」のところで詳しく述べましたので、ここでは、その他の項目について述べます。(以下、「である」調で述べます)
なお、文中でバルバーロを「バルバロ」と表記している不一致があるが、これは近所にお住まいだったイタリア中世史の研究者(故人)に原稿を見ていただいたところ、内容は高く評価して下さったが、発音を「バルバロ」と直された事による。ただし、調べ直してみるとバルバーロの方が正しかったのだが、刊行までに訂正が間に合わなかったことにより、不一致がそのまま残っている。 また、原稿依頼を受けてから締め切りまでの時間が1カ月しかなかったので、訳文に堅い感じが残っているが、併せて記しておく。この1カ月という短期間は、もうひとり予定していた研究者の原稿が刊行期日に間に合わないので、その穴埋めのために依頼されたことによる。当初の依頼は400字×100枚だったが、「中途半端なものは発表できない、400字×200枚ならば」という条件を提示し、了解を得たことにより実現した。以下、本文に進む。 原本の翻訳で主に利用したのは、1856年にヴェネツィアで刊行された『ヴェネツィア方言辞典』第二版(厚さ6.5センチ、重さ3キロ)である。表紙のカラ―コピー添付。
ヴェネツィア共和国からペルシアのウズン・ハサン国王に大使を派遣した目的は、地中海の貿易の権益をめぐり、オスマン帝国のムハンマド2世を抑え込むために、ヴェネツィアが海から攻撃し、陸からウズン・ハサンが挟撃する作戦を実現したいという思惑があったが、バルバーロとコンタリーニがペルシアを訪れる前にウズン・ハサンが独自にムハンマド2世と一戦を交えて敗北を喫した後で、新たな戦闘には慎重になっていた時期であった。 ふたりのヴェネツィア共和国大使の経歴については、本文78頁~79頁に詳しく掲載してあるので、ここでは、ふたりのフルネーム、及び生没年のみを紹介する。 ヨサファト・バルバーロ 生年不明 1994年没 アンブロジョ・コンタリーニ 1429年生 1499年没 カッコ内の〈B〉はバルバーロ、〈K〉はコンタリーニを意味する。旅行記は二人の報告を対象としているが、ここでは内容が具体的なバルバーロの報告を中心とする。 以下、本論に入る。 第1章(岩田注:この第1章は原本の章建てであって、本稿の章建てではない) 〈第2項〉時代背景(本文79頁~81頁) 1299年に小アジアに興ったオスマン朝は次第に勢力を強め、バルカン半島への定着の意向から1354年にはダーダネルス海峡をこえたヨーロッパ側のガリポリに兵を送ることに成功する。1396年にはバルカン半島を制圧。だがティムールの西進によりオスマン朝は一時滅亡の危機を迎える。1402年のアンカラ近郊における戦闘でバヤズイド王が捕えられ、八カ月後に死亡したため王朝は中断。しかしバヤズイド王の一子メフメット1世(1403~1421)が分裂状態にあった国家を1314年には統一し勢力を盛り返した。そして1451年に文武両道に猛けた気鋭のメフメット2世が即位するや、かれは念願のコンスタンチノープルを攻略。ビザンチン帝國滅亡。東方貿易の重要なルートである黒海への出入口の制海権がトルコの手中に。ジェノヴァとの2度の大会戦をふくむ4回の海戦をも交え、地中海の覇を競い、黒海沿岸でも激しい競争を続けてきたヴェネツィアにとっては新たに大きな困難が生じた。1453年にヴェネツィアは2%の関税を支払うことを条件にオスマン帝国ないで自由に貿易を行う権利を定めた条約を結んでいた。しかしメフメット2世は1460年にこれを引き上げる一方、メフメットの臣下が貿易を行う場合は4%に抑えた、いわば保護貿易にのり出した。そして、予想されるヴェネツィア、ジェノヴァ双方からの貿易封鎖に対処するためフィレンツェに急速に働きかけをはじめた。さらにトルコがヴェネツィアの統治下にあった領土に攻撃を加え、1462年にペロポネソス半島のアルゴス(現ギリシャ領)を奪取するに及んで、ヴェネツィアはトルコとの戦争を決意する。この戦争は1463年から1479年の長期に亘った。ヴェネツィアはアルバニア、ハンガリー、ペルシアを同盟軍として引きつけたが、海と陸からの両面作戦を考えていたヴェネツィアにとってはペルシアの雄ウズン=ハサンは願ってもない味方であった。しかしながらヴェネツィアの思惑どおりに事は運ばず、10年後の1473年に局面打開のため、ウズン=ハサン供与する大量の武器、大砲付きのヴェネツィア人教官たち、兵員200名を経験豊かな外交官バルバーロに託した。だが、かれにはその他にもキプロス王との調整、ローマ法王シクストゥス4世の大使、ナポリ王フェルディナンド1世の大使らと行動を一致させること、トルコ人たちによってほとんどが占領されていたカラマニア(小アジア)の状況を調査することの任務を帯びていた。そのためにバルバーロはキプロスに長く引きとめられた。 ウズン=ハサンに武器も届かないうちに、ペルシア軍はアナトリアのトルコ軍に対して行軍を敢行した。しかし1473年8月に、ウズン=ハサンはエルジンジャンの会戦で敗北を喫し、退却してしまう。この衝撃的なニュースは2ヵ月後にヴェネツィアに伝えられ、新たに陸路からもう1人の大使を派遣することを決定した。そして引き受け手がなく、難航した末にこの任に着いたのがコンタリーニであった。 他方ロシア方面に目を転じると、1280年以来ロシアを”タタールのくびき”につないできた金帳汗国(キプチャク・カンコク)は内紛を繰り返し、自己崩壊への道をたどっていたが、モスクワ大公国はイワン3世がロストフ公国(1463年)・ヤロスラヴリ公国(1471年)・ノヴゴロド共和国(1478年)・トヴェーリ公国(1485年)を併合し、次第に周辺に支配地域を拡大、1480年には、ついに“タタールのくびき”からロシアを解放する。ふたつの旅の物語は、まさのこの激動していた時代の歴史の証言でもある。 (なおバルバーロとコンタリーニの大使としての行程は、本文の最後に添付した〈図4〉訂正版を参照のこと) ここで、バルバーロが記したウズン・ハサンについての記述を紹介しておこう。 これは、「〈B30〉城壁のない都市」の前半は省略し、後半部分の全文(本文108頁の11行目~110頁の上から7行目まで)を紹介するものである。 この後に続く話と前後する部分があるが、ウズン・ハサンの話題を最優先することとした。以下、本文を紹介する。
ペルシアのウズン=ハサンの死の噂との関連で、かれの息子により占領されたシラーズの町に向かってウズン=ハサンが大草原の宿営地から行軍した時の様子を、バルバーロの自らの観察にもとづいて行った極めて詳細で正確な記述に注意を向けなければならない。ウズン=ハサンの部隊、彼の司令部、かれの側近たち、かれの家族の成員たち、男女の召使いたちが出発した;かれらのあとには部隊に同行する多数の人々―男性、女性、子供たち、(揺り籠に入った)乳飲み子たち―が馬あるいは荷馬車に乗って続いた;そのあとからさまざまな手工業者たちと商人たちが進んだ;最後にここで動物たちの大群が続いた;それらのうちのあるものは荷駄用であり、またあるものは高価な飾りを付けた礼式用のものであった;大小の有角家畜の群を追い立て、また狩猟用の動物や鳥たち(豹、鷹、鳶、その他)を運んだ。バルバーロは自分の使用人とともに宿営地を動きまわって、騎兵半個中隊ごとに人々と動物とを数えあげている(神の助けにより!)。かれはこのようして計算したすべての数字を自分の物語の中で知らせている。 (Persia, 40葉裏~43葉表)。〔B&K. 173~174/注B-73〕 (注B30-3への筆者注)* バルバーロは下記の数字をあげているが、これは大使としてのバルバーロの周到さ、大胆さ、そして記憶力の深さを物語るものとして、この報告そのものが大いに注目に値する。もうひとりの大使であったコンタリーニがウズン=ハサンに嫌われて、なすすべもなく追い返されたことからすればなおさらのことである。バルバーロが描き出したウズン=ハサンに同行していた人々と動物の陣容は下記の通り。ただしこれはウズン=ハサンに同行していた部分であって、ペルシアの全勢力ではない。
大 天 幕 6,000 ラ ク ダ 30,000 荷物運搬用ラバ 5,000 荷物運搬用 馬 5,000 ロ バ 2,000 軍務用の馬 20,000 このうちの2,000頭は金や銀の四角い飾りによる甲冑に、地面までたれ下がる鎖かたびらをつけている。 軍務用ラバ 2,000 小さな家畜の群 20,000 大きな家畜 2,000 狩猟用の豹 100 鷹(飼い慣らされらものと野生のもの) 200 グレーハウンド 3,000 フォックスハウンド 1,000 オ オ タ カ 50 剣 闘 士 15,000 帯剣した召使、ラクダ引き、バザールの売り子その他同様の者 2,000 騎兵はおそらく 25,000 剣と弓を持ったvillani(農夫?)、歩兵 3,000 上流と中流階級の女性の合計 10,000 侍 女 5,000 12才かそれ以下の子供 6,000 囲い(または揺り籠)に入った乳幼児 5,000 騎兵のうち槍騎兵およそ 1,000 小 さ な 盾 5,000 弓 10,000 その他 〔Nuovo Ramusio,133頁~134頁; hakuluytSociety 66頁~67頁参照〕
〈B22)”幌馬車とパオ”(本文100頁)、及び〈B24〉”謁見”(本文101頁)で、長さの単位が大きな壁になった。 ”幌馬車とパオ”では、パオの直径が45センチだから、どう考えても犬小屋程度の大きさにしかならない。
〈B24〉”謁見”では、膝立ち、いわゆる” 跪拝“で、指導者に対して8パッソ(240センチ)~9パッソ(270センチ)の距離まで近づくことが出来たことになる。 これは〈B36〉下剋上〈本文114頁〉に述べられているような状況を考えれば、無防備であり、危険である。 この距離は、ピエーデ(イタリア語、約30センチ)、ロシア語(フート、30.48センチ)、フット(英語、約30センチ)に基づいていた。
この問題が解決できたのは、ヴェネツィアにあるイタリア国立印刷研究所及び国立図書館が共同で1978年に刊行した《IL NUOVO RAMUSIO VII;I VIAGGI IN PERSIA DEGLI AMBASCIATORI VENETI BARBARO E KONTARINI》〈シンラムージオ版 第7巻;ヴェネツィア大使バルバーロとコンタリーニのペルシアへの旅〉のGLOSSARIOの340頁にある次の説明によると、1パッソは約1.7メートルである。この説明に基づいて計算するとパオの直径は約2,5メートルとなり、謁見”での、指導者に対する時の距離もして8パッソ(約20メートル)~9パッソ(22.5メートル)となり、どちらの数字も、納得が出来る。(原文は当時のヴェネツィア方言で書かれている。表紙のカラ―コピーとともに、この頁のコピーを添付した。)
次に、バルバーロとコンタリーニの記述の特徴について説明する。 【バルバーロの特徴】 第一の特徴は、バルバーロの記述は、貿易商をしていた時の個人的な記録と、ヴェネツィア大使としての公式な記録があるが、記憶力が勝れており、記録はどちらも具体的であること。 第二の特徴は、タタール人をはじめ、出会った様々な人々と直接話ができる語学の才があったこと。 第三の特徴は、人種的な偏見がないこと。そのためタタール人たちと自由に交わり、かれらの社会の中に入って仔細に観察していることである。ときにはかれらの物の考え方にたいして、敬意さへも抱いていたと思われるところもある。 ここで、本文の116頁から118頁にかけて、バルバーロの人柄が分る事例の全文を紹介しておこう。
〈B38〉タタール人からの「贈り物」 この当時(友人たちについて忘れないために)汗の同族であったエデリムクが前述したように川を渡るために戻ってきて、タナにやって来た。そしてひとりの自分の息子を私のところに同行してきた。かれはすぐ私を抱擁して言った。《私はあなたにこの息子を連れてきた。そして私はかれがあなたの息子となることを望む》。そしてただちにこの息子が身につけていたsubbo(短い衣裳)を脱がせてそれを私に着せた。そして《これは私がロシアで獲得した戦利品の一部です》と言いながら、私に8人のロシア人を連れてきた。かれは私とともに2日間いて、そして(今度は)反対に私から相応の贈り物を受けた。 《注B38-1》バルバーロの著作の中で遊牧民のステップにおける特徴的な習慣のひとつ―尊敬すべき人物に対して父親によって子供がその息子として譲られる―を記録しているこのはなはだ表情に富む箇所は、「ペルシアへの旅」に含まれるエピソードとの関連で存在している。そこでバルバロは、(息子の)アフメドが汗の親類であるかれの父親のエデリムクによってバルバロに息子として与えられたことを繰り返している。バルバロが祖国へと戻るためにタターリアへの方向(カッファはすでにトルコ人たちに占領されていたので)をとることを決めた時に、その道すがら話し合ったタタール人の商人たちの証言によれば、かれの養子は汗のもとで実力者になっていた(かれは汗の一族であったようだ)。当時(1477年の終り)金張汗国または大汗国は最後の重要な支配者はアフメド汗で、同時にイヴァン三世の敵対者がこの汗であった。もしもバルバロがタターリアでかつて自分に息子として与えられた現在の重要人物の勢力圏に足を踏み入れたとしたら、かれが最高のもてなしを受けたであろうことは、バルバロが根拠なしに考えたことではなかった。〔B&K.175頁/注B-85〕
〈B40〉救出そして再会(本文117頁の〈B40〉の冒頭~118頁の最後までの全文)を紹介する。 (岩田注:バルバーロは常に沈着冷静、かつ大胆で、ペルシアにむかう途中でクルド族の襲撃をうけた時をはじめ極めて困難な状況に陥っても、常に乗り切っている。 ここで紹介するのも、どのような場面でもバルバーロが豊富な知識と経験に基づき冷静に判断し実行した記録である。まさに「面目躍如」という言葉がぴったりしている)。 以下、本文を紹介する。
(パルバロは第39節で、エデリムクの息子に会ってから35年後にペルシアからポーランド経由でヴェネツィアへ帰国しようとする途上で、あるタタール人の話により自分の“息子”がいまでは汗の側近の高い地位についていることを知る。バルバロがかれらの支配地域へ行けば最高のもてなし受けたであろうことを知りながらかれは別の道をたどる。そして次のように結んでいる。「35年も経ってから、たがいに遠くはなれた国のタタール人とひとりのヴェネツィア人が出会うなどと誰が考えたであろうか」。第40節はその話をうけて続けられている。) 私はこのこと―同じ時期にあったのではないが―に関連して、付け加えておこう。 1455年にRealto(ヴェネツィアの地区名、現リアルト)でワイン商人の倉庫にいて、ざっと目を通しているうちに、いくつかの樽が並んだ倉庫の端に2人の男がつながれているのを見た。私はその顔つきでかれらがタタール人であることがわかった。かれらに何者であるかをたずねると、カタロニア人の奴隷であったが、小舟で逃亡し、そして海でこの商人に捕まったと答えた。 すぐに私はsignordi notte(当時の治安組織)に赴き、このことをかれらに告発した(逃亡奴隷は自由の身のはずだから)。かれらはただちに何人かの役人を派遣し、役人たちはタタール人を役所につれてきて、さきほどの商人の面前でかれらを解放し、その役人を有罪とした。 前述のタタール人たちをひきとって家に連れて行き、そしてかれらが何者でどこの国の出身かをたずねると、かれらのうちのひとりが自分はタナの出身でコツァダムトの召使いであったと私に言った。私はこの人物(コツァダムト)をすでに知っていた。なぜならかれは汗の税官吏で、汗はかれを通してタナに運び込まれる物品の税金を徴収していたからである。(召使いだった男の)顔を見ているうちに、私はかれが私の家に何回も来たことがあり、知っているように思えた。かれの名をたずねると、かれはケベクチと答えた。これは私たちの言葉で言い換えるとぬか・ふすまを分ける人または小麦粉をふるいにかける人の意味である。かれを見て、私はかれに言った。:《お前は私を知っているか?》。するとかれは《いいえ》と答えた。ところが、私がタナおよびユスフ―私はそこでこう呼ばれていた―に言及するやいなや、かれは私の足もとに身を投げ出して、私の足に接吻をしようとした。(しかも次のように)言いながら:《あなたは私の命を二度救ってくれました。今回がそのうちの一度です。なぜなら奴隷になることを、私は自分にとっては死とみなしていたからです。もう一度はタナでの火事の時で、あなたが壁に穴をあけて、そこから多くの人々が出てきましたが、その中に私の主人と私もいました》。これは真実で、なぜならばタナで火災が起きた時に、多数の人々が集まっていた安全な空地に面した壁に私が穴をあけ、その穴を通って40人が外にでたが、その中にこの男とコツァダムトがいたからである。 私はかれらをふたりとも2ヶ月ほど家にとどめ―タナ行きの船の出発まで―そしてかれらを自分の家へと送った。 かくしてその地方にはもう決して戻らないという考えで他の人と別れ、もう決して会うことはないだろうと友情を忘れてしまうことは誰にもあってはならないことである。
このエピソードに関連して、貿易商時代の記述の具体例をいくつか紹介する。 〈第3項〉タナについて(本文81頁)では、タナはヴェネツィア本国から最も離れたドン河のいくつかの支流のちのひとつのデルタ中にあったことが述べられている。 ここを通過した貿易品には、様々な物品(本文82頁―83頁)があった。 陸路そして海路からタナに集められ、運び出され、運び出された物品の種類は二つの時期によってちがっている。
第1の時期、つまり14世紀には東方や北方そして西方からの多数の物品がタナを通過している 金属: 鉄、錫、銅。 香辛料 こしょう、しょうが、サフラン。 装飾のための材料: 金、真珠、こはく。 高価な布地: 絹織物、錦織、薄手のラシャ、厚手の灰色のラシャ。 その他の布地: 綿布、麻布、亜麻布。 穀類: 小麦、ライ麦、その他。 食料品: 魚、キャビア、獣脂、チーズ、植物油、蜂蜜、高級ワイン(クレタ産)。 毛皮類: 黒貂(くろてん)、白貂、貂、いたち、きつね、やまねこ、りす。 その他: 蝋、皮革、びゃくだん(染料)、クベーバ(薬用)、にくずくの実(調味料)。 タナには造幣局が存在したが、それは以上にみるような14世紀における活発な貿易およびイタリア人による植民都市の全般的な経済的重要性の証明である。(本文82頁―83頁)
第2の次期はティモールによる破壊後、復興をはかって以降、すなわち15世紀である。 バルバーロが語るところによれば、タナは長い間復興の努力をしてきたが、再生しても以前の貿易活動の規模にもとることは出来なかった。その主要な原因はティムールがタナと貿易上で密接な関係にあったアストラハンとサライを破壊し、東方とこれらの地方との貿易を鋭く断ち切ってしまったことにある。そして香辛料はアストラハンを通じてタナに入ってくることはなくなり、それらの流れはシリアの沿岸地方の港へと向っていったことがわかる。 それにもかかわらずヴェネツィアのガレー船はタナを訪れた。主な物品は毛皮と皮革、蜂蜜と蝋、魚とキャビア、そして穀物、それらはトルコとの軍事行動との関連で海上交通の困難が増大するなかで、主としてコンスタンチンノープルへ、そして部分的にはヴェネツィアへと運ばれた。 だが、注目すべきは、ここを通過した貿易品には、以上に紹介した様々な物品のほかに、奴隷貿易があったことである。タナが数ある植民都市から峻別される貿易活動があった。それは秘密裏に行われていた奴隷貿易で、タナはその積み出し港であった。この恥ずべき商売については、物語ふうの記録にも、貿易に関する学術論文にも残されるべきではなかった。 ベルギーの歴史家シャルル・フェルリンデンは奴隷貿易について多数の労作を世に出しているが、その中でタナにおける、また奴隷貿易の中継地点であった、コンスタンチンノープル、クレタ、キオスにおける奴隷貿易が分析されている。そして、そこには多数の、それも大部分は未刊行の公正証書に立脚して、売買されたそれぞれの人について、民族性、名前、性別、年令、売買の人数と男の奴隷たちと女の奴隷たちの値段を含む名前が記されている。フェルリンデンは同様の文書群の中からひとつの要約記録を編集し、いかなる民族がタナの奴隷市場で売られていたかという典型を調査している。その結果、タナを経てヴェネツィア、次のように様々な人種の奴隷がいたことが確かめられた。そして、そしてひとりひとりの人物(時折それは子供連れの母親だった)の売買は、それぞれ別個の証書によって認証された。 14世紀: タタール人、ギリシア人 15世紀: タタール人、チェルケス人、ジーヒ人(ジーギ人。紀元前1世紀から紀元15世紀まで北西コーカサスの存在した民族)、アブラジア人、メグレル人、ブルガリア人、ロシア人。(本文83頁~84頁)。
〈B30〉城壁のない都市(本文105頁-110頁〉では、タタール人の臨時宿営地について「城壁に囲まれていないということ以外には、――最も美しい都市に見えるからである」(本文106頁)と述べている。この記述は次のように続く。 「この問題に関しては、ある日タナでつぎのことに出会っている。タナは門の上にたいへん美しい塔があり、私のそばにひとりのタタール人の商人がいてその塔を眺めていた。私はかれに《これがすばらしいと思いませんか》と問いかけた。するとかれは私に目を向けて、薄笑いをうかべてから言った。《あはっ! 怖がる者が塔を建てるのさ!》と。そしてこの事では、かれが言ったことは真実と思われる。」
〈B19〉目のあたりにした大移動(本文97頁)では、バルバーロが目撃した30万人に及ぶタタール人たちが移動する際の具体的状況、そして彼らの知恵を次のように述べている。 「支配者の出発後、動物の群れをつれた民族が来はじめた。最初は60頭、100頭、200頭またはそれ以上の頭数の馬群ごとに通った。つぎはラクダたちと去勢された雄牛たちであった。さらにそのあとは小さな家畜たちの群れが来た。 これは6日間続き、それもまる1日中、見渡すかぎり、ステップはすみからすみまで人々と動物たちによって埋め尽くされていた。あるものは近くを通りすぎ、またあるものはやって来た。そしてこれはまだ先頭部隊であった。このことから中心部隊の人々と動物たちの数がどれほどおびただしいものであったかを想像するのは簡単である。 われわれはずっと外壁の上に立って(なぜならわれわれは門をぴったりと閉ざしていた)そしてただ見ているだけで疲れた。これらのひとびとと家畜の大集団に占められたステップの直径は120マイルに及び、一種のパガネヤに似ていた(パガネヤについては、本文97頁の最後のから98頁を参照のこと)。
次にタタール人たちの宗教について述べる。 〈B13〉マホメット教(本文93頁) マホメット教はタタール人たちのあいだでは、すでに110年以上も前から日常的なことになっていた。実際、かれらのうちのなにがしかはマホメット教徒であったが、各々は自分が気に入っている信仰を保つことは自由であった。それ故、ある者たちは木やボロ布で作った偶像を崇拝しており、それを自分の荷馬車に乗せて運んでいた。マホメット教の強制はシャディベク汗と呼ばれていたタタールの皇帝の民衆の司令官エギゲイはこれから話をするナウルースの父親である。 (注B13-1)* 偶像崇拝については〈B-26〉節において再度ふれる。
〈B26〉偶像崇拝者たち(本文102頁) 汗国にいた頃のある日、私は地面にひっくりかえった木製の深皿を見つけた。私が近づいてそれを持ちあげてみると、その下にゆでた練り粉があった。私はひとりのタタール人のほうを向いて、これは何なのかをたずねた。するとかれは私に、これは《hibuthteres》すなわち偶像崇拝者たちによって置かれたと答えた。そこで私はかれにたずねた。《この民族の中に偶像崇拝者たちがどんなふうに存在するのか》と。かれは答えて言った。《ホ、ホー! かれらは大勢さ。ただ隠れているのさ》(注B-26の1) (注B-26の1)金張汗国でのイスラム教定着の歴史については、ベルグ汗の治世、ウズベク汗の治世、エジゲイ汗の治世の3つの段階が顕著である。 それでもやはり偶像崇拝(シャーマニズム)は、タタール人たちの偶像崇拝者の存在の質問に対してパルバロがうけた答えに反映しているに、タタールの遊牧民の民衆の中でなくなってはいなかった。これはアラビアの著述家イヴン=アラプシャー(1392~1450)伝えるところで確認される。かれはアストラハン、サライ、クリミヤそして中央アジアに滞在したことがあり、デシト・イ・キプチャク(地名)について次のように記している。;《かれら(この地方の人々)のうちのある人々は今でもまだ偶像を崇拝している》(チゼンガウゼン、第1巻、157頁。/対比:ヤクボフスキィ『金張汗国』165~168頁)。〔B&K.172頁/注Bの66〕 次にタタール人たちの調理法、味付け、塩の重要性について述べる。 調理法、味付けに関しては、いかにもバルバーロらしい具体的で、優れた報告である。断片的な情報を集めてみると、当時のタタール人たちの調理法、味付けの全体像が見えてくる。 調理法、味付けについては考えてもみなかったことであった。食べ歩きを始めて60年になる私にとっては、なんとも嬉しい情報である。
〈B18〉斥候隊の食料(本文97頁) 騎乗兵の各人が自分の民族を離れる時に、きびの粉に少量の蜂蜜をまぜて練り上げた練り粉(pasta)をいっぱいに詰めた仔ヤギの皮の小さな袋を持ち、そして木製の深皿をいくつか持っている。もしもかれらに狩猟の獲物がない時は―これらのステップには小動物が多いうえに、かれらは特に弓を使ってとても上手に狩りをする―かれらはこの練り粉に少量の水を加えてある種の飲料を作り、それによって飢えをしのぐ。 ステップに出掛けるかれらのうちのひとりに私が「ステップでは何を食べているのか」と質問した時に、かれは逆に私に問い返した。「いったい食べないで死ぬ者がいるのかね」と。それはまるで「わずかに生命をつなぐのに必要なだけが私にあれば、あとは心配ない」とでも言いたそうに。かれらに塩は欠かせなかったが、草でも根でも食べられるものですごした。もしもかれらが塩を持っていないと口はでき物でおおわれ、そして化膿し、この病気によって死ぬ者さえも出る。かれらはまた下痢をおこすこともあった。
〈B21〉荒らされた養魚場(本文98頁~99頁) (当時タナあたりの大草原を埋めつくしていたタタール人は)はなはだ多数であったと記述することができる。ひとつの私の養魚場があったボザガスと呼ばれる場所でこのようなことがあった。氷が下流に去ったあとボートでそこへ向った。その場所はタナから約40マイルのところに位置していた。そこで漁師たちに会ったが、かれらが言うには冬越えのたくさんのチョウザメとキャビアを獲り、塩漬けにしたが、この民族の一部が滞在した時に、塩漬けのものも、塩漬けでないものも、そこにあるわれわれが食用にしない品質のものまですべての魚がとられた。そしてすべてのキャビアが盗まれ、すべての塩―それはGieviza(イヴィサ島)産の塩のように大粒である―が持っていかれ、まったく驚いたことにそこで塩の小片たりとも見つけることは出来なかった。またかれらはおそらく自分たちの荷馬車に使うために樽板を持ち去った。(その他にかれらは塩をひくためのひき臼を三つ壊したが、それは真中にある小さな鉄製品(回転軸)をとるためであった。こうした損害は私も蒙むった。同様にひとつの養魚場を持っていたZuanda Valleはこの支配者が近づいたのを知って、大きな穴を掘り、キャビアを詰めた小型の樽およそ30樽を隠し、穴を土で埋め、そのあとで―気付かれないために―その上で薪を燃やすよう命じた。しかしながらかれらは策略によって隠された物を見つけ出し、かれにささいな物も残さなかった。 (注B21-1)この名称―ボザガス―は、それが《灰色の木》を意味するという説明ととともにすでに15節(B15民族移動)で記述されており、そこではボザガスがドン河畔にあることが語られている。ここではそれはイタリア人商人たちの養魚場がある土地だということが明らかになっている。そこには漁場、魚の塩漬け、キャビアの製造と荷作りにたずさわる漁師たちが住んでいた。バルバロも他のイタリア人たち(例えばZuanda Valleという名の男性)も漁業のための河の区画を所有していた。〔B&K.171頁/注B-59〕 なおボザガスは古地図によればドン河の左岸に記されている。 (注B21-2)Ivizaは地中海のバレアレス諸島のうちのひとつで、塩の産出では有名。イヴィサ島の塩についてはペゴロティの『商業の実践』の中で語られている。(Pegolotti,154、224、231頁)。〔B&K. 171頁/注B-60〕 〔岩田注:ところで、タタール人が盗みを働く行為は、他では見当らない〕。
〈B29〉チェルケス人遊撃隊への急襲(本文105頁の下から9行目~6行目) なお「スパイス」という言葉に関しては、W.H.マクニール著/清水廣一郎訳『ヴェネツィア』(岩波現代選書、1979年)第2章への原注(8)で次のように述べられている。:「この語は、東方からヨーロッパに輸入されるすべての高価な商品(宝石を除く)を指し、一般には「スパイス」といわれない商品(染料、薬品、媚薬、砂糖など)にも適用された」(298頁)。
〈B30〉城壁のない都市(本文106頁の4行目~6行目) そこで市を開くとすぐに、かれらは自分たちのかまどを作り、肉を焙り、また茹で、そしてバター、チーズで自分たちのソースを作った。かれらはいつも何らかの野生動物、特に鹿を持っていた。
〈B32〉鳥(本文110頁) これらのタタール人たちは素晴らしい鷹匠である。かれらは多数のシロハヤブサを持っている。かれらは鳥たちを我々が使わないcamelioniで捕え、鹿やその他の大きな動物を求めて歩きまわる。シロハヤブサをかれらは片方の手の拳の上にのせて運び、もう一方の手には長杖を握っている。シロハヤブサはワシほどではないがかなり大きいので、疲れたときにかれらは手の下に長杖をそえるのである。 時にはかれらの宿営地の上に雁の群が飛んで来ることがある。そうした時、宿営地のかれらは指ほどの太さで曲げられていて、羽が付いていない矢を射る。矢は少しだけまっすぐに飛んでから方向をかえて雁の群を横切り、首でも足でも羽根でも打ったところを砕きながら飛ぶ。(また)雁の群で空がおおわれることがあるのだが、人々の大きな叫び声で目をまわした雁たちが地面に落ちてくることがある。 (注B32-1)camelioniという言葉にかんしては、まったく異なるふたつの解釈があるので、ここでは参考のために双方をそのまま紹介しておきたい。 camelioniは狩猟用に飼い慣らされ、訓練された力強い鷹の一種。〔NuovoRamusio 249頁。バルバロへの注71〕
(注B32-2)バルバロの著作では次の三種類の矢について語られている。 第1は、タタール人たちの間でもっとも広く用いられている武器である弓のための矢(〈B-29〉チェルケス人遊撃隊への急襲)。第2は、飛んでいる鷹の類を打ち落とすための矢。第3は、弓の射撃の競技用の矢;それらには銀のカップをつるしたひもを断ち切るために(鏑屋のように矢の先端がふた股に開いた)金属の半月形が付けられている。(バルバロの第48節) ヨハニス・デ・プラーノ・カルピーニもまたタタール人のさまざまな矢の種類を記述している。かれは戦闘用の矢のほかに、「鳥用、けもの用、そして非戦闘員用」の矢があることを書いている(Ioh.dePlano Carpini, 689頁)。〔B&K.179頁/注B-121〕
なお、本稿では「バルバロの第48節」を訳出の対象としていないので、弓の射撃の競技会の部分だけを以下に訳出しておく。 「ある日、弓の射撃の競技会が行われた。この土地における競技の方法は次のようなものである:まず1本の木材を横にして2本の木材の上にのせて絞首台のように立て、銀製のカップをなにがしかの細引で吊るす;(パリオの勝者に与えられる絹の旗)を獲得するために弓を引く者たちは、半月の鉄の刃先の付いた自分の矢を持っており、馬で疾走してこの絞首台の下を通り抜け、馬をそのまま真直ぐに走らせながら振り返って細引に矢を射る。;そして細引を切ってカップを落として者がパリオを獲得する。」〔B&K.130~131〕
〈B34〉汗国の大家畜群(本文111頁の下から8行目~112頁の下から3行目) この汗国にいる多数の、それも数えきれないほどの動物たちについて何を話そう? 私は信用されるだろうか? これは望ましいことだが、私はそれを話すことにした。 まず、馬たちから話をはじめると、この民族には何人かの馬商たちがいて、馬たちを連れて汗国から他の土地へとそれを追って行く。私がペルシアを発つ前にそこにやってきた或る隊商は4000頭も連れてきた。だがこれで驚かないでほしい。というのは、もしもこの国で1日のうち1000頭あるいは2000頭の馬をあなたが望めば、それらを見出すことが出来る。なぜなら馬たちは羊のように群れになっていて、その群に出掛けて行って売り手にこれらの100頭が欲しいと言えば、かれは先端に投縄のついた棒を持ち、そしてこの仕事に充分に慣れていて、買い手が《これを捕まえて、あれを捕まえて》と言うが早いか、先端の投縄をその馬(の首)にかけてその他の馬の中から外に引き出して別にとりのけておく。こうした方法で望みの馬を望みの数だけ捕まえる。 私は旅の途中でとても多数の馬―それはステップをおおっていた―を連れた馬商たちに遭遇したことがある。これは感嘆すべきことであった。 この国では純血種の馬をあまり生産しない。それらは小さくて、大きな腹が出ていて、燕麦を食べない。だがペルシアにそれらを連れてきた時には、それらに与えることのできる賞賛は燕麦を食べることである。もしも食べないと必要な仕事に耐えることが出来ないからである。 かれらが所有している動物の第二の種類は、同様にイタリアの屠殺場を十分に満たすほどに多数の、すばらしいそして大きな去勢牛たちである。それらはポーランドまでやってきて、そののちいくらかの部分はBlachia(ヴァラッキア、現在のルーマニアの一地方)を通ってトランシルヴァニア(ルーマニア)へそれからアレマニア(ドイツ)へ行くのを除いてイタリアに向かう。必要な時にはこれらの地方に雄牛たちが積荷や荷鞍を運ぶ。 かれらが所有している動物の第三の種類は、大きくて、毛深いふたこぶラクダたちである。それらをペルシアに連れてきて、一頭につき25ドゥカートで売っていた。東方からのひとこぶラクダは小さいので一頭につき10ドゥカートで売っていた。 かれらが所有していた動物の第四の種類は、とても大きくて、足が長く、毛が長い去勢された羊たちで、それらはひとつで12リブロ(約5.7㎏)をこえる尻尾をもっている。私は後ろに車を引いていた同様の羊たちを見たことがあるが、それらの尾は車に結びつけられていた。これらの尾からとれる脂肪で(タタール人たちは)かれらの料理すべてを調理する。かれらにとってこれはバターのかわりであり、口の中で固まらない。
以上のようなバルバーロの記録と対比して、コンタリーニの記録の特徴は次の通り。 第一の特徴は、ヴェネツィア出発から帰国まで全行程にわたって、滞在または通過した国名、地名、都市または村落名、年月日、見聞した事柄、印象などを簡潔にまとめている。ある意味では事務的とも言えるが、そのことがかえって幸いし、コンタリーニの手記は当時の各民族の支配地域や交通手段などをしるうえでも貴重な資料となっている。 第二の特徴は、ヴェネツィア大使としての敵地での任務遂行に関する「危険手当」について、こと細かな規定を求めていることである。これは驚くほど高額である。因みに、比較のために、当時のヴェネツィアの下級から、中級官吏、熟練職人や親方層の年収に関する研究を紹介した。(本文90頁~91頁参照のこと) 第三の特徴は、ヴェネツィア駐在のロシア大使だったマルコとの偶然の再会により、その後は、モスクは到着までの〈危険な旅〉、そしてモスクワ到着から帰国の途の着くまでの間、ずっとマルコの通訳により助けられていたことである。 第四の特徴は、ヴェネツィア共和国政府に訴えるように、常に「こんなに危険な目に会った」ということを強調していることである。 そして第五の特徴は、生き延びるために、嘘を言っていることである。部分的にではあるがその事例を紹介しておこう。
〈K18〉にせ医者(本文131頁~132頁の中の中段の6行、及び最後の2行) (中段の6行)この旅に居合わせた連中がコンタリーニに向かって何者であるかを、かれはマルコと相談して次のように言うことに決める:かれは医者であり、君主トマスの娘であるデスピナ(注K30-4参照)に仕えていた医者の息子で、ローマからモスクワ公の妻のところへ派遣されたのである。こう決めておきながらコンタリーニは「私が貧しくて、デスピナの召使いであって、モスクワ公とデスピナのところへ幸せを求めて行くようであった」とつけ加えている。
(最後の2行)(注K18-1)* 第4節では見知らぬタタール人の一団と共に一晩野営をするが、その時は「ジェノヴァ人」と答えている。
〈K18/2〉身代金(本文133頁の下から5行目~134頁の上から5行目まで) タタール人たち、すなわちアストラハンの支配者はわれわれがその日上陸することを望まなかった。しかしマルコは上陸し、策を講じた。なぜならば、かれにはそこに何人かの友人がいたからである。そして最初の夜は私の家の子郎党とともにマルコが滞在していた小さな家につれて行かれ、小さな暗い部屋に入れられ、そこでわれわれは眠った。朝になって、盾に彫られたゴルゴーンに似た恐ろしい顔の3人のタタール人がやって来て、私をかれらのところへ行かせようとした。そしてマルコに向かって、かれは支配者の友人であるから客人だが、私はかれらの奴隷である、なぜならばカトリック教徒は敵だからと言った。しかしマルコはかれらに対して私がひと言も話すことを許さず、私に代わって答えた。それは、(1476年)5月1日のことであった。
〈K31〉モスクワの町とロシア人の暮らし(本文144頁の下から11行目~146頁の上から10行目まで)(以下、略) モスクワのこの町は小さな丘の上に位置していた。そしてクレムリン(内城)がそうであるように、町の他の部分もすべて木造である。Mozucoと呼ばれる川(モスクワ川)があり、それが町の中を流れていている。そして多くの橋がかかっておりこの川の行き来できる。(注K-31-3) これは首都であり、すなわち大公の住居がある。この国の大部分がそうであるように、(この町も)多くの森に囲まれている。そしてこの国はあらゆる種類の穀物がとても豊富です。わたしがそこにいた当時は、1ドゥカートで10スタイオ(850リットル)の小麦が得られ、その他の穀物も同様であった。かれらは概して雄牛の肉と豚肉を常食しており、1マルケットで3リッブラ(約900グラム)得ることができると思う。さらに1ドゥカートでめんどり100羽が与えられる。同じ値段でカモは40羽。しかしガチョウは1羽マルケットちょっとである。非常に多くのウサギが売られているが、その他の野生動物は少ない。それは(ロシア人たちが)とることを知らないからだと私は思う。それからあらゆる種類の鳥が、しかも大量に売られている。 この地ではワインは全然作られておらず、なにがしかのcucumeri(注K-31-4)とハチバミの実と野生のリンゴ以外にはいかなる状態の果実はない。 この国はとても寒く、ひとびとは1年のうち9ヶ月も続けて暖房をした部屋の中にいるほどである。しかしながら冬のあいだに夏のために必要なものを調達しなければならない。そこでかれらは大量の氷(露訳では雪)のために橇を作り、1頭の馬がこれを簡単に引いてすべてのものを運ぶのである。しかし夏はとけた氷によるひどいぬかるみと、決して良い道がついていない大きな森たちのため、通行には大きな苦労をともなう。それゆえここではたいていこのようにする(即ち冬の道を利用する)のである。 10月の末に町の中を流れている川全体が凍結し、その上にあらゆる種類の品物の売店が作られ、そこでそれらのすべての市がひらかれる。そして町の中ではほとんど何も売られない。市をひらくためにこの場所を占めるのは、両岸の町に囲まれていて風から守られているので他の場所より寒くないからである。 この凍った川の上に毎日大量の穀物、雌牛の肉、豚肉、薪、干し草、そしてその他のあらゆる必要なものがある。そして冬中このようにして不足することはない。 11月の末に雌牛や豚を所有している者たちは町へ運んできて売るために、それらを屠殺する。こうして時折町の市場で売るためにそれらを丸のまま運んでくるのだが、死んだ(家畜の)肉を3ヶ月以上食べられるように凍った川の上に皮をはがれた多数の雌牛たちが立たされているのをみるのは愉快なものである。そして魚もめんどりもその他のあらゆる種類の食料も同様にする。 この凍った川の上で馬を競い、そしてその他数多くの娯楽が行われる。時々かれらのうちのなにがしかは首を折る。 男性たちはとても美しく女性たちも同様である。しかし粗暴な民族である。 かれらは自分たちの宗教の長として選んだひとりのpapa(府主教)を持っていて、われわれのpapa(教皇)については小さな評価をしており、われわれをまったくだめな人間だといっている。
〈K32-2〉大公とデスピナと家族について(本文149頁の下から5行目~下までの5行) 前述の大公35才ほどであろう、背が高く、ひどくやせており、そして美しい人物である。他に2人の兄弟がいて、母親は健在である。そして他の女性(最初の妻)との息子がひとりいるが、かれはデスピナに対する品行が悪いことからあまり寵愛を受けていない。それから2人の娘があり、さらに(デスピナ)は妊娠中だったという話である。
コンタリーニはモスクワに1476年9月25日から1744年1月21日まで滞在している。 大公が国内の視察を終えて(1478年)12月末ごろに戻ってくる。その後、最後の正餐に招かれているが、大公の様子が具体的に描かれているので、本文151頁の全文を紹介する。
〈K34〉最後の正餐 翌日、大公との正餐へと招かれ、食卓につく前に、殿下とマルコとれのもうひとりの書記官(国家機関の責任者)がいた部屋に入った。(大公は)最良の表情をしていいうるかぎりの礼儀正しい言葉で私に、われらが令名高き政庁に対してかれが良き友であることそしてありつづけることを公的に伝達するようにせまった。そして同様に喜んで私を行かせること、もし必要なものがあればそのすべてをととのえることを申し出た。 大公が話しているあいだ私は少し離れていたが、殿下は最大の寛大さをもって絶えず私に近づいてきた。私は殿下が私に言ったことのすべてに対して、そして我が身に生じたことへの多くの感謝を込めて応えた。こうした議論はたっぷりと1時間以上も続いた。 (殿下は)大きな親しみをもって、私に最高の黒貂で裏打ちされた錦の衣裳をみせた。それから部屋の外に出て、しばらくして食卓にむかった。食卓の時間はいつもより長く、料理も多く、かれの多くのバロンたち(諸侯)が臨席した。 食卓が終ると私をテーブルから離れさせ、殿下の前に進ませた。そこで大公は皆に聞えるように大きな声でわが令名高き政庁との多大な厚情を表明しながら私に好意的な(旅立ちの)許可を伝えた。(これに対して)私はしかるべく殿下に感謝の意を表した。 それから私に蜜から作られたこの土地の酒がなみなみと注がれた大きな銀杯が差し出され、私がこれをすべて飲み干すようにと大公が命じており、そしてこれを私への贈り物とすることが告げられた。これはあるいは大使たちに対して、あるいはその他の人物に対して、最高のもてなしをする時に行われることが常であった。しかしながらもう十分だったので、多くを飲むことは私には大変なことに思えた。その4分の1を飲んだと思われるところで殿下は私がそれ以上飲めないことに気付き、私から盃をとらせて空にさせ、そして空になった盃を私に与えさせた。私を旅立たせてくれる好意的な許可に対して私は殿下の手に接吻をした。かれの多数のバロンたちが階段のところまで送ってくれ、かれらからの好意の大きな証として抱擁をうけた。
by kenpou-dayori
| 2023-10-02 05:41
| イタリア・ロシア交渉史
|
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